朱雀院八、口惜しきことども

柏木、横笛

※YouTube・Podcastsは3月16日0:00配信となります。

第3章 脇役に徹した男朱雀院 其の八「口惜しきことども」

 

 

 産後の肥立ちが悪く、すっかり弱ってしまった娘が、自分に会いたがっていると聞いて矢も楯もたまらず、突然源氏の屋敷にやってきた朱雀院。源氏の前で二人は久しぶりで互いの顔を見ます。院は「さあ、来たよ。会いたがっておられたという私の姿をしっかりごらん」と涙を流しながら言います。するとその父に向って宮は突然「私はもう生きていけないような気がしています。どうかこの機会に尼にして下さい」と言ったのでした。原文です。

  宮もいと弱げに泣いたまひて、「生くべうもおぼえはべらぬを、かくおはしまいたるついでに、尼になさせたまひてよ」と聞こえたまふ。「さる御本意あらば、いと尊きことなるを、さすがに限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かへりてことの乱れあり、世の人にそしらるるやうありぬべき」などのたまはせて、大殿の君に、「かくなむ進みのたまふを、今は限りのさまならば、片時のほどにても、その助けあるべきさまにてとなむ思うたまふる」とのたまへば、「日ごろもかくなむのたまへど、邪気などの、人の心たぶろかして、かかるかたにて進むるやうもはべるなるをとて、聞きも入れはべらぬなり」と聞こえたまふ。

 院は、「出家なさるのは尊いことではあるけれど、まだ若い身で出家するのは後々のことが心配だ」と、まずはなだめ、源氏に向かっては、「本当にこの先短い命なら、本人の希望をかなえてやりたいが」と相談しています。源氏の方は「いやいや日頃からそんなことをおっしゃっていますが、物の怪などが言わせているのだろうと相手にしていないのです」と全く問題にしないのでした。この時はまさか本当に宮が出家してしまうとは源氏は夢にも思っていません。自分が許さない限り、父宮が娘の願いを聞き入れるとは思わなかったのです。朱雀院は源氏の返事を聞いて、彼が娘の願いを軽く見ていて、その思いの切実さを全く受け止めていないことを感じ取ります。そしてこんなことを思ったのでした。院の思いを原文で読みましょう。

  御心のうち、限りなううしろやすくゆづりおきし御ことをうけとりたまひて、さしも心ざし深からず、わが思ふやうにはあらぬ御けしきを、ことに触れつつ、年ごろ聞こしめしおぼしつめけること、色に出でて恨みきこえたまふべきにもあらねば、世の人の思ひ言ふらむところもくちをしうおぼしわたるに、かかるをりにもて離れなむも、何かは、人笑へに、世を恨みたるけしきならで、さもあらざらむ、(略)またかの大殿も、さいふともいとおろかにはよも思ひ放ちたまはじ、その心ばへをも見果てむ、と思ほしとりて、

 「この男なら娘を幸せにしてくれるだろうと信じて託した源氏だったけれど、現実は違った、源氏は期待したようには娘を大切にしてはくれなかった、そのことを口に出して咎めることもできず、世間の噂もずっと気になっていた、この際、出産後の体調がひどく悪いということを理由に出家させるのが良いかもしれない。夫婦仲を恨んでの出家というふうに思われずに済む無難な道かもしれない。それに出家してしまえば、源氏もそれなりには面倒をみてくれるだろう」というふうに思ったのでした。この時点で朱雀院の気持ちは固まっています。 優柔不断な彼ですが、この時は娘の気持ち、源氏の体面を考えて決断したのでした。そして、源氏の了承を得ようとしますが、源氏はまさか本気で三宮が出家するつもりとは思っていません。慌てて止めようとしたのですが、結局押し切られてしまったのでした。原文です。

 「さらば、かくものしたるついでに、忌むこと受けたまはむをだに、結縁にせむかし」とのたまはす。大殿の君、憂しとおぼすかたも忘れて、こはいかなるべきことぞと悲しくくちをしければ、え堪へたまはず。(略)いと盛りにきよらなる御髪を削ぎ捨てて、忌むこと受けたまふ作法、悲しうくちをしければ、大殿はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ。院はた、もとより取り分きてやむごとなう、人よりもすぐれて見たてまつらむとおぼししを、この世には、かひなきやうにないたてまつるも、飽かず悲しければ、うちしほたれたまふ。「かくても、たひらかにて、同じうは念誦をもつとめたまへ」と聞こえ置きたまひて、明け果てぬるに、急ぎ出でさせたまひぬ。

 自分の意志などないかのような女三宮、そして、普段は優柔不断な朱雀院。しかし、この場面では二人は強い。源氏が泣いて制止するのを振り切って、朱雀は女三宮の願いを叶えることとし、控えていた僧を呼び入れて、涙にくれながら、目の前で髪を下ろさせたのでした。
 女三宮の出家を聞いた柏木は一層力を落とし、生きる意欲を全く失って、泡が消えるように死んでいきました。柏木は、女三宮の腹違いの姉、女二宮を妻としていました。柏木は名門の出で将来有望な青年でしたから、朱雀はこの結婚をたいそう喜び、源氏にあまり顧みられない三宮よりは二宮のほうが幸せかもしれないと言ったりしていたのでした。その女二の宮も女三宮ゆえに、考えようによれば源氏ゆえに、結婚間もない夫を失うことになったのでした。父親の朱雀院にしてみれば、三宮は、世間並の女としての幸せを捨てて出家してしまい、二宮もまた思いがけず夫を失って未亡人になってしまったということで、悲しくてたまらないのですが、この世の俗事に悩まされず、仏道に専念しようと自らを励まし、可愛い三宮が今では同じ仏の道に仕えているということを唯一の励みとして、しばしば三宮にお便りをする日々を送ったのでした。ある日は近くの山で採れた筍や山芋を届けたりもします。原文です。山の帝が朱雀院、入道の宮が女三宮です。

  山の帝は、二の宮も、かく人笑はれなるやうにてながめたまふなり、入道の宮も、この世の人めかしきかたは、かけ離れたまひぬれば、さまざまに飽かずおぼさるれど、すべてこの世のことをおぼしなやまじと忍びたまふ。御行ひのほどにも、同じ道をこそは勤めたまふらめなどおぼしやりて、かかるさまになりたまひてのちは、はかなきことにつけても、絶えず聞こえたまふ。
御寺のかたはら近き林に抜き出でたる筍、そのわたりの山に掘れる野老などの、山里につけてあはれなれば、たてまつれたまふとて、御文こまやかなる端に、
春の野山霞もたどたどしけれど、心ざし深く掘り出でさせてはべるしるしばかりになむ。
世を別れ入りなむ道はおくるとも同じところを君も尋ねよ
いと難きわざになむある。

 この後、柏木未亡人女二宮も、母の死を契機に出家しようとするのですが、この時は院が許しませんでした。まるで三宮の後を追うように同じ道をあゆむのは見苦しいし、出家した後、世話してくれる人もないのだから、思いとどまるようにと説得したのでした。結局二宮は出家はせず、やがて夕霧の第二夫人として過ごすことになりました。そのことについて、朱雀院は二宮の心のうちを思いやって、一切触れることはありませんでしたが、時折優しいお手紙などを出されたのではないでしょうか。物語にはその後朱雀院が登場する場面はなく、宇治十帖に入ってからすでに世にない人として語られています。

 朱雀院という人物について物語の展開を追って見てきました。彼には物語の主人公に与えられるような資質は決定的に欠けている。凡庸な人・青年期まではマザーコンプレックスで、また腹違いの弟光源氏に対するコンプレックスで、いつもうつむいているような人でした。ただ、源氏は手にすることのできなかった帝の位につき、退位してからも院として一定世間から尊崇される存在ではありました。晩年には、今度はとんでもなく子煩悩な父親ぶりをみせるのですが、彼の思惑ははずれてばかりでした。その幸せをひたすら願った女三宮も思うような幸せを手にいれることはなかったのでした。

 「しほたれたまふ」この言葉ほど朱雀にぴったりの言葉はありません。源氏物語には多くの使用例があるのですが、同一人物に繰り返し使われた例は朱雀院の他にはありません。朱雀院は何度も何度も「しほたれて」いるのです。はっきりと泣くのでもなくしょぼしょぼと涙をぬぐう。みじめな感じ。ただし、彼が源氏の光を際立たせるだけの存在だったのかといえばけっしてそうではないのです。実は、本人は全く意識しないことながら、源氏の運命を左右する役割を担っていたのが朱雀院なのです。

 もう一度源氏物語を振り返ってみましょう。よく考えてみると、主役光源氏の命運を大きく左右しているのが、じつは朱雀その人であったことがわかります。朱雀院はあまり意志的な人とは思えない。周囲の空気に同調しているだけのように見える。ところが、一旦彼が意思を持つと物語は大きく動くのです。母弘徽殿の意見を退けて、源氏の、明石からの召還を決意したこと。女三宮を源氏に委ねることを決めたこと。そして、女三宮を出家させたこと。源氏の栄華を築いたのも朱雀であり、源氏を苦悩の世界につきおとしたのも彼だったのです。 朱雀という脇役は、全くの無意識のうちに源氏の運命をあやつっていたのです。もちろん、本人にその自覚はありません。自分は無力な存在、源氏に圧倒され続けた、「しほたれる」ことしかできない人間だと思っています。けれども、実は、そのもっとも物語的ではない人物こそが物語を動かしているのでした。六条院という源氏世界の完成と同時にその崩壊に、朱雀院が、我知らず深く関わっているのです。
脇役に徹したこの男のちからこそが、物語を展開させる力となっているのでした。
 朱雀院という男の姿は皆さんの目にはどう映ったでしょうか。私はこの朱雀院、なんだかとても人間臭い男に思えてちょっと好きなのです。ともあれ、今回で朱雀院とはお別れすることになります。
おつきあいありがとうございました。










文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回新シリーズ「明石入道~光源氏に王権を奪還させた男」2024年4月11日~第2・4木曜日配信します。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗