夕霧七、中空なるこころ

夕霧、御法

第3章 脇役の男たち 其の三「夕霧」
七、中空なるこころ

 

 

 昔からあなたをずっと愛していると言っておきながら、日が暮れるとおしゃれして出かけてゆく夕霧の姿を雲居の雁は涙をながして見送ります。一方夕霧が宮邸に着いてみると宮は相変わらず塗籠の中に籠っています。近くにお仕えする女房たちは、そんな子供っほいことをなさらず、お部屋に戻ってきちんとお話になってはいかがですかと説得するのですが、宮は出てきません。原文です。

  かしこには、なほさし籠りたまへるを、人々、「かくてのみやは。若々しうけしからぬ聞こえもはべりぬべきを、例の御ありさまにて、あるべきことをこそ聞こえたまはめ」などよろづに聞こえければ、さもあることとはおぼしながら、今よりのちのよその聞こえをも、わが御心の過ぎにしかたをも、心づきなく、うらめしかりける人のゆかりとおぼし知りて、その夜も対面したまはず。たはぶれにくくめづらかなりと、聞こえ尽くしたまふ。人もいとほしと見たてまつる。

 結局この夜は、落葉の宮の女房が事態を打開するために、夕霧を塗籠の中に導き、夕霧はようやく宮に逢うことができました。夕霧は言葉を尽くして宮に気持ちを通じさせようとするのですが、宮は着物を髪の上からすっぽり引き被って声を挙げて泣きじゃくっていらっしゃるのですね。夕霧は自分まで辛くなって、なんでこんなことしてるのか・・・・と。原文で読みましょう。

  男は、よろづにおぼし知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つらく心づきなしとのみおぼいたり。(略)単の御衣を御髪籠めひきくくみて、たけきこととは音を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、いとうたて、いかなればいとかうおぼすらむ(略)あまりなれば心憂く、三条の君の思ひたまふらむこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひかはしたりし世のこと、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼み、解けたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう思ひ続けらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。

 あまりのことに夕霧は家に残してきた愛妻雲居の雁に思いを馳せます。離れ離れで長く恋しあって、やっと結ばれた仲であったこと、今日まで自分を信じ切っていたその妻を裏切ってしまったこと。その結果、こんなつまらないことをしている自分が情けなくなってきて、宮に掛ける言葉も失ってしまったのでした。
 雲居の雁の方は、まさか夕霧がそんな状況に陥っているとは想像することもできず、向こうの方と新しい家庭を持ってもうこちらはお見限りなのだろうと絶望的な気持ちになって、夕霧がいない間に実家に戻ってしまいました。原文です。

  かくせめても見馴れ顔につくりたまふほど、三条殿、限りなめりと、さしもやはとこそかつは頼みつれ、まめ人の心変るは名残なくなむと聞きしはまことなりけりと、世をこころみつるここちして、いかさまにしてこのなめげさを見じ、とおぼしければ、大殿へ、方違へむとてわたりたまひにけるを、女御の里におはするほどなどに、対面したまうて、すこしもの思はるけどころにおぼされて、例のやうにも急ぎわたりたまはず。

 ここで「まめ人の心変るは名残なくなむと聞きしはまことなりけり」とあるのがおかしいですね。今でもこういうことを言いますよね。「真面目な人が浮気するとハドメがきかない、遊びなれない人が遊びをおぼえるととことんはまってしまう」とか。
ともあれ、そんなわけで、夕霧が三条の家に戻ってみると、家には雲居の雁と子供たちの半分がいなくなっています。お父さんが帰って来たと言うので子どもたちは喜んで甘えますが、「お母さんは?」といって泣く子もいます。妻はどうやら幼い子どもたちと女の子だけを連れて行ったようなのでした。

  三条殿にわたりたまへれば、君たちも、かたへはとまりたまへれば、姫君たち、さてはいと幼きとをぞ率ておはしにける、見つけてよろこびむつれ、あるは上を恋ひたてまつりて、愁へ泣きたまふを、心苦しとおぼす。消息たびたび聞こえて、迎へにたてまつりたまへど、御返りだになし。かくかたくなしう軽々しの世やと、ものしうおぼえたまへど、大臣の見聞きたまはむところもあれば、暮らして、みづから参りたまへり。

 慌てた夕霧が、帰ってくるようにと使いを出し、迎えの車をやってもなしのつぶてです。しかたなく日が暮れてから、夕霧みずからがそちらの家に迎えに行ったのでした。ところが、雲居の雁は女御の部屋に行ったきりで、顔も見せません。ちょうど姉の女御が宮中から里下がりしていたので、子供たちは乳母にあずけて、そちらの部屋に行って話し込んでうさばらしをしていたのでした。
 子供たちと乳母が残されている部屋に独寝して、夕霧はもう懲り懲りと思っています。心安らぐ場であった家庭は大混乱に陥っているし、浮気心を抱いた相手は心を許してくれない。この落葉の宮のこともこれからどう扱ったらよいのだろうと気になります。一体どんな男がこういう、妻以外の愛人を持つことを楽しいなどと思うのだろう・・・・と今更ながら夕霧は後悔するのでした。原文です。

  あやしう中空なるこころかなと思ひつつ、君たちを前に臥せたまうて、かしこにまたいかにおぼし乱るらむさま、思ひやりきこえ、やすからぬ心尽くしなれば、いかなる人、かうやうなることをかしうおぼゆらむ、など、物懲しぬべうおぼえたまふ。

 朝になっても女御の部屋から戻ってこない雲居の雁に、女房を通して「こんなことをして世間にも恥ずかしいではないか。そちらがもうおわりというならそれはそれでやってみよう。残されたこどもたちがかわいそうじゃないか」などと言っています。そして幼い女の子に「お母さんのいう事なんか聞くんじゃないぞ」と言ったりもしています。
 この後どういうふうに家庭争議が収まったかは書かれていませんが、何しろ子供たちも7人もいることですし、まだ幼い子もいましたからそのうち、何となく折り合いをつけたのだろうと思われます。落葉の宮のほうも、時間はかかりましたが、結局はあきらめて夕霧を受け入れたのでした。
 夕霧の、生涯に一度だけの女性騒動、家庭争議を見てきました。とにかく彼の不器用さにはあきれてしまいます。夕霧28歳から29歳ごろのことでした。
 その翌年の秋のことです。数年前から病気がちだった紫の上が病状改まりついに亡くなってしまいました。駆け付けた夕霧を源氏は身近に呼び寄せて紫の上の髪をおろさせます。出家の願いを叶えてやれなかったので、せめて今からでもという思いでした。夕霧はしかるべき僧などを呼び寄せてその儀式を執り行ったのですが、この時初めて紫の上の顔を間近で見たのでした。源氏ももう止めようとはしません。お姿を見たいせめてお声だけでも聞きたいと長年願っていたことが今になって叶えられたのです。原文です。

  年ごろ、何やかやと、おほけなき心はなかりしかど、いかならむ世に、ありしばかりも見たてまつらむ、ほのかにも御声をだに聞かぬこと、など、心にも離れず思ひわたりつるものを、声はつひに聞かせたまはずなりぬるにこそはあめれ、むなしき御骸にても、今一度見たてまつらむの心ざしかなふべきをりは、ただ今よりほかにいかでかあらむ、と思ふに、つつみもあへず泣かれて、(略)涙にくれて、目も見えたまはぬを、しひてしぼりあけて見たてまつるに、なかなか飽かず悲しきことたぐひなきに、まことに心まどひもしぬべし。御髪のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、露ばかり乱れたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。火のいと明きに、顔色はいと白く光るやうにて、(略)飽かぬところなしと言はむもさらなりや。

 あまりにも美しい紫の上の姿に夕霧は自分の魂がそのままこの亡き骸にとりついてしまうのではないかとさえ思ったのでした。悲しみに暮れて茫然と日々を過ごす父の側にずっと寄り添って、夕霧もかつて一度だけ見たお姿や亡くなった後で拝見したお顔を思い出したりして涙をこぼしたのでした。紫の上が亡くなった次の年を悲しみの内に送った源氏の君はやがて出家して亡くなります。物語にはその辺りのことは書かれていず、いわゆる第三部が始まるとすでに源氏はこの世に亡き人になっています。次回は源氏亡きあと、30代後半を迎えている夕霧のその後です。



















文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回最終回2023年9月28日(木)夕霧八「あなめでたや」をお送りします。 
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗