朱雀院三、御目わづらふ

賢木、須磨

第3章 脇役に徹した男朱雀院 其の三「御目わづらふ」

 

  

 その心は源氏の君に今でも傾いていることをそれとなく感じながらも、お傍離さずはべらせている朧月夜は、帝にとっては一番心許せる話し相手でもありました。光源氏を愛する気持ちを共有しているという妙な連帯感もあるのでした。ある時はこんなことを彼女に語っています。原文です。

  御遊びのついでに、「その人のなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさ思ふ人多からむ。何ごとも光なきここちするかな」とのたまはせて、「院のおぼしのたまはせし御心を違へつるかな。罪得らむかし」とて、涙ぐませたまふに、え念じたまはず。

 ここで朧月夜には本心を語っています。源氏の不在を寂しがり、なぜこんなことになってしまったのか・・・・と。思うままにならぬまつりごと、自分は母や右大臣の傀儡でしかないとのさびしい自覚。父桐壺院の遺言に背いて源氏を排斥せざるをえなかったという苦しい胸のうち。「罰があたるかもしれない」とも言って涙ぐんでいます。そして続けてこんなことを口にしています。

  「世の中こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれと思ひ知るままに、久しく世にあらむものとなむ、さらに思はぬ。さもなりなむに、いかがおぼさるべき。近きほどの別れに思ひおとされむこそねたけれ。(略)」と、いとなつかしき御さまにて、ものをまことにあはれとおぼし入りてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ出づれば、「さりや。いづれに落つるにか」とのたまはす。「今まで御子たちのなきこそ、さうざうしけれ。春宮を院ののたまはせしさまに思へど、よからぬことども出で来めれば、心苦しう」など、世を御心のほかにまつりごちなしたまふ人のあるに、若き御心の、強きところなきほどにて、いとほしとおぼしたることも多かり。

 「自分はもう長く生きられないかもしれない。もし私が死んだらあなたはどうお思いになるだろう。須磨へと去った源氏の君との別れほどには悲しんでくれないだろうと思うと妬ましいよ」などとしみじみとおっしゃるのです。それを聞いて朧月夜も思わず涙をこぼすのですが、それを見て帝は「誰のために流す涙か」と言い、さらに「あなたが私の子をうんでくれないのはさびしいことだ」とも言い、さらに「源氏の後見する春宮の立場もあやういかもしれない、そうなったらどうしよう」と辛い思いを吐露されるのでした。
そんなふうに心を痛めていた朱雀帝でしたが、源氏が須磨に去ってから一年後、夢に父桐壺院が登場して、彼をにらみ叱責します。源氏の君についての遺言を違え、彼を京から追ったことについてでした。原文で読みましょう。

  その年、朝廷に、もののさとししきりて、物騒がしきこと多かり。三月十三日、雷鳴りひらめき、雨風騒がしき夜、帝の御夢に、院の帝、御前の御階のもとに立たせたまひて、御けしきいとあしうて、にらみきこえさせたまふを、かしこまりておはします。聞こえさせたまふことども多かり。源氏の御ことなりけむかし。いと恐ろしういとほしとおぼして、后に聞こえさせたまひければ、「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしたることはさぞはべる。軽々しきやうに、おぼしおどろくまじきこと」と聞こえたまふ。にらみたまひしに見合わせたまふと見しけにや、御目にわずらひたまひて、堪へがたうなやみたまふ。

 朱雀は父院の怒りに恐れおののき、母弘徽殿太后にそのことを話し、源氏の罪を許してほしいと頼むのですが、弘徽殿はさすがにしっかりしています。罪を犯したものを、三年もたたぬうちに許すなどとんでもないこと、荒れた天気の時にはそんな夢をみたりするものだ、と帝をいさめ、源氏の召還を言いだした息子を叱責して相手にしないのでした。しかしこの後、祖父右大臣は亡くなり、朱雀は父院と目を合わせたためか、その目を患い、母弘徽殿太后も病気が重くなりまさったのでした。
 そしてついに、朱雀は生まれて初めて母の言いつけに背いて自らの意志で源氏の召還を決定したのでした。夢に父を見てから一年以上が過ぎていました。原文でそのあたりのことを読みましょう。

  年変はりぬ。内裏に御薬のことありて、世の中さまざまにののしる。当代の御子は、右大臣の女、承香殿の女御の御腹に男御子うまれたまへる、二つになりたまへば、いといはけなし。春宮にこそはゆづりきこえたまはめ。朝廷の御後見をし、世をまつりごつべき人をおぼしめぐらすに、この源氏のかく沈みたまふこと、いとあたらしうあるまじきことなれば、つひに后の御いさめをも背きて、ゆるされたまふべき定め出で来ぬ。

 この決意は、朱雀に皇子が誕生し、その子を春宮にし、現春宮(冷泉・十歳位)に位を譲ることを現実的に考えた結果でもありました。現春宮の後見役である源氏を呼び戻さねば、まだ幼い彼が帝の位を全うすることはできないとの判断でした。母弘徽殿太后には相談することのできないことでした。彼の譲位を母が許すはずもありません。けれども、そうして召還の宣旨が出てしまった以上太后にそれをとどめる力はありません。源氏は二年半の須磨明石での流謫生活にピリオドを打って京に戻ってきたのでした。帰京後すぐに帝は源氏を宮中に呼びます。その場面を原文で読みましょう。

  召しありて、内裏に参りたまふ。御前にさぶらひたまふに、ねびまさりて、いかでさるものむつかしき住まひに年経たまひつらむと見たてまつる。女房などの、院の御時よりさぶらひて、老いしらへるどもは、悲しくて、今さらに泣き騒ぎめできこゆ。上もはづかしうさへおぼしめされて、御よそひなど、ことに引きつくろひて出でおはします。御ここち例ならで、日ごろ経させたまひければ、いたうおとろへさせたまへるを、昨日今日ぞ、すこしよろしうおぼされける。御物語しめやかにありて、夜に入りぬ。十五夜の月おもしろう静かなるに、昔のこと、かきくづしおぼし出でられて、しほたれさせたまふ。

 現れた源氏の姿を見て桐壺院の時代からお仕えしていた女房たちは感激の涙にくれ、帝も少し緊張してお会いになったのでした。源氏の召還を実現してからは、このところずっと悪かった体調も少し良くなられて、ふたりはしみじみと語り合われたのでした。折しも八月十五夜のことでした。桐壺帝の御代には月の宴が催され、管弦の遊びがにぎやかに繰り広げられていたことなども思い出されて、朱雀帝は涙を流すのでした。自分の代になってからはそういう華やかな催しもないままに時は過ぎてしまった、そして、こうして源氏の君が戻ってきた今、自分の時代は終わるのだという静かな悲しみがひたひたと心に満ちてきたのでした。







文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


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YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗