夕霧一、うつくしき若君

葵、須磨、少女

第3章 脇役の男たち 其の三「夕霧」
一、うつくしき若君

 

 

 源氏物語の脇役として三人目に登場するのは光源氏の息子夕霧です。脇役の男たちの物語は光源氏のそれと対比されることによって、あるいはその変奏ととらえられることによって、作者がそれらの人物の物語に付与した意味が浮かび上がってきます。
今回は夕霧の生まれた時から五〇代にいたるまでの生涯をたどって、彼が源氏物語の中で果たしている役割を読み取り、作者はなぜこのような人物を登場させたのか、夕霧の物語の存在意義について考えてみましょう。
 夕霧について皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。父光源氏に似た美しい人であったと何度も書かれていますが、果たして彼は父親に似ていたでしょうか。
 彼の人物関係図を書いて見ると、父と相似形を描いています。
 一番典型的なのは、父光源氏も息子夕霧も年上の従姉を正妻としている点です。ただし、形は同じでも中身は全く異なります。父の方は親同士の決めた政略結婚であったのに対して、息子の方は今で言う恋愛結婚。親の反対に遭いながら結婚に漕ぎつけているのです。
 もう一つは、光源氏が義理の母に当たる藤壺に憧れたように、夕霧も義理の母紫の上に憧れたことです。この場合も光源氏は恋心を抑えられずに、義母藤壺と関係を持ちましたが、夕霧は紫の上に手を出すなど、そんな恐ろしいことはできませんでした。
 さて、それでは彼の誕生の時から見て行きましょう。夕霧は、光源氏とその正妻、左大臣家の娘葵上との間に生まれました。結婚してから、十年目にやっとできた子供で、無事誕生、しかも男の子だということで、葵上の一家は歓喜に湧きました。原文で読みましょう。

  すこし御声もしづまりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。(略)院をはじめたてまつりて、親王たち、上達部、残るなき産養どもの、めづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。男にてさへおはすれば、そのほどの作法、にぎははしくめでたし。

 葵上はずっと物の怪に苦しんで、ことなくお産がすむかどうか危ぶまれていましたから、周囲の安堵と喜びはひとしおでした。様々な方から盛大なお祝いの品々、産養、が次々に届いたとあります。父源氏もこれまでのように遊び歩くことなく、ずっと妻に付き添い、赤ん坊の世話をしています。光源氏二十二歳、表向きはこの子が初めての子ですが、実は父桐壺帝の妻藤壺が三年ほど前に産んだ皇子の本当の父親は源氏でした。次に「春宮」と出て来る子です。
 源氏は生まれたばかりのわが子をかわいいと思う気持ちもありながら、その子が春宮に似ているのを見て、そちらのわが子に逢いたくてたまらなくなるのです。そして宮中に春宮の顔を見に行こうと思いたち、出かける前に葵上に声をかけます。原文です。


  若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを、今から、いとさまことにもてかしづききこえたまふさま、おろかならず。(略)若君の御まみのうつくしさなどの、春宮にいみじう似たてまつりたまへるを、見たまひてもまづ恋しう思ひ出でられさせたまふに、忍びがたくて、参りたまはむとて、(略)臥したまへる所に、御座近う参りたれば、入りてものなど聞こえたまふ。

 この後出かけたのですが、その間に葵上は急死してしまうのです。源氏はしばらくは左大臣家で喪に服しますが、その後、自邸二条院に戻り、夕霧は左大臣夫婦、祖父母の元で育つことになりました。父源氏は滅多に訪れることはありません。
 四か月後に源氏が新年の挨拶に左大臣家を訪問した折のことを原文で読みましょう。

  立ち出でて御方に入りたまへれば、人々もめづらしう見たてまつりて忍びあへず。若君見たてまつりたまへば、こよなうおよすけて、笑ひがちにおはするもあはれなり。まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば、人もこそ見たてまつりとがむれと見たまふ。

 この時もまた、春宮と似ていることから、春宮の本当の父親は自分であるということが周囲に気付かれてしまうのではということを心配しています。光源氏も物心つく前に母と死別し、祖母の元で六歳まで育てられますが、その間もしばしば父帝は彼を宮中に呼び寄せていましたし、祖母亡き後は、宮中の父桐壺帝に近い処で育っています。それに引き換え、夕霧の方は父親と共に暮らしたことは一度もなく、距離のある関係でした。
 そして、夕霧が5歳の時、源氏は不祥事を起こして、京を離れ、須磨に退去することになりました。その挨拶のために左大臣邸を訪れた時の様子を原文で読みましょう。

  二三日かねて、夜に隠れて大殿にわたりたまへり。(略)若君の御乳母ども、昔さぶらひし人のなかにまかで散らぬ限り、かくわたりたまへるをめづらしがりきこえて、まうのぼりつどひて見たてまつるにつけても、ことにもの深からぬ若き人々さへ、世の常なさ思ひ知られて、涙にくれたり。若君はいとうつくしうて、ざれ走りおはしたり。「久しきほどに忘れぬこそあはれなれ」とて膝にすゑたまへる御けしき、忍びがたげなり。

 この一節からも光源氏が滅多に息子の元を訪れなかったことがわかります。
 三年後に源氏は復帰し、表向きは弟、実は息子である春宮が帝の地位につき、その後見役として絶大な権力を握ります。始めは内大臣、舅の太政大臣が亡くなったあとでは、その位をついで太政大臣になっています。
 夕霧はずっと祖父母の元で育てられていましたが、源氏の嫡子、一人息子として、当然世間では重く見られていました。ところがその息子の元服の際に、源氏は、意外な決断をくだしています。夕霧は十二歳になっています。当時は蔭位の制というものがあり、有力貴族の子弟は始めから四位をあたえられるのが通常でした。太政大臣の嫡子なら当然四位からのスタートのはず。それが六位であったということで、本人も、祖母大宮もショックを受けました。これは、光源氏の教育観によるもので、何の苦労もなく始めから高い位を手にするのではなく、学問をして、知識や知恵を身に付けて、どのような環境の変化にもたえられるようにしなければならないという考えからでした。
 ここでの源氏の夕霧の扱いは、父親らしい厳しい愛だったといえるのですが、夕霧にしてみれば、周りはみんな四位からスタートしているのに、なぜ自分だけ・・・・・と情ない気持ちになり、父を恨みました。大宮とあるのが左大臣夫人、夕霧の祖母です。原文です。

  大殿腹の若君の御元服のこと、おぼしいそぐを、二条の院にてとおぼせど、大宮のいとゆかしげにおぼしたるもことわりに心苦しければ、なほやがてかの殿にてせさせたてまつりたまふ。(略)四位になしてむとおぼし、世人も、さぞあらむと思へるを、まだいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからむも、なかなか目馴れたることなりとおぼしとどめつ。浅葱にて殿上にかへりたまふを、大宮は飽かずあさましきこととおぼしたるぞ、ことわりにいとほしかりける。

 浅葱とあるのが六位の服の色。可愛がって育てて来たおばあさんはなぜ六位なのかとショックを受けて、源氏に抗議しましたが、説得されてしまいました。元服後は祖母の元からも引き離され父の邸に設けられた部屋で、受験勉強に明け暮れることになりました。位があがるためには試験を受けなければならないのです。祖母のもとには月に三回だけ行っても良いという事になったのでした。我慢強く真面目な夕霧は不満を抱きながらも懸命に勉強に取り組んだのでした。原文です。

  つとこもりゐたまひて、いぶせきままに、殿をつらくもおはしますかな、かく苦しからでも、高き位にのぼり、世に用ゐらるる人はなくやはあると思ひきこえたまへど、おほかたの人がら、まめやかに、あだめきたるところなくおはすれば、いとよく念じて、いかでさるべき書ども疾く読み果てて、まじらひもし、世にも出でたらむと思ひて、ただ四五月のうちに、史記などいふ書は読み果てたまひてけり。

 さて、祖父母の元では頭中将の娘雲居の雁も、育てられていました。雲居の雁もやはり母親がいなかったのです。こちらは亡くなったわけではないのですが、生みの母が再婚したために、祖父母の元に預けられたのでした。雲居の雁は夕霧より二つ年上のいとこです。兄弟のように育って来た二人でしたが、夕霧が祖母の元から離されてしまったため、滅多に逢えなくなってしまいました。次回は夕霧の初恋の行方をお話しましょう。















文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回2023年6月22日(木)夕霧「雲居の雁もわがごとや」をお送りします。 
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗