賢木、須磨
第3章 脇役に徹した男朱雀院 其の二「なよびたるかた過ぎて」
前にもお話しましたように、朱雀の母親は弘徽殿女御であり、祖父は右大臣です。左大臣系の桐壺院の崩御をきっかけに、右大臣はこれまで拮抗していた左大臣との力関係を、この際一気にわが方に引き寄せようと考えており、また、桐壺からの愛をあまり受けることのなかった弘徽殿女御は、桐壺帝に寵愛された更衣の息子である光源氏を憎み、何とかして排除したいと考えていました。
藤壺の産んだ現春宮は、源氏を後見役としており、このまま次の代になれば当然光源氏の勢力は強くなり、再び左大臣側が有力になってしまうことは目に見えています。右大臣側は、何とか口実をもうけて、春宮を置き換える事をねらっていたのでした。一方、朱雀帝は、父桐壺院から今後、世をおさめるにあたっては何事も光源氏を頼るようにと言われていたにもかかわらず、彼を重く用いることはできなかったのでした。幼いころから母の庇護を受け、母の意のままに動いてきた朱雀は、祖父右大臣と母弘徽殿女御の前で、まったく無力だったのです。父の遺言を守ろうとはしたけれど、それは母や祖父に阻まれたのでした。原文です。
帝は院の御遺言違へず、あはれにおぼしたれど、若うおはしますうちにも、御心なよびたるかたの過ぎて、強きところおはしまさぬなるべし、母后、祖父大臣とりどりにしたまふことは、え背かせたまはず、世のまつりごと、御心にかなはぬやうなり。
常に比べられてきた弟源氏に対して、彼自身は悪い感情は持っていなませんでした。むしろ優れた資質に恵まれた弟を愛し、憧れていたと言ってもいいでしょう。朱雀は嫉みやそねみといった暗い感情を持たない人です。朧月夜という女性をめぐる二人の関係からもそれはよくわかります。朧月夜は尚侍として朱雀帝の後宮にお仕えしています。尚侍は元々は内侍司の長官で官職名なのですが、実際には女御更衣に準ずるものとなっていたようです。少し原文を引用しましょう。御匣殿とあるのが朧月夜です。
御匣殿は、二月に尚侍になりたまひぬ。(略)やむごとなくもてなして、人がらもいとよくおはすれば、あまた参り集まりたまふなかにも、すぐれて時めきたまふ。后は、里がちにおはしまいて、参りたまふ時の御局には梅壺をしたれば、弘徽殿には尚侍の君住みたまふ。登花殿の埋もれたりつるに、晴れ晴れしうなりて、女房なども数しらずつどひ参りて、今めかしう花やぎたまへど、御心のうちは、思ひのほかなりしことどもを忘れがたく嘆きたまふ。いと忍びて通はしたまふことは、なほ同じさまなるべし。
朱雀帝は多くの女御更衣をしり目に朧月夜を寵愛したとあります。局も、弘徽殿女御は里がちになられたため、その後を与えられて、弘徽殿に住むことになりました。後宮における一等地です。女房も増えて、華やかな暮らしぶりでした。それでも、朧月夜の心は今もまだ光源氏に占められていて、源氏の君でなく、朱雀帝のものとなったことを嘆き、いまだに密かに源氏と連絡をとりあっていたというのです。
朧月夜は右大臣の可愛がっていた娘で、弘徽殿女御の年の離れた妹です。初めから朱雀に入内させるつもりで大切に育てた娘なのです。(ということは、右大臣は上の娘の子、彼にとっては孫になるわけですがその子と下の娘を結婚させようとしたわけです。甥と叔母の関係ですね。今の私たちの感覚からすれば奇妙な感じがしますが、こういうことは当時ままあることで、道長が実際に娘たちを次々に歴代の天皇に嫁がせています。)
話を元に戻して、その、当時は東宮であった朱雀に入内する予定の朧月夜に偶然ある夜近づいた源氏は彼女と契りを結んでしまいました。光源氏20歳のころのことです。後になって相手の女性がそういう人であったことに気づきますが、そのことで、彼は、遠慮するどころか、一層彼女に執着することになったのでした。帝の位以上に自分の魅力は大きいのだと確認したかったのかもしれません。尚侍として彼女が後宮にはいった後も、二人は密会を重ねていました。そして、引用した原文にあったように朧月夜は帝よりも源氏の君に心を惹かれていたのでした。
さて、そのころ、色々面白くないことが続いて、しばらく雲林院という寺に籠っていた源氏が戻ってきて、参内し、久しぶりで兄朱雀帝と対面し色々語り合うという場面があります。原文で読みましょう。
まづ内裏の御方に参りたまへれば、のどやかにおはしますほどにて、昔今の御物語聞こえたまふ。御容貌も、院にいとよう似たてまつりたまひて、今すこしなまめかしき気添ひて、なつかしうなごやかにぞおはします。かたみにあはれと見たてまつりたまふ。尚侍の君の御ことも、なほ絶えぬさまに聞こしめし、けしき御覧ずるをりもあれど、何かは、今はじめたることならばこそあらめ、ありそめにけることなれば、さも心かはさむに、似げなかるまじき人のあはひなりかし、とぞおぼしなして、とがめさせたまはざりける。
二人は互いに相手の顔に父親との血のつながりを見て、しみじみとした思いです。興味深いのは、尚侍の君つまり朧月夜と源氏の関係について朱雀の思いです。二人の密会が続いていることを薄々知っていながらそれを容認し、「似げなかるまじき人のあはひなりかし」似合いの二人だから・・・・とお咎めになる気持ちはなかったとあります。なんとおおらかなのでしょう。
こうして当事者の朱雀は許していた二人の間でしたけれども、右大臣家の人たちは勿論許すはずはありません。それでなくとも、母親の弘徽殿女御は、光源氏と比べられて平気でいるこの心優しく気弱な息子をふがいないとも情ないとも思い、じれったい気持ちでいたのですから。世の中の状況を鑑みれば、源氏は行動を慎むべき時でした。けれども彼にはそういうハドメはききません。
ある時、源氏が、右大臣邸に里帰りしている朧月夜と密会しているところを父親右大臣に見つかってしまったのです。二人はしめしあわせて、毎晩のように右大臣邸での逢い引きを重ねていたのです。大胆過ぎる行為でした。
現場を見つけて、はらわたの煮えくり返る思いで右大臣は長女弘徽殿の部屋に走ったのでした。弘徽殿大后の反応が書かれているところを少しご紹介しましょう。
かく一所におはして隙もなきに、つつむところなく、さて入りものせらるらむは、ことさらに軽め弄ぜらるるにこそは、とおぼしなすに、いとどいみじうめざましく、このついでにさるべきことども構え出でむに、よきたよりなり、とおぼしめぐらすなるべし。
自分たちが同じ屋敷にいると知りながら朧月夜の元にやってくるなんて、私たちを馬鹿にしてるのね!と弘徽殿女御は怒っています。そして、腹をたてただけではありません。心の内で、にんまりしてこれは源氏を失脚させ、そちら側の勢力を一掃するチャンスであると考えたのでした。
朧月夜は自宅謹慎となり、源氏はすべての官職を解かれ、流罪の決定も間近とささやかれるようになり、彼は須磨へ自主的に隠棲する道を選びました。この時、朱雀帝は何の発言力も持っていませんでした。源氏を庇うことは勿論できず、朧月夜に対しても一定の処分をしないわけにはいきません。
しかし朱雀の朧月夜への愛情は増しこそすれ、衰えることはなかったのです。謹慎を許されて戻って来た朧月夜を傍らから離さなかったのでした。源氏に愛された女性を我が物としているという屈折した感情もあったのかもしれません。原文で読みましょう。
七月になりて参りたまふ。いみじかりし御思ひの名残なれば、人のそしりもしろしめされず、例の、うへにつとさぶらはせたまひて、よろづに怨み、かつはあはれに契らせたまふ。御さま、容貌もいとなまめかしうきよらなれど、思ひ出づることのみ多かる心のうちぞかたじけなき。
周囲の非難も意に介さず、帝は変わらぬ愛情を彼女に注いだのですが、恐れ多いことに朧月夜は、帝もお美しくて魅力的ではいらっしゃるけれどやはり源氏の君のほうがいいわと彼を懐かしんだのでした。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
次回2024年1月11日 脇役に徹した男朱雀院 其の三「御目わづらふ」
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗