十七、野分

野分、行幸、藤袴、真木柱

野分

 季節はうつり、秋、野分の頃となりました。野分は今で言う台風です。野分の吹き荒れた翌朝、風見舞いに春の舘を訪れた夕霧は、紫の上の姿を見てしまいます。屏風や几帳などの目隠しが片付けられていたためです。これまで、厳重に隠されていて、夕霧はこの義理の母の姿をちらとでも見たことは一度も無かったのです。原文です。

  御屏風も、風のいたく吹きければ、押し畳み寄せたるに、見通しあらはなる廂の御座にゐたまへる人、ものにまぎるべくもあらず、気高くきよらに、さとにほふここちして、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見るここちす。あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。(略)大臣のいとど気遠くはるかにもてなしたまへるは、かく見る人ただにはえ思ふまじき御ありさまを、いたり深き御心にて、もしかかることもやとおぼすなりけり、と思ふに、けはひ恐ろしうて立ち去るにぞ、西の御方より、内の御障子引きあけてわたりたまふ。

 紫の上を見た夕霧は一目で魂を奪われ、今まで父親が自分を彼女から厳しく遠ざけていた理由を理解したのでした。ここにも前回お話した「重ね」が見られます。源氏が義理の母藤壺に憧れたように夕霧も義理の母紫の上に憧れるのです。ただし、父親のように突っ走ることはありません。ただ、まぶたに焼き付いたあの美しいお姿をもう一度見たいとずっと願い続けただけでした。その夕霧の願いが叶ったのは、十数年後、紫の上が息を引き取った時でした。
この時の野分は激しくて、この日の夜半まで吹き続けました。翌朝、夕霧は再び春の舘を訪れました。紫の上の気配でも感じられたらと、夕霧は密かに期待していましたが、彼の来訪に気づいた源氏は、すぐに、自分の代理として秋好む中宮の住む秋の舘を見舞うように命じます。
夕霧の目に映った秋の舘の庭の様子を原文で読みましょう。秋に合わせた色あいの着物を着た女の子たちが、それぞれに虫籠を手にして庭をさまよい、虫に露を与えています。絵を見るような場面です。

  童女おろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、いろいろの籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども取り持て参る霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。



 秋の舘から戻ると、夕霧は、今度は父の御供をして六条院に住む女君のところを順に風見舞に回ります。明石の君の所では外から声をお掛けになっただけでしたが、玉鬘の所では部屋の中に入ってしばらく話し込んでおいでです。夕霧は、ここでまた垣間見を試みます。なにしろ、野分の時は垣間見の絶好のチャンスですから。見えました!原文で読みましょう。

  見やつけたまはぬと恐ろしけれど、あやしきに心もおどろきて、なほ見れば、柱隠れにすこしそばみたまへりつるを、引き寄せたまへるに、御髪の並み寄りて、はらはらとこぼれかかりたるほど、女も、いとむつかしく苦しと思ひたまへるけしきながら、さすがにいとなごやかなるさまして、寄りかかりたまへるは、ことと馴れ馴れしきにこそあめれ、いであなうたて、いかなることにかあらむ、思ひ寄らぬ隈なくおはしける御心にて、もとより見馴れ生ほしたてたまはぬは、かかる御思ひ添ひたまへるなめり、むべなりけりや、あなうとまし、と思ふ心もはづかし。

 見つかるかもしれない、とドキドキしながら、十五歳の純情な少年夕霧が見たのは、父が、娘の玉鬘を抱き寄せてひそひそと耳に何ごとかを囁きかけている場面だったのです。「身近で育ったのでない娘だからこんな色めいた気持ちをお持ちになるのだろうか。ああ汚らわしい」と思い、そんなことを思う自分がまた恥ずかしいと書かれています。
さて、その翌年のことになりますが、源氏の君は、悩んだ末、帝からの要請に応じて、玉鬘を尚侍として宮中に出仕させる決心をしました。六条院を里として出仕させれば、里帰りした時には逢うこともできるという計算でもありました。そのためにはまず遅れている裳着の儀式を済ませねばなりません。その儀式を利用して、この際、隠しておいた玉鬘の素性を明らかにしておこうと考えた源氏の君は、裳着の儀式に内大臣(頭中将)を招くことにし、事実を打ち明けたのでした。自分の子だと思って引き取ったのだが、年齢を確かめてみると、どうやらあなたの子らしいというふうに。まあ、DNA鑑定などありませんから、本当は誰の子かわからないわけですよね。
尚侍に任命された玉鬘は十月に入内と決まり、思いを掛けていた男たちは、焦燥に駆られて、次々と恋文や怨みの手紙を届けます。中でも髭黒の大将はあれこれ伝手を辿って最後のチャンスを狙っていました。
そして、なんとその髭黒の右大将が入内前に玉鬘を強引に奪ってしまうという思いがけない事件が起こったのです。弁のお元という女房が手引きしたのでした。帝も残念に思われ、源氏も歯噛みする思いでしたが、取り返しのつかないことでした。髭黒は六条院に婿として通うようになったのです。原文です。



  大将は名に立てるまめ人の、年ごろいささか乱れたるふるまひなくて過ぐしたまへる名残なく、心ゆきて、あらざりしさまに好ましう、宵暁のうち忍びたまへる出で入りも、艶にしなしたまへるを、をかしと人々見たてまつる。
女は、わららかににぎははしくもてなしたまふ本性も、もて隠して、いといたう思ひ結ぼほれ、心もてあらぬさまはしるきことなれど、大臣のおぼすらむこと、宮の御心ざまの、心深う、情々しうおはせしなどを思ひ出でたまふに、はづかしう、くちをしうのみ思ほすに、もの心づきなき御けしき絶えず。

 これまでは、世にも稀なほどの堅物と思われていた髭黒大将が、まるで人が変わったように色男を気取って六条院へ通う姿はなかなかの見ものでした。一方玉鬘のほうは、朗らかだった性格もどこへやら、すっかりふさぎ込んで、源氏の君のことや蛍兵部卿のことを思っています。
 十月に予定されていた玉鬘の入内は、髭黒との一件によって、消えてしまったわけですが、尚侍としての公務は続けています。尚侍は、帝の寝室に侍る場合も多かったようですが、本来の公務を担うだけという場合もありました。帝からそういう形でよいから出仕するようにとの催促があって、翌年の正月に玉鬘は宮中に局を頂いて参内することになりました。髭黒は気が気ではなく、一緒に参内して宿直所に泊まって、はらはらしています。二日目の夜、帝が玉鬘の部屋を訪問されました。玉鬘は、帝の、源氏の君そっくりの面差しに感動、歌を詠みかわしたのでした。髭黒は帝がお渡りになったと聞いて、もうすぐにも退出させようと、手を打って、その夜のうちに自邸に連れ帰ってしまいます。髭黒は始めからそのつもりでした。宮中への出仕を利用して玉鬘を六条院から自宅へ移そうと企んでいたのです。源氏の君は腹を立てますが、取り戻すこともできないのでした。一か月ほどが過ぎて源氏の君は玉鬘への手紙を右近あてに出します。右近は、玉鬘と共に髭黒邸に移っています。原文です。

  二月にもなりぬ。(略)雨いたう降りて、いとのどやかなるころ、かやうのつれづれもまぎらはしどころにわたりたまひて、かたらひたまひしさまなどの、いみじう恋しければ、御文たてまつりたまふ。右近がもとに忍びてつかはすも、かつは思はむことをおぼすに、何ごともえ続けたまはで、ただ思はせたることどもぞありける。
   かきたれてのどけきころの春雨に
    ふるさと人をいかに偲ぶや
  つれづれに添へても、うらめしう思ひ出でらるること多うはべるをいかでかは聞こゆべからむ
などあり。隙に忍びて見せたてまつれば、うち泣きて(略)、げにいかでかは対面もあらむとあはれなり。


 手紙は、右近の目にも触れることを慮って、玉鬘へのあふれる思いを抑えたごく簡単なものでしたが、それを読んだ玉鬘は源氏恋しさの涙にむせんだのでした。
 源氏の君の美貌に馴れ、六条院の文化に染まっていた玉鬘にとって、粗野で武骨な髭黒との結婚はどれほど悲しいことだったでしょうか。彼女は、源氏の君にそっくりの美しい帝、あるいは源氏の君の弟にあたる蛍兵部卿の宮、こういった方と結ばれてしかるべきでした。それなのに、玉鬘は結局不本意な結婚という運命を甘受することになりました。
長きに及んだ玉鬘の物語はこういう思いがけない結末を迎えました。いわゆる「物語」の終わり方を期待した当時の読者は意外に思い、不満に思ったかもしれませんね。
 この玉鬘物語の展開に、私たちは、ロマンの世界を現実的な世界に着地させるという、作者の新機軸をみることができるのではないでしょうか。今や、物語は、次第に古代物語の衣裳を脱ぎ捨てて、少しずつ、少しずつ、近代的な物語の衣裳を纏い始めたのです。






文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「栄華」2021年10月15日配信


YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗