四、まことに心づきなし

義理の母 藤壺の宮
四「まことに心づきなし」

 

 

 桐壺帝は紅葉の賀のころから譲位の心づもりをしておいででしたが、その翌年の春、最後の華やかな行事として花の宴を催したのでした。二月二十日といえば今の暦では三月末から四月始めの頃でしょうか。この時も、相変わらず光源氏の詩の朗詠や舞はすばらしく藤壺も心を動かさずにはいられません。その複雑な思いを歌にして、ひとりそっとつぶやいたのでした。原文です。宰相の中将とあるのが源氏の君です。藤壺は后、中宮と呼ばれています。
 
  きさらぎの二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。后、春宮の御局、左右にして、まうのぼりたまふ。(略)日いとよく晴れて、空のけしき、鳥の声も、ここちよげなるに、親王たち、上達部よりはじめて、その道のは、皆、探韻たまはりてふみつくりたまふ。宰相の中将、「春といふ文字たまはれり」と、のたまふ声さへ、例の、人に異なり。(略)かうやうのをりにも、まづこの君を光にしたまへば、帝もいかでかおろかにおぼされむ。中宮、御目のとまるにつけて、春宮の女御のあながちに憎みたまふらむもあやしう、わがかう思ふも心憂しとぞ、みづからおぼしかへされける。
    おほかたに花の姿を見ましかば
       つゆも心のおかれましやは

 藤壺の歌は「特別な思いなしにこの源氏の君のお姿を見ることができたなら大っぴらに感動できるのでしょうけど、私はそうはいかないのだわ」といったような意味でしょうか。
 このあと間もなくして桐壺帝は譲位し、朱雀帝が即位、藤壺の産んだ御子は無事春宮となりました。宮中を去って上皇御所に移った桐壺院は、折りに触れて管弦の催しを楽しんだりして、藤壺中宮とともに穏やかな日々をすごしておいででした。息子である春宮と毎日会うことができないことがお二人、とりわけ藤壺にとっては寂しいことでした。院は春宮に関しては源氏を頼みとしていて、あれこれを源氏に依頼されるので、源氏は気が咎めながらも嬉しいのでした。
 それから二年ばかり過ぎて、桐壺院は病の床につきました。源氏23歳、藤壺28歳、春宮は5歳くらいでしょうか。重篤な病状という噂を聞いて天下の人は皆嘆いたとあります。院は見舞いに訪れた朱雀帝に春宮のことをよろしく頼むと言い、他には、何ごとも源氏を相談相手とし、頼りにするようにとこの二つを言い残したのでした。その日からまもなく院は亡くなってしまいました。退位後もその勢力は衰えることなく政界を支配していたその力が消えてしまえば、現在の帝朱雀帝はまだ若くて力もないゆえ、帝の母弘徽殿女御や、その父である右大臣方の思いのままに世は動くのではないかと人々は嘆いたとあります。
 藤壺中宮や源氏が悲嘆にくれたことはいうまでもありません。原文で読みましょう。

  おどろおどろしきさまにもおはしまさで、かくれさせたまひぬ。足を空に思ひまどふ人多かり。(略)中宮、大将殿などは、ましてすぐれてものもおぼしわかれず、のちのちの御わざなど、孝じつかうまつりたまふさまも、そこらの親王たちの御中にすぐれたまへるを、ことわりながら、いとあはれに、世人も見たてまつる。(略)御四十九日までは、女御、御息所たち、みな院につどひたまへりつるを、過ぎぬれば、散り散りにまかでたまふ。(略)馴れきこえたまへる年ごろの御ありさまを思ひ出できこえたまはぬ時の間なきに、かくてもおはしますまじう、みなほかほかへと出でたまふほど、悲しきこと限りなし。宮は三条の宮にわたりたまふ。

 院が亡くなれば上皇御所は閉じられることになります。四十九日の法事までは女御、御息所などみな御所にいらしたけれど、それが過ぎれば皆それぞれに里に退出したとあります。藤壺は、院と共に過ごした思い出の場所を去りがたい気持ちですが、そのままここに居る訳にはゆかず、三条の宮に退出しました。里に下がるのは久しぶりだったので、実家なのに人の家のような気がしたと書かれています。
 また、藤壺は、源氏の自分に対する執着が衰えていないことを感じているので、上皇御所を出て自宅に戻ったことは不安の種です。桐壺院が何も知らぬままに亡くなったことを思うとそれだけでも恐ろしいのに、源氏との間に噂が立つようなことになれば、自分自身も春宮もどんな目に遭うかわかりません。源氏を身近に寄せ付けないように、きっぱり縁を切ることができれば良いのですが、そうは行きません。右大臣側が幅を利かす世の中となった今、わが子春宮を守ってくれる存在として頼れるのはこの人しかないのです。藤壺は源氏の恋心を鎮めるようにと神仏にも祈り、あらゆる工夫をして源氏を寄せ付けないようにしていたのですが・・・・・。原文で読みましょう。

  またたのもしき人もものしたまはねば、ただこの大将の君をぞ、よろづに頼みきこえたまへるに、なほこの憎き御心のやまぬに、ともすれば御胸をつぶしたまひつつ、いささかもけしきを御覧じ知らずなりにしを思ふだに、いと恐ろしきに、今さらにまた、さる事の聞こえありて、わが身はさるものにて、春宮の御ためにかならずよからぬこと出で来なむとおぼすに、いと恐ろしければ、御祈りをさへさせて、このこと思ひやませたてまつらむと、おぼしいたらぬことなくのがれたまふを、いかなるをりにかありけむ、あさましうて近づき参りたまへり。

 あれほどまでに厳重に警戒してきたのに、ある夜どのような機会をとらえたのか源氏が忍び込んできたのです。慎重に用意を重ねた上でのことで、このことを知るものはいません。源氏は藤壺への熱い思いをひたすら語り続けるのですが、あまりのことに衝撃を受けた藤壺はそれにお応えするどころではありません。とうとう胸を詰まらせて苦しみはじめなさったので、近くに控えていた命婦と弁が驚いて介抱したのでした。他の女房たちも集まって来るので源氏の手引きをした二人はあわてて源氏を塗籠(押し入れのようなものですね)に隠します。原文です。
 
  心深くたばかりたまひけむことを、知る人なかりければ、夢のやうにぞありける。
まねぶやうなく聞こえ続けたまへど、宮、いとこよなくもて離れきこえたまひて、果て果ては御胸をいたうなやみたまへば、近うさぶらひつる命婦、弁などぞ、あさましう見たてまつりあつかふ。(略)御なやみにおどろきて、人々近う参りてしげうまがへば、われにもあらで、塗籠に押し入れられておはす。

 やがて夜が明けるのですが、源氏はそのまま塗籠の中に隠れていて、命婦と弁は、どうすれば人目につかぬようにお帰りいただけるだろうかと悩んでいます。ところがこの日の暮れるころになって、なんと、源氏は、人気のないのを見計らって、屏風の後ろを伝ってこっそり藤壺に接近したのでした。気配を察して、藤壺は逃れようとするのですが、源氏に長い髪を抑えられてしまって、その腕から逃れることができません。源氏は狂ったようになって涙を流しながら藤壺への思いを訴えるのですが、藤壺はただただ厭わしいという思いで返事もしないのでした。そうこうするうちに夜明けが近づき、命婦と弁に懇願されて、源氏は、最後に藤壺に歌を詠みかけて茫然自失の体で三条の宮を去ったのでした。原文です。
 
  けはひしるく、さと匂ひたるに、あさましうむくつけうおぼされて、やがてひれふしたまへり。見だに向きたまへかしと、心やましうつらうて、引き寄せたまへるに、御衣をすべし置きて、ゐざりのきたまふに、心にもあらず、御髪の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世のほどおぼし知られていみじとおぼしたり。男も、ここら世をもてしづめたまふ御心みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづのことを泣く泣く怨みきこえたまへど、まことに心づきなしとおぼして、いらへも聞こえたまはず。(略)
「 逢ふことのかたきを今日に限らずは
今幾世をか嘆きつつ経む
御ほだしにもこそ」と聞こえたまへば、さすがにうち嘆きたまひて、
「 ながき世のうらみを人に残しても
かつは心をあだと知らなむ」
はかなく言ひなさせたまへるさまの、言ふよしなきここちすれど、人のおぼさむところもわが御ためにも苦しければ、われにもあらで出でたまひぬ。

 ここは源氏の、若さゆえの、常識はずれな、激情に任せた行動、それを必死で拒み続ける藤壺がぶつかり合う息も詰まる場面です。こんな時でも歌を贈られれば返す当時の貴族の感覚は私たちにはなかなか理解し難いものです。源氏の歌は「お逢いすることが難しいのが今日だけでないのなら、私は、生まれ変わっても幾世もなげきつづけなければならないのでしょうか」というような意味で、切実さがこもっていますが、藤壺の方は「私に逢えないことをずっと恨むとかおっしゃってもそんな心はすぐにお変わりになるに決まっていますわ」と受け流しています。こんなことが起これば藤壺は源氏の恋心を確実に封じる方法を考えずにはいられません。
 そこで彼女は次の行動に移ったのでした。ここからは次回といたしましょう。










文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


第四章 通り過ぎた女君たち 其の四 義理の母藤壺の宮 第五話「御髪おろしたまふ」は2025年8月14日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗