若菜下
満願
明石の女御(これまでは明石姫と呼んでいましたが、もう女御と呼びましょう)の御子誕生というおめでたいできごとがあった同じ三月の末、六条院で蹴鞠の会がありました。夕霧が若公達を誘って開いたものです。源氏の君は元気な若者たちのプレーを兵部卿の宮と眺めています。桜舞い散る美しい夕映えの庭です。原文を読みましょう。
原文では夕霧は大将、柏木は督の君、衛門の督と呼ばれています。
大将(夕霧)も督の君(柏木)も、皆おりたまひて、えならぬ花の蔭にさまよひたまふ夕ばえ、いときよげなり。(略)ゆゑある庭の木立のいたく霞みこめたるに、色々紐ときわたる花の木ども、わづかなる萌黄の蔭に、かくはかなきことなれど、よきあしきけぢめあるをいどみつつ、われも劣らじと思ひ顔なるなかに、衛門の督のかりそめに立ちまじりたまへる足もとに並ぶ人なかりけり。容貌いときよげに、なまめきたるさましたる人の、用意いたくして、さすがに乱りがはしき、をかしく見ゆ。御階の間にあたれる桜の蔭に寄りて、人々、花の上も忘れて心に入れたるを、大殿も宮も、隅の高欄に出でて御覧ず。
この場面、あまりにも美しい、桜舞い散る春の夕暮れ、若い貴公子たちが興じる蹴鞠。若者たちの中でも柏木が目立って蹴鞠が上手で他の誰も足元にも及ばなかったとあります。
この後、柏木と夕霧は二人で桜の下の階段に座って休みますが、その後は女三宮の住まいです。もしやちらとでもお姿が見えないかと二人とも横目で見ています。するとそこから突然紐に結ばれた子猫が飛び出してきて、御簾が持ち上がり、お部屋の中がすっかり見えてしましました。そして、そこには、はっきりその人とわかる女三宮が立っていたのです。
几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東のそばなれば、まぎれどころもなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎに、あまたかさなりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なるべし。御髪の末までけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、末のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七八寸ばかりぞあまりたまへる。御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへる側目、言ひ知らずあてにらうたげなり。
二人は宮の全身、そして横顔までしっかり見てしまったのでした。小柄でなんとも愛らしいお姿でした。姿を見せてしまった女三宮に対し、夕霧は紫の上の心用意と比較して、三宮の不注意、心浅さを思いますが、柏木は、こうして、姿を垣間見ることになったのも、何か自分たちの間に縁があるからだろうという風に考えます。
これから後、柏木は彼女のことが頭から離れません。柏木は、琴や笛の名手であり、蹴鞠にも優れた技量を発揮する魅力的な青年として、源氏に可愛がられてきました。柏木にとっては、偉大な光源氏は尊敬と憧れの対象であり、その源氏の妻女三宮に対する執着は捨てられないが、我が物とするなどという大それたことを考えているわけではありません。けれども、女三宮の顔を見たことになんらかの宿命的なものを感じ、せめて胸のうちを直接伝えたいと願って、宮の女房の小侍従を通じてお手紙を出したりします。勿論お返事はありません。さて、それから四年の歳月が流れて、冷泉帝が退位されることになりました。原文です。
はかなくて年月もかさなりて、内裏の帝、御位に即かせたまひて十八年にならせたまひぬ。「次の君とならせたまふべき御子おはしまさず、ものの栄なきに、世の中はかなくおぼゆるを、心やすく、思ふ人々にも対面し、私ざまに心をやりて、のどかに過ぐさまほしくなむ」と、年ごろおぼしのたまはせつるを、日ごろいと重くなやませたまふことありて、にはかにおりゐさせたまひぬ。(略)六条の女御の御腹の一の宮、坊にゐたまひぬ。さるべきこととかねて思ひしかど、さしあたりてはなほめでたく、目おどろかるるわざなりけり。
冷泉帝の退位で、朱雀院の子が帝となり、明石の女御の一の宮が東宮となりました。冷泉帝に子がなかったことを源氏は心中物足りなく残念に思いましたが、その一方で、秘密が公になることなく帝としての歳月を全うされたことにそっと胸をなでおろす思いでもありました。冷泉帝の血筋は絶えましたが、娘の血筋から帝が出ることは確実になりました。源氏の君自身は手にすることの出来なかった帝の位を、やがては孫が手にするのです。源氏の生き方をある意味規定してきた宿願がほぼ叶ったと言えるでしょう。
こうして、明石の女御の子が東宮に即位したことから、源氏の君は満願のお礼参りを住吉に行うことにしました。源氏の質素にという意向とは裏腹にたいそうにぎにぎしい参詣となりました。この際京の外を見せてやろうと紫の上も伴ってのお参りです。明石の女御、明石の君、尼君もお供しています。その様子、少し原文で読みましょう。
なほ世の中にかくおはしまして、かかるいろいろの栄えを見たまふにつけても、神の御助けは忘れがたくて、対の上(紫の上)も具しきこえさせたまひて詣でさせたまふ響き世の常ならず。(略)数も知らず、いろいろに尽くしたる上達部の御馬鞍、馬副、随身、小舎人童、次々の舎人などまで、ととのへ飾りたる見物、またなきさまなり。
舞人や神楽の一行もひき連れ、上達部も、大臣の二人以外はみなお供したとありますから大変な行列だったことでしょう。住吉の浜で、その、派手やかで賑やかな自分の一行を見て、源氏はかつての須磨明石の流浪を思い、須磨まで尋ねて来てくれた致仕の大臣かつての頭中将を恋しく思ったのでした。
当時は海に面していた住吉神社の神前で夜通し神楽が奏され舞人もそうではない上達部たちも皆舞い、歌を詠み交わします。日常を離れた空間に身をおいて、酒のせいばかりではなく皆酔いしれ、朝が来て帰らねばならぬことを残念に思ったのでした。一コマを原文で読みましょう。
ほのぼのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末もたどたどしきまで、酔ひ過ぎたる神楽おもてどもの、おのが顔をば知らで、おもしろきことに心はしみて、庭燎も影しめりたるに、なほ「万歳、万歳」と、榊葉を取り返しつつ祝ひきこゆる御世の末、思ひやるぞいとどしきや。よろづのこと飽かずおもしろきままに、千夜を一夜になさまほしき夜の、何にもあらで明けぬれば、かへる波にきほふもくちをしく、若き人々思ふ。
この源氏の君の住吉詣では、しばらくは世の人々の語り草となりました。
さて、新しく帝になられたのは朱雀院の御子で、女三宮の義理の兄にあたる方です。そんなことから朱雀院の意向を受けて、帝は宮の、親王としての位を上げ、二品としました。(親王の位は一品から四品まである)そのことによって、宮の所得は増え、勢いも増し、源氏の君の宮に対する扱いもより鄭重にならざるを得なくなったのでした。その結果、以前はあまり多くはなかった宮への通いも、紫の上とおなじ程度になっていったのでした。
紫の上はそのことを無理もない事と思いながらも辛く、明石の女御の産んだ孫たちを手元に引き取って可愛がることで寂しさを紛らせていました。そして心の内では、すっかり見捨てられてしまう前に出家したいという思いが次第に強くなっていたのでした。一度それを口にしましたが、源氏はとんでもないこと、と全く相手にしてくれません。源氏の中では紫の上は心の支え、なくてはならない人になっています。特に手当をしなくても二人の間の信頼関係は揺るがないと思い込んでいるのです。当時の源氏は、幼さの抜けない女三宮を教育することに心を傾けていたのでした。それは紫の上に対する愛情とは全く別のものでした。けれども、そんな源氏の思いは紫の上には伝わりません。表には出さないけれど、紫の上の心のうちには索漠たる光景が広がりつつありました。源氏はそこに思いを致すことができません。
夫婦の間ってそういうものかもしれませんね。今回はここまでです。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
次回「明け暗れ」2021年12月3日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗