明石入道八、明石一族のその後

若菜下、匂宮

其の八「明石一族のその後」

 

 さて、この御子が五歳になったころ、冷泉帝が譲位、御子は春宮の位に着きます。明石女御は、光源氏という絶大な勢力を背景に今上帝の寵愛を独占。中宮の位に着くことも確実になりました。そういう状況を迎えて、源氏は入道の願文を紐解いて、内容をあらため、住吉社への願果たしの参詣を実行することにしたのでした。
 孫の御子が実際に帝の位につくまでは、完全な満願とはいえないけれども、自分の力のあるうちに実行しようと思ったのです。光源氏ももう四六歳、その邸宅六条院は、当時、京の文化の中心地として華やかな空気を醸していました。そんな中で行われた住吉詣では、大げさにならないように地味にという源氏の希望にも関わらず、彼の政界での影響力や経済力を反映して、豪華で派手なものとなりました。紫の上と明石女御、明石の君とその母尼君を伴い、多くの上達部に、楽人や舞人も従えた牛車の列は延々と続いたのでした。そして、住吉社では夜を徹して神楽や舞が奉納され、にぎやかな酒宴でもりあがったのでした。そんな中で、一介の受領の妻でしかなかった尼君が、光源氏の一族として敬意を受け大切にされる様子を見て人々はその運勢の強さを羨み、この時から運の良い人のことを「明石の尼君」と呼んだのでした。原文です。

  松原に、はるばると立て続けたる御車どもの、風にうちなびく下簾の隙々も、常磐の蔭に、花の錦を引き加へたると見ゆるに、うへのきぬの色々けぢめおきて、をかしき懸盤とり続きて、もの参りわたすをぞ、下人などは目につきて、めでたしとは思へる。尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表をりて、精進物を参るとて、「めざましき女の宿世かな」と、おのがじしはしりうごちけり。(略)世の中の人、これを例にて、心高くなりぬべきころなめり。よろづのことにつけて、めであさみ、世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。

 この住吉詣での5年後に紫の上が亡くなり、源氏は出家、やがて物語から姿を消します。 その後、光源氏と紫の上が若いころを過ごした二条院は三宮(匂宮)が住いとし、二人が中年以降の華やかな時を過ごした六条院の春の御殿は女一宮と二宮が使っています。みな明石中宮の子供たちです。源氏の栄華の象徴であった御殿に住むのは今や明石一族なのです。原文には

  紫の上の、御心寄せことにはぐくみきこえたまひしゆゑ、三の宮は、二条の院におはします。(略)女一の宮は、六条の院南の町の東の対を、その世の御しつらひあらためずおはしまして、朝夕に恋ひしのびきこえたまふ。二の宮も、同じ御殿の寝殿を、時々の御休み所にしたまひて、梅壺を御曹司にしたまうて、右の大殿の中姫君を得たてまつりたまへり。次の坊がねにて、いとおぼえことに重々しう、人柄もすくよかになむものしたまひける。(略)二条の院とて造り磨き、六条の院の春の御殿とて、世にののしりし玉の台も、ただ一人の末のためなりけり、と見えて、明石の御方はあまたの宮たちの御後見をしつつあつかひきこえたまへり。

とあり、すべては明石の君の子孫のためであったのかと書かれていて、明石中宮は次々に御子をもうけ、明石の君は孫たちの世話に明け暮れているともあります。
 これまでにもお話してきたように明石入道は、娘をいずれは高貴な方と結婚させ、それを手掛かりに、一族の復権を果たしたいという宿願の実現に命を賭けていました。
 ゆくゆくは、娘の産んだ子どもが皇后となり、その子が帝の位につくはずだという予言の夢を彼は信じ、まさにその夢が現実となることはもう疑う余地がありません。
 ここでもう一度明石入道の家系を確かめてみましょう。実は明石入道の父大臣と光源氏の母桐壺更衣の父按察使大納言は兄弟なのです。つまり、明石入道と桐壺更衣とはいとこ同士ということになり、明石君と源氏はいとこの子供同士ということになります。

 何らかの事情で失脚した大臣(兄)のむすこである明石入道は、身分高い貴族と娘(明石の君)を結婚させようとし、弟の大納言は「娘を必ず入内させよ」と遺言して亡くなったとあります。その娘が桐壺の更衣で、そこに生まれたのが光源氏です。つまり、兄と弟両方の側からの願いが結実したのが、光源氏と明石の君の結婚であり、二人の子である明石姫の入内とその御子の誕生であったということになります。
 話がすこしこみいってしまいましたが、帝の位を約束されたその御子は兄(明石入道の父)、弟(桐壺更衣の父)のひ孫の子、玄孫(やしゃご)ということになります。つまり、長い回り道の末に、入道父・更衣父の兄弟の家系が王権を手にしたといことがわかるのです。

 この復権物語を源氏の側からみるとどうなるでしょうか。ここでもう一度根本に返って、源氏物語という題名について考えてみましょう。「源氏」とは源という姓を賜った、つまり、帝の子でありながら、帝の位につくことができないもの、皇族ではなく臣下の身分になった氏という意味です。ですから源(みなもと)の何々と呼ばれている人は皆、何代前かはわかりませんが、元々は皇族であったということになります。

 ここで源氏物語が当時の貴族の間でもてはやされ、さらに後の時代にも支持されつづけたのはなぜかを考えてみると答はすぐにわかるのではないでしょうか。もし、源氏物語が単なる恋物語であったなら、幾多の男性読者の支持を得ることはなかったと思うのです。そして男性読者の支持なくして物語が受け継がれ続けることはなかったでしょう。

 この物語は、現実にはかなえられない当時の貴族たちの夢を、虚構の世界で実現した物語なのです。醍醐天皇の皇子であった源高明が安和の変で失脚したのは、ついこの間のこと、嵯峨天皇の皇子源融が藤原氏に実権を握られ、拗ねて政界を捨てたのも近い過去のことで、人々は、そういう「源氏」の儚く消えた夢に心を寄せていたと思われます。因みにそのあたりのことは、三田村雅子先生が御著書の中で詳しくお書きになっています。
 物語の主人公光源氏は、帝の御子として生まれ、類まれな数々の美質と才能を持ちながら、帝の位につく権利を奪われている男です。父桐壺帝は彼の資質を見抜き、その優秀さゆえに彼の将来を危ぶんだのでした。桐壺帝の長男、一の御子は、有力な右大臣家を後ろ盾とする弘徽殿女御を母としています。「長男に帝の位を継がせることを明確にしておかねば、光源氏にその地位をうばわれることを危惧した右大臣側によって、謀殺されるかもしれない」そう考えた父帝は寵愛する息子に源の姓を与えた、つまり、臣籍に下したのでした。
 幼い頃には状況を理解することはできなかったでしょうが、成長するにつれて、光源氏とよばれたこの青年が、心にわだかまるものを抱いたことは想像に難くありません。父帝の妻である藤壺女御との密通も、兄帝の妻朧月夜との密通も、このことと関係があるのではないでしょうか。光源氏自身は意識していなかったとしても。
 そして、藤壺の産んだ秘密の御子は帝の位につきました。冷泉帝ですね。世間は桐壺帝の子と思っていますが、実は源氏の子です。二人の他にはだれも知らないわけですが、自分の血をひいた子が帝となったことで密かにわずかながらも恨みを晴らした思いだったのではないかと思うのです。
 そして、明石の君との結婚によって、孫が、自分の血筋をひいた孫が帝の位を手にすることが明らかになりました。光源氏の側から見れば、彼の復権物語でもあるのです。
こう考えてみると、明石入道が源氏物語の中ではたした役割の大きさがわかります。
 明石入道が、娘の誕生前に見た夢のお告げを信じ、住吉社に願を掛け祈りつづけることがなかったならば、源氏が須磨明石にさすらうことも無く、明石君との間に姫をもうけることも無く、源氏物語は全く別の物語になっていたことでしょう。
明石入道の存在なしにはこの物語は語れないのです。
 最後のしめくくりが長くなってしまいました。光源氏の運命を左右した男、明石入道のお話は今回で終わりとなります。お付き合いありがとうございました。








文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


新シリーズ全六話 第四章「通り過ぎた女君たち」2024年8月8日~配信開始(原稿先行掲載しています)
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗