六、石間の水

朝顔 少女

石間の水

 明石姫が二条院に引き取られた翌年の春、藤壺の宮が他界されました。源氏の君は深い悲しみに沈みます。藤壺の形代として源氏の元で育てられた紫の上が、藤壺の代わりになるなら、その存在によって源氏の君の悲しみは紛れるはずですが、そういうふうにはなりませんでした。いつの間にか紫の上は紫の上というひとつの人格を獲得していました。藤壺の宮を失うことによって源氏の君の心にぽっかり空いた穴を埋めることはできなかったのです。そんな中で源氏の君は二条院に里下がりしてきた養女斎宮の女御、六条御息所の娘で、源氏の養女格で入内した方ですが、その方に恋心を訴えて迫ってみたり、斎院を退下した朝顔斎院に言い寄ったりすることで、その傷を癒そうとします。朝顔斎院は源氏のいとこにあたる方ですが、若いころから、10年以上にわたって、ずっと思いを寄せていて、折に触れて便りを交わしてきた仲です。神にお仕えする斎院という立場でいらした間は少し遠慮していましたが、斎院を退下されたということで、源氏の恋心に火が付き、しげしげと手紙を書き、叔母五の宮とともに住む邸を訪ねるようになり、世間では源氏の正妻に朝顔が決まるという噂が流れるようになりました。その噂は紫の上の耳にも入り、彼女は不安でなりません。同じ年の秋の終わりごろです。原文で紫の上の気持ちを読みましょう。

  しばしは、さりとも、さやうならむこともあらば、隔ててはおぼしたらじとおぼしけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御けしきなども、例ならずあくがれたるも心憂く、まめまめしくおぼしなるらむことを、つれなくたはぶれに言ひなしたまひけむよ、と、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな、年ごろの御もてなしなどは、たち並ぶかたなく、さすがにならひて、人に押し消たれむこと、など、人知れずおぼし嘆かる。(略)さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしきことこそ、うち怨じなど、憎からず聞こえたまへ、まめやかにつらしとおぼせば、色にもいだしたまはず。

 まさか、本当にそんなことがあるなら、自分に隠しておいでになるはずがない、とは思う
ものの、源氏の君の様子をうかがってみると、どうもおかしい、やはり世間の噂は本当なのだろうかと思って心配でたまらないけれども、真剣に思い悩むがゆえに怨み言を口にすることもできず、じっと不安に耐えていたのでした。そういうものですよね。本当に心配なことは軽々しく口にはできないものですよね。
源氏は紫の上に多少は気がねしながらも、せっせと手紙を書き、宮中に泊まって、二条院
には帰って来ない日も多くなります。やがて冬が来ました。雪の舞うある日の夕暮れ、源氏の君は叔母五の宮を見舞うという口実で朝顔斎院を訪ねて行こうとしています。暇乞いをする源氏に目も向けず、紫の上は姫の相手をしています。

  「女五の宮のなやましくしたまふなるを、とぶらひきこえになむ」とて、ついゐたまへれど、見もやりたまはず、若君をもてあそびまぎらはしおはするそば目のただならぬを、「あやしく御けしきのかはれる月ごろかな。罪もなしや。(略)」など聞こえたまへば、「馴れゆくこそ、げに憂きこと多かりけれ」とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨てて出でたまふ道、もの憂けれど、宮に御消息聞こえたまひてければ、出でたまひぬ。かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよと思ひ続けて臥したまへり。鈍びたる御衣どもなれど、色あひかさなりこのましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶なる御姿を見出だして、まことに離れまさりたまはばと忍びあへずおぼさる。

 おばさまの見舞に行くと言うのが口実であることはわかっています。出かけて行く源氏の君の後姿はひとしお魅力的に見えます。紫の上はたまらない思いです。明石の君という愛人の存在は彼女を脅かすものではありえない。身分が違うからです。ところが、この朝顔斎院の場合は、元々の身分は紫の上と同等ですが、世間の評価は、明らかにあちらの方が高いのです。紫の上は正妻ではありません。正妻として朝顔が迎えられることになれば、自分はどうなるのだろうか、こんなことが起こるかもしれないという事を思っても見ずにこれまで暢気にすごしてきた自分が愚かに思えます。捨て去られるようなことはないにしても、源氏の君の心があちらの方に奪われて自分のところには滅多に来て下さらないと言うようなことになったらとても耐えられないと、ひとり嘆きを重ねています。
ただ、実は、朝顔の君は源氏の君の熱心な口説きにまったく応じる気がなく、決して靡こうとはしないのでした。朝顔という女性は源氏物語に登場する女性の中で一番志操堅固な方です。源氏の君はそのことにプライドを傷つけられ、このまま負けるわけには行かないと悩んで二条院には帰らず、宮中に泊まる夜が続いています。紫の上の寂しい思いは募ります。原文で読みましょう。大臣とあるのが源氏です。

  大臣は、あながちにおぼしいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむもくちをしく、げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことに、あらまほしく、ものを深くおぼし知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりておぼさるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをもおぼしながら、むなしからむはいよいよ人笑へなるべし、いかにせむと、御心動きて、二条の院に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみおぼす。
 
 冬本番となる頃、朝顔斎院との間は進展せぬまま、やや鬱屈した思いで源氏は二条院に帰ってきました。久しぶりに帰って来た源氏の君の前で紫の上は涙を隠すことができません。源氏の君は髪をなでて、ご機嫌をとるのに懸命です。しばらく家を空けてしまったのは、帝が母上を亡くされて寂しがっていらっしゃったのでね、などと言い訳をし、さらに、斎院にお手紙を差し上げていることで誤解なさっているのですか、それは思い違いですよ、あなたも少しお年はとられたけれどまだまだ子供ですね、などと言いながら、紫の上を可愛いやつだと改めて思っています。すこし原文をご紹介しましょう。

  「このほどの絶え間などを、見ならはぬことにおぼすらむもことわりにあはれなれど、今はさりとも心のどかにおぼせ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ」など、まろがれたる御額髪ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。
「いといたく若びたまへるは、誰がならはしきこえたるぞ」とて、常なき世にかくまで心おかるるもあぢきなのわざやとかつはうちながめたまふ。「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もしおぼしひがむるかたある。それは、いともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。(略)うしろめたうはあらじとを思ひ直したまへ」など、日一日なぐさめき  
こえたまふ。

 この日は一日中源氏の君は紫の上の側で過ごし、夜もずっと語らったのでした。源氏は
しみじみした思いに駆られて、藤壺の思い出話を紫の上に語り、あなたはよく似ているけれど、少し理性が勝っていて、柔らかさに欠けるところがありますね、などと言っています。しずかに更けてゆく冬の夜、二人で思い出話をし、源氏はこれまで関わって来た女性のことをあれこれと話して聞かせます。雪景色を見ながら語り合ううちに紫の上の気持ちも鎮まり、源氏の君への信頼がよみがえったのでした。それにしても、暖房も火鉢くらいしかないこの時代、人々は本当に寒さに強いです。外を見ながら一晩語り合ったら、私たちなら風邪ひきます。原文です。

 昔今の御物語に夜ふけゆく。月いよいよ澄みて、静かにおもしろし。女君、
 氷閉ぢ石間の水はゆきなやみ
 空澄む月のかげぞながるる
外を見出だして、すこしかたぶきたまへるほど、似るものなくうつくしげなり。髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとりかさねつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、
 かきつめて昔恋しき雪もよに
 あはれを添ふる鴛鴦の浮寝か

紫の上の歌にあるゆきなやむ水は自分の心でしょうか、そして源氏の君の歌の鴛鴦の浮寝は藤壺に寄り添う自分と紫の上に寄り添う自分を重ね合わせたイメージでしょうか。源氏は、この夜、改めて紫の上に藤壺の面影を見ています。亡き人への思慕と目の前にいる愛しい人。ここでは紫の上の顔が藤壺に似ていることが却って源氏をやるせない気持ちにしています。この後で、眠りについてから源氏は藤壺の夢を見てうなされ、驚いた紫の上がどうなさったのと心配しますが、源氏はその夢について語ることはしません。涙をひそかに流して動揺を隠して横たわる源氏の横で、紫の上は気遣いながらもじっと寝ているしかありませんでした。
心を開いて語り合って二人の心は溶け合ったかに見えましたが、自分にはわからない何事かが源氏の君の胸のうちにはあることを紫の上は感じたのでした。
この後、源氏の君は落ち着きを取り戻し、紫の上は妻として母として、満ち足りた日々を送ります。この頃、源氏はかねてからの願望であった新邸宅の造営にとり掛かりました。そこに、今はあちこちにいる妻たちを住まわせるのです。
三十代の半ばを迎えた源氏の君・まさに男盛りです、自らの力を形のあるものにして示したかった、そしてまた、自分の周りの女君たちを喜ばせたかった、ということでしょう。
四方四季の庭を持つ宏大な邸宅六条院の出現です。そこで始まった雅びで華やかな日々についてのお話は次回に回しましょう。










文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回第七回 「千年の春」 2022年5月5日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗