六「見し人の煙」
源氏は無理を承知で惟光に頼んで、夕顔の亡骸に今一度対面すべく東山の尼の庵を訪ねたのでした。人里離れたもの寂しい所にひっそり立つ板ぶき屋根の小屋、近づくと中から読経の声が漏れてきます。それを聞けば源氏の目には再び涙が溢れてきます。
小屋に入ってみると、右近は夕顔の亡骸と屏風一枚隔てたところに居り、当の夕顔はまるで眠っているかのように、生きていた時と変わらぬ愛くるしい姿で横になっているのです。
原文で読みましょう。
入りたまへれば、火取りそむけて、右近は屏風隔てて臥したり。いかにわびしからむと、見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたるところなし。手をとらへて、「われに今一度声をだに聞かせたまへ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心をつくしてあはれに思ほえしを、うち捨ててまどはしたまふが、いみじきこと」と、声も惜しまず泣きたまふこと限りなし。大徳たちも誰とは知らぬに、あやしと思ひて、皆涙おとしけり。
源氏はもう一度声を聞かせてくださいと夕顔の手を握って声を挙げて泣いています。お経をあげていた僧や控えていた法師たちも、この方が誰とは知らないながら、源氏の悲しみに心を打たれて泣いています。夜が明けぬうちにお帰りにならなくてはと惟光にせかされて、右近はそこに残したままで源氏は帰途についたのでした。夜明け前の帰り道は、深い朝霧が立ち込めて、それでなくてもどこを通っているのかもわからないような感じなのですが、まして、源氏の君は今見て来た夕顔の姿が瞼に蘇って、何も目に入らないのでした。どういう前世からの縁でこんなことになったのだろうかと茫然とした思いが募るばかりでした。原文です。
惟光、「夜は明方になりはべりぬらむ。はや帰らせたまひなむ」と聞こゆれば、かへりみのみせられて、胸もつと塞がりて出でたまふ。道いと露けきに、いとどしき朝霧に、何処ともなくまどふここちしたまふ。ありしながらうち臥したりつるさま、うちかはしたまへりしわが御紅の御衣の着られたりつるなど、いかなりけむ契りにかと道すがらおぼさる。
そんな源氏の君の様子を見て惟光は源氏の馬にぴったり付き添っていたのですが、賀茂川堤のあたりで源氏はとうとう馬から滑り下りてしまいます。そして「もうこれ以上進めそうもない、ここで死ぬかもしれない」などと言うのです。これには惟光も動揺して、いくら頼まれてもあんな不吉な場所にお連れするんじゃなかったと自分の非常識な行為を反省し後悔します。ここはなんとかして無事に二条院に帰って頂かねばなりません。清水の観音様に祈り、源氏本人も仏に祈ってなんとか帰り着いたとあります。その部分を原文で読みましょう。
御馬にもはかばかしく乗りたまふまじき御さまなれば、また惟光添ひ助けておはしまさするに、堤のほどにて馬よりすべりおりて、いみじく御ここちまどひければ、「かかる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ。さらにえ行き着くまじきここちなむする」とのたまふに、惟光ここちまどひて、わがはかばかしくは、さのたまふとも、かかる道に率て出でたてまつるべきかは、と思ふに、いと心あはたたしければ、川の水に手を洗ひて、清水の観音を念じたてまつりても、すべなく思ひまどふ。君もしひて御心をおこして、心のうちに仏を念じたまひて、またとかく助けられたまひてなむ、二条の院に帰りたまひける。
そうやってようやく夜明け前に二条院にたどり着いたものの、それっきりすっかり具合が悪くなって、寝込んでしまいました。帝も心を痛めてあちこちに頼んで祈祷をしたとあります。そして世の人はあまりにもお美しい方なので長くは生きられないのではないかと噂したともあります。そんな重い病のうちながらも右近のことは気に掛けて二条院に呼び寄せました。右近自身も、五条の家に戻ってあれこれ聞かれたりするのは辛く、できれば避けたかったと思います。それ以上に、源氏が、夕顔を死なせてしまったという事実を隠蔽するために、右近を自分の管理下に置いたということでしょう。夕顔の死は封印されました。現代ではちょっと考えられないことかもしれませんが、夕顔と右近は身分高そうな男に連れ出されてそのまま行方不明になったというわけです。
さて、夕顔が亡くなったのは八月十六日の夜でした。それからちょうど一か月経って源氏は病気もほぼ良くなり、前回ちょっとお話した死の穢れに触れたことによる忌も30日なので、ちょうど果てて、久々にお出かけになり、宮中にも出仕しましたが、一度は死んだ自分が蘇ったような不思議な気持ちでした。そしてその後、九月二十日ごろにはすっかり元気になったのですが、ともすれば物思いにふけって涙をこぼしたりなさるので、周囲は物の怪がついているのではと心配したとあります。その後、右近を呼んで、夕顔のことを色々尋ねて、以前に気づいていた通り夕顔が、かつて雨夜の品定めの折りに頭の中将が話していた常夏の女であることを確認したのでした。原文で読みましょう。
九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなかいみじくなまめかしくて、ながめがちにねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、御もののけなめりなど言ふもあり。右近を召しいでて(略)「なほくはしく語れ。今は何ごとを隠すべきぞ(略)」とのたまへば「親たちは、はや亡せたまひにき。三位の中将となむ聞こえし。いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど、わが身のほどの心もとなさをおぼすめりしに、命さへ堪へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭の中将なむ、まだ少将にものしたまひし時、見そめたてまつらせたまひて、三年ばかりは志あるさまに通ひたまひしを、去年の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに、物懼をわりなくしたまひし御心にせむかたなくおぼし懼ぢて、西の京に、御乳母住みはべる所になむ、はひ隠れたまへりし」
右近の話によれば、夕顔は、それなりの地位にあった親がたいそう大切に育てていた娘だったが、その親は亡くなってしまった。そしてその後、三年ばかり頭の中将が通って来ていたが、正妻から脅されて、気の弱い夕顔は子供を連れて乳母の元に隠れ住んだ。ただその西ノ京の乳母の家も手狭だったりして、新たな住まいを見つけてそこに移るための準備で、五条の家にしばし滞在していたということでした。源氏は、頭の中将が可愛い女の子もいたのに一緒に行方をくらましてしまったと言っていたのを思い出して右近にその子のことを尋ねたりします。二人は夕暮れの庭を見ながら、しみじみと色々なことを語り合っています。右近は、自分が夕顔の乳母子であってその乳母が亡くなった後もずっと一緒に夕顔の親の家で育ったことなども語っています。
夕暮れの静かなるに、空のけしきいとあはれに、御前の前栽かれがれに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に画きたるやうにおもしろきを見わたして、心よりほかにをかしきまじらひかなと、かの夕顔の宿りを思ひいづるもはづかし。(略)「齢はいくつにかものしたまひし。あやしく世に人に似ずあえかに見えたまひしも、かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。「十九にやなりたまひけむ。(略)ものはかなげにものしたまひし人の御心を、たのもしき人にて、年ごろならひはべりけること」と聞こゆ。(略)
見し人の煙を雲とながむれば
ゆふべの空もむつましきかな
とひとりごちたまへど、えさしいらへもきこえず。かやうにておはしましかばと思ふにも胸ふたがりておぼゆ。
源氏は、空に浮かぶ雲を見て、煙となって空に昇った恋しい人があの雲になったのだと思えば、夕暮れの雲も親しいものに思われるなあと歌を詠んで夕顔を偲んでいます。右近は夕顔を懐かしむ気持ちとその不在を悲しむ気持ちで一杯です。そして「この二条院のお庭の夕景色を、お嬢様が一緒に源氏の君と並んでみておられたらどれ程嬉しかったろうに」と思うのでした。
若い頃の源氏の、中の品の女を求めての失敗した恋その2がこの夕顔の物語です。夜になれば白い花をそっとひらかせて朝日とともにしおれる美しくも儚い夕顔の花、その花そのもののような女性との束の間の恋の物語でした。
ただしこの夕顔の物語には続編があります。夕顔亡き後そのまま源氏の君の元でお仕えすることになった右近は、片時たりとも主人夕顔のことを忘れることはなく、その遺児を探し続けていました。そしてなんと十数年後にその遺児は見つかり、源氏の元に引き取られることになったのでした。いわゆる玉鬘の物語が始まるわけです。機会があればいつかそのお話もしたいと思います。
夕顔とはこれでお別れになります。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
第四章 通り過ぎた女君たち 其の四 第一話「義理の母藤壺の宮」は2025年6月12日~配信。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗