十五、変遷

朝顔、乙女

変遷

 前回は、藤壺の宮が亡くなり、冷泉帝が自分の本当の父親が源氏の君であることを知ると言う大きな出来事がありました。その後で、源氏が、息子の妻である斎宮の女御に言い寄って嫌悪感を抱かせてしまったというようなこともありましたね。

 さて、その同じ年の晩秋の頃、源氏の君は朝顔の斎院と呼ばれる方にしげしげと便りをだしています。この方は源氏が一七歳の頃からの思い人で、いとこにあたる方でもあります。ずっと、折々の便りのやりとりはして来たものの、朝顔の君は若いころから源氏の君の愛を受け入れることは全く考えていません。賀茂神社の斎院を勤めていた間は途切れていたものの、斎院を退下した途端に、再び熱心に言い寄ってくる源氏に、彼女はあきれ気味です。ただ、世間はお似合いの仲と噂し、朝顔の君の周囲も源氏の君との結婚を望み、そのように働きかけたのでした。源氏は紫の上に気をつかいながらも、朝顔を訪ねずにいられません。朝顔の斎院は、亡くなった父、兵部卿の屋敷に、叔母の五の宮と暮らしています。この方は源氏にとっても叔母にあたるわけで、その五の宮を見舞うという口実で朝顔に逢おうとします。何度目かの訪問で、今回こそはと、源氏の君は綿々と心を訴えるのですが、朝顔は直接応対することもせず、女房を介してのやりとり、しかもきっぱりとした拒絶でした。原文です。

  今宵はいとまめやかに聞こえたまひて、「一言、憎しなども、人伝ならでのたまはせむを、思ひ絶ゆるふしにもせむ」と、おり立ちて責めきこえたまへど、昔、われも人も若やかに、罪ゆるされたりし世にだに、故宮などの心寄せおぼしたりしを、なほあるまじくはづかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむとおぼして、さらに動きなき御心なれば、あさましうつらしと思ひきこえたまふ。

 せめて憎しとだけでも直接お声を聞かせてくださいと源氏は訴えるのですが、朝顔は若いころさえ受け入れなかった求愛なのに、今さらこんな不似合いな年齢になって、と相手にしません。拒まれれば、一層執着が増し、また、このまま引き下がるのも悔しく
源氏は独り物思いにふけって、自宅二条院にも帰らず、宮中で宿直する夜が続きました。
 そんな源氏の様子に、紫の上は、もし、世間の噂通りに源氏の君が朝顔斎院を正妻に迎えるようなことになれば、自分の立場はどうなるのかと不安でいっぱいになっていました。しかし、朝顔の君の意思は変わらず、結局は源氏の君もあきらめるしかなかったのでした。季節は冬になっています。朝顔の斎院とのことで、すっかり元気をなくしている紫の上を源氏は懸命に慰めます。「どうしたの、いつもと違うね」などと言って。少し原文で読みましょう。

  「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」とて、御髪をかきやりつつ、いとほしとおぼしたるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。「宮失せたまひてのち、上のいとさうざうしげにのみ世をおぼしたるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣もものしたまはで、見譲る人なきことしげさになむ。(略)」などまろがれたる御額髪ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。(略)「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もしおぼしひがむるかたある。それは、いともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。(略)うしろめたうはあらじと思ひ直したまへ」など、日一日なぐさめきこえたまふ。

 「上を亡くされて、帝が寂しそうにしていらっしゃるので、ずっと宮中に泊まっていたんだよ」と言い訳をして、紫の上の、涙に濡れてもつれた髪を撫でたりするのですが、紫の上は何も言いません。源氏は続けて、斎院に手紙をだしているのを、誤解なさっているのかと言い、「恋文なんかじゃないよ。安心おし」などと、懸命にご機嫌をとっています。雪の積もった庭を眺めながら、この夜は夜更けまで二人で語りあったのでした。その美しい場面を少し原文で読みましょう。庭に女の子たちを下して、雪玉をこしらえさせてそれを二人で見ています。

  雪のいたう降り積りたる上に、今も散りつつ、松と竹のけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。(略)月は隈なくさし出でて、ひとつ色にみえわたされたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいわずすごきに、童女おろして、雪まろばしせさせたまふ。をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。ちひさきは、童げてよろこび走るに扇なども落として、うちとけ顔をかしげなり。

 夜の雪の庭、白い雪に女の童たちの黒い髪が映えて美しい。手袋なんて無かったでしょうに、女の子たちは手が冷たくないのか、はしゃいでいます。
 ともあれ、こうして、朝顔の斎院のことから、紫の上と源氏の間に生じた亀裂は表面化することなく冬景色の下に凍結されたのでした。

 公の人としての源氏は権勢の頂点に向かって、着実に歩を進めながら、恋する男としての源氏は、藤壺という中心を失い、確実に落ち目になっています。斎宮の女御に対する恋慕がそうであり、朝顔の斎院からも冷たくあしらわれました。恋の狩人としての源氏の面影は、ただ面影としてのみ印象されるのです。かつての源氏のように振舞うことによって、逆に源氏がすでにかつての源氏でないことが残酷に露出されています。源氏が得つつあるものと、失いつつあるものがはっきり見えてきました。
 翌年には源氏の君の息子夕霧、(正妻葵の上が亡くなる時に生まれた子です)この子も十二歳となり、元服します。元服と同時に位階を与えられることになりますが、当時は親の地位によって、子どもの地位に優遇措置がありました。しかし、源氏は自分の息子にはそれを適用しませんでした。夕霧は「かく苦しからでも、高き位にのぼり、世に用ゐらるる人はなくやは」と父に対して不満を抱きますが、源氏はきちんと学問をして、努力の結果として自らの力で昇進するべきだという考えでした。源氏自ら身をもって学問を大切にする姿勢を示したことで、世間には、学問に精出す風潮が強まりました。源氏の邸でも作文(漢詩を作る会です)がしばしば行われて、その道の専門家、学者が重んじられるようになったとあります。このあたりは、紫式部の理想を盛り込んだものでしょうか。

 この年、冷泉帝の女御の中から皇后(中宮ともいいます)が決まりました。前にも一度お話しましたように、それは早く入内していて寵愛も厚かった弘徽殿女御(頭中将の娘)ではなく、源氏の君が後見する斎宮の女御でした。一方、源氏は内大臣から太政大臣に昇格しています。
 同じ年の十一月、五節(新嘗祭にあたるものです)の舞姫を源氏の所からも献上することになりました。選ばれたのは、源氏腹心の家来惟光の娘です。当日、美しく着飾ったその舞姫を覗き見て、少年夕霧は心を惹かれて恋文を出します。実は源氏も、少年だったころに舞姫に恋したことがありました。この日の愛らしい舞姫の姿に、自らの若かりし日を思い出し、昔の舞姫が懐かしくなって、彼女に手紙を出しています。今の舞姫と昔の舞姫。時の流れを感じさせます。そして昔父親がしたのと同じことを今は息子がする、こういう「重ね」は源氏物語の中に幾度も現れます。「重ね」と「ずらし」の手法についてはまた折をみてお話したいと思います。
 その翌年、三十五歳の秋に源氏の君念願の大邸宅六条院が完成しました。春夏秋冬の四季の庭を持つ宏大な邸宅です。元六条御息所の邸宅があった敷地を広げたものです。
 その六条院の様子を原文からご紹介しましょう。

  大殿、静かなる御住ひを、おなじくは広く見どころありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、集へ住ませむの御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御古き宮のほとりを、四町を占めて造らせたまふ。(略)八月にぞ、六条の院造り果てて、わたりたまふ。未申の町は、中宮の御古宮なれば、やがておはしますべし。辰巳は、殿のおはすべき町なり。丑寅は、東の院に住みたまふ対の御方、戌亥の町は明石の御方とおぼしおきてさせたまへり。もとありける池山をも、便なきところなるをば崩しかへて、水のおもむき、山のおきてをあらためて、さまざまに、御方々の御願ひの心ばへを造らせたまへり。


 一般の貴族の舘の四倍、四町もある広大な敷地。それを四つに分けて、築山や池、流れを作って、それぞれの季節の庭にふさわしい植栽を整えたとあります。春の舘には源氏と紫の上、夏の舘には花散里が住み、秋の舘は中宮となった斎宮の女御(この方は秋を好むと言ったことから秋好む中宮と呼ばれるようになっています)の里帰り時の住まい。そして冬の舘には大堰の山荘から明石君が移ってきました。

 六条院の主として君臨する光源氏。その、時代の第一人者としての存在を象徴するかのごときこの大邸宅を舞台に物語は次の展開を見せるのでした。





文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「玉鬘」2021年9月16日配信


YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗