六「関屋」
前回最後に確認したように、源氏の君が空蝉に未練を残したまま別れたのは17歳の時でした。まだ本当に若かったのですね。その後紫の上との出会いと結婚、藤壺との密通、不義の子の誕生、そして正妻葵上の出産と死。朧月夜との密通、それが露顕したための二年半にわたる須磨明石での漂白の日々。その後召し返されて蘇った栄華の日々。今や源氏の君は29歳、内大臣という高い位にあって権勢を恣にしています。この12年の間、源氏の君の身にはじつに多くの出来事があったのでした。
17歳から29歳までの時間は現代の私たちに置き換えてみても「長い」ですよね。その間、空蝉のほうは受領の妻として、夫に従ってその時々の任地に暮らしていましたが、源氏復帰の翌年、夫常陸の介は任期が果てて上洛することになりました。その一行が、たまたま、源氏の君の行列と逢坂の関で出くわしてしまったのです。事前に、源氏の君の石山詣での情報を得ていた常陸の介の一行は途中で出会うのを避けるために夜が明けないうちから出発して道を急いだのですが、女車も多く、思うようには道が捗らず、結局逢坂の関あたりで道の脇に控えて行列をやり過ごすことにしたのでした。
原文です。
打出の浜来るほどに、殿は粟田山越えたまひぬとて、御前の人々、道もさりあへず来こ
みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかきおろし、木隠れにゐかしこまりて過ぐしたてまつる。
源氏の一行に道を譲るために、常陸の介の一行は牛を牛車からはずして、轅を下ろし、そこここの杉の木の下などに畏まってお通りを待ったのでした。これに続く、源氏の一行が逢坂の関に出現したところの場面は有名ですね。絵を見るような華やかな情景です。ご紹介しましょう。
九月晦日なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草、むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとはづれ出でたる旅姿どもの、色々の襖のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。
九月末、今の暦でいえば11月半ばころで紅葉の盛り、草も色づいています。その華やかな色合いの中に、関所の建物からさっと動き出て来た源氏の君の一行の、そのまた華やかなこと。それぞれが、色とりどりの旅姿で、美しい刺繍や絞り染めの上着を身に着けています。「関屋よりさとはづれ出でたる」という表現がきいていますね。
さて、こんなふうにお供の者たちは歩いていますが、源氏の君はもちろん牛車に乗っています。道の脇に控えているのが常陸の介の一行であることを知った君は、思い立って、空蝉に「今日こうして関までお迎えに来た私の気持ちをおろそかにはお思いにならないでしょうね」という挨拶を送ります。偶然出会っただけなのですがこんなふうに言うんですね。以前も仲立ちをした弟、小君がその伝言を届けます。かつての小君も今は衛門の佐になっています。伝言を聞いた空蝉は胸が一杯になって独り言に歌をつぶやいたのでした。原文で読みましょう。
御車は簾おろしたまひて、かの昔の小君、今は衛門の佐なるを召し寄せて、「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」などのたまふ御心のうち、いとあはれにおぼし出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへしてものあはれなり。
行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかしと思ふに、いとかひなし。
空蝉の呟いた歌は「関ですれ違うだけで、逢うことのかなわぬ悲しみに流す私の涙を人は関に流れる清水と見ることでしょう」というような意味です。ひそかに涙を流しながらつぶやいたのではないでしょうか。
この後、石山詣でを終えて京に戻ってから源氏はまた昔のように、小君に空蝉への手紙を託します。小君、今は衛門の佐はいつまでもお忘れにならない源氏の君の心長さに感服しそのお気持ちをもったいなく思いつつ手紙を届けます。そして姉に「畏れ多いことです。とにかくお返事を」と言うのでした。空蝉はとても気が引けて恥ずかしかったのですが、お返事をしたのでした。その部分原文で読みましょう。
佐召し寄せて御消息あり。今はおぼし忘れぬべきことを、心長くもおはするかなと思ひゐたり。
一日は契り知られしを、さはおぼし知りけむや。
わくらばに行きあふ道を頼みしもなほかひなしや潮ならぬ海
関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな。
とあり。(略)今はまして、いとはづかしう、よろづのことうひうひしきここちすれど、めづらしきにや、え忍ばざりけむ、
「逢坂の関やいかなる関なればしげきなげきの中を分くらむ
夢のやうになむ」と聞こえたり。あはれもつらさも忘れぬふしとおぼし置かれたる人なれば、をりをりはなほのたまひ動かしけり。
源氏の手紙には、「先日は思いがけず同じ時に関を通りあなたと私の契りの深さを思い知りました。あなたもおわかりになったことでしょう。」と書かれていて、その後に続く歌は「たまたま道で出会えて再会がかなうのかと思いましたが,甲斐のないことでした」というような意味で、近江の海(琵琶湖)が淡水であることから海藻である海松布(見る目)がない、つまり逢えないという意味です。そして歌の後に、関守つまり空蝉を守っている夫がうらやましいと付け加えています。これに対して空蝉は「逢坂の関という名がありながら、どうしてこんなに逢えない嘆きを重ねなくてはならないのでしょう。夢のようです」と返しています。
京都へもどってしばらくして空蝉の夫はもともと高齢であったため、空蝉の今後を案じながら亡くなってしまいます。常陸の介は、亡くなる前に、息子たちに義理の母である空蝉を大切にお世話するようにと繰り返し頼んでいたのですが、なかなか親身にはなってくれませんでした。やがて息子の一人である河内の守が親切めかして言い寄ってくるようになり、空蝉は誰にも相談せず尼になってしまったのでした。 河内の守は腹を立て、尼になどなってこれから先の長い人生をどうやって生きていかれるおつもりなのかなどと責めたのでした。
その後の空蝉についてはほとんど語られていませんが、のちに二条院に東の院を増築した光源氏はそこに広い北の対を作り、情けをかけた女性たちを住まわせたとあります。空蝉もここに引き取られ、静かな日々を過ごしたようです。
空蝉の話を振り返ってみると、二度目三度目と、源氏は紀伊の守の家をたずねましたが、二回とも失敗しました。ヒーローであるべき存在が笑いものになるのは、平中物語もあり、初めてではない。けれども源氏物語全体からいえば、珍しい展開です。
年若いこの時期の光源氏に空蝉との出会いを設定していることには意味があるでしょう。源氏は女性との交渉で初めて失敗し、大きな屈辱感を味わいました。この経験によって、源氏はひとまわり成長したことでしょう。自分の魅力をもってしてもなびかぬ女性もいる。ではなぜ空蝉という女性は、源氏に心の底では惹かれながらも、源氏との間を取り持とうとする弟を厳しく叱りつけ、源氏に恥をかかせるような行為にでたのでしょうか。これは、超えられないものとなって立ちはだかる身分の壁に対するせめてもの抵抗だったのでしょう。あくまでも優しく、甘い言葉をささやく男の背後に「情けをかけてもらって有難いと思え」といわんばかりの空気を彼女は読んでいたのかもしれません。彼女の矜持を保つための方策は、拒むことしかなかったのではないでしょうか。
それにしても、従来の物語にはこういう地味な女性は登場していないのではないかと思われます。蜻蛉日記の作者が冒頭に、「世に流布している物語は空事ばかりなので、私は実生活のありのままを書いて世に知らせたい」と、書いていますが、おそらく当時の物語の多くは身分高い姫君と貴公子の美しい恋物語だったのではないでしょうか。そういった、いわゆる物語に、作者は、自分自身の生きる現実、作者の属する世界の視点を取り込んだのです。つまり、この空蝉は、作者紫式部自身を投影したような存在なのでなはいかと私は思うのです。女性に対する、高貴な身分の男性の思いあがった気持ちを批判し、女性の側の気持ちを表に出して抗議しているのがこの空蝉の物語なのではないでしょうか。
ともあれ、これで空蝉とはお別れとなります。おつきあいありがとうございました。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
第四章 通り過ぎた女君たち 其の二 皇太子の未亡人六条御息所 第一話「つらき御夜離れ」 は2024年11月14日から配信いたします
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗