七、花の宴

花宴、葵

花の宴

 藤壺が秘密の御子を産んだ翌年の春、桜の花が満開の宮中、紫宸殿で盛大な花の宴が開かれました。桐壺の帝は次の春宮と目される御子が誕生したことから、そろそろ譲位することをお考えでした。そこで最後の華やかな行事を計画なさったのでした。帝は両脇に中宮藤壺と春宮朱雀を据えて、庭で展開される作文や舞楽を御覧になります。この場には親王や上達部(高い階級の貴族たち)や学者が集められています。作文というのは漢詩作りのことで、それぞれに与えられた題で即席に詩を作ってその場で披露し、その出来栄えを競うというものです。宴会といっても、ただお酒を飲んで騒ぐといったものではなく、漢詩作りを競い、舞や音楽を楽しむといった文化度の高いものだったのです。勿論最後はお酒が振舞われるのですが。
そして、この日も紅葉の賀に続いてやはり源氏の君は花形です。その美しい容姿と声、作詩の才能、優雅な舞姿に帝はご満悦、左大臣は婿の晴れ姿に日頃の恨みも忘れて感激の涙を流したとあります。お酒と人々の賞賛とに酔った源氏は宴果てた後、藤壺を求めて後宮を彷徨ううちに、弘徽殿のあたりで、一人の娘に出くわします。その場面を読んでみましょう。


  もしさりぬべき隙もやあると、藤壺わたりを、わりなう忍びてうかがひありけど、かたらふべき戸口も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、三の口あきたり。女御は、上の御局にやがてまうのぼりたまへれば、人少ななるけはひなり。奥の枢戸もあきて、人音もせず。かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし、と思ひて、やをらのぼりてのぞきたまふ。人は皆寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、「朧月夜に似るものぞなき」とうち誦じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、「あな、むくつけ。こは誰そ」とのたまへど、「何かうとましき」とて、
 深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ
とて、やをら抱きおろして戸は押し立てつ。


 藤壺の殿舎あたりは戸締りがしっかりしてあって、どこにも忍び込む隙はありません。ところが。弘徽殿のあたりに来てみると、しんと寝静まっているのに、扉が開けっ放しになっているのです。そこでこっそり廊下に上がって覗いていると、なんと一人の娘が、むこうから若々しく華やかな声で歌いながら歩いてくるではありませんか。喜んだ源氏は早速その娘を抱きかかえて小部屋に連れ込んだのでした。
驚いて助けを求めようとする娘に源氏が投げたのは「まろは、皆人にゆるされたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。」(私は何をしても許されるのだ。人を呼んでも無駄ですよ)という言葉でした。何という傲慢さでしょう。娘は相手の男が源氏の君であることに気づくと、対して抵抗もせず、二人は契りを交わしたのでした。その後で、源氏は娘が誰であるか知ろうとするのですが、教えてくれません。実はこの女性は、数か月後に、春宮への入内が予定されている右大臣家の六の君だったのです。彼女はこの時口ずさんでいた歌にちなんで朧月夜の君と呼ばれることになります。春宮に入内する予定の方と契りを交わしてしまったということですから、これは大問題です。けれども、そういうスリリングな恋こそ源氏の望むところでした。諦めるどころか一層恋心は燃えたのでした。この朧月夜という女性は源氏物語に登場する多くの女性たちの中で一番の現代っ子です。王朝時代の女性としては珍しく積極的な、からりと明るい感じの人です。私はこの人が好きなんです。
またあとで登場します。

 さて、桐壺帝はその翌年に退位され、弘徽殿女御腹の朱雀が帝の位に即き、藤壺中宮の産んだ皇子が春宮となりました。源氏も22歳となり、位も右大将に昇進しました。
帝の退位に合わせて伊勢の斎宮も賀茂の斎院も交代します。
新斎宮に立たれたのは六条御息所の娘でした。そこで御息所は娘と共に伊勢へ下向することをお考えでした。年下の源氏の君の熱心な求愛に負けて契りを交わしたものの、その後の源氏の君のつれない態度に御息所は苦しんで、そこから逃れるために京を去ろうとお考えだったのです。
 一方の賀茂の斎院には弘徽殿女御腹の女三の宮が立たれました。桐壺院と弘徽殿の格別可愛がっておられた宮なので、新斎院に関わる行事は、どれも、たいそう豪勢で美々しいものとなりました。その新斎院の禊の日のことです。禊の行列には勅命で源氏の君も参加することになりました。ここでも彼は主役です。行列の通る道筋にはひと目源氏の大将の姿を観ようと物見車がびっしり立ち並びました。わざわざ田舎から見物に来るものもあったとあります。葵の上も女房たちに勧められて、遅ればせに車を出しました。ところがすでに道筋には車が立ち並んで隙間がありません。原文を読みましょう。


  隙もなう立ち渡りたるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。よき女房車多くて、雑々の人なき隙を思ひ定めて、皆さし退けさするなかに、網代のすこしなれたるが、下簾のさまなどよしばめるに、いたう引き入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車二つあり。

 後から来た葵上一行は、左大臣家の威光を嵩に着て居並ぶ車を押しのけて、割り込みます。
その中に御息所の車もあったのです。ことさらにやつれたる・・・とありました。わざわざ質素にみせてはいるもののいかにも上品な雰囲気の網代車でした。御息所側は立ち退く事を拒み、葵側と従者同士の喧嘩になりました。結局は、多勢に無勢で御息所の車は一部が壊された上に後ろに押しやられたのでした。その部分の原文です。


  つひに御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、ものも見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと限りなし。榻などもみな押し折られて、すずろなる車の筒にうちかけたれば、またなう人わろく、くやしう、何に来つらむと思ふにかひなし。ものも見で帰らむとしたまへど、通り出でむ隙もなきに、「事なりぬ」と言へば、さすがに、つらき人の御前わたりの待たるるも、心弱しや。(略)目もあやなる御さま、容貌の、いとどしう、出栄を見ざらましかばとおぼさる。

 あまりに惨めなので、行列を見ずに帰ろうとなさったけれど、隙間がなくて、立ち去ることもできずにいた所に行列がやってきました。源氏の君は自分の方見向きもして下さらないけれども、今日のこの素晴らしい晴れ姿を見られなかったらどんなに残念だったろうと思ってしまう御息所でした。六条御息所はかつての春宮妃であり、世が世なら后ともなったかもしれない高貴な家柄の方で、趣味人としても有名な方でした。そのような方がこの日のような目に合って、どれほど自尊心が傷ついたことでしょう。まして、自分の車を押しのけたのが、正妻葵上の一行であったと思えばその悔しさは一通りではなかったことでしょう。そうして、彼女の心の内にどす黒い怨念が育っていたことに本人さえも気づいてはいませんでした。
 賀茂の祭りの当日は、源氏は若紫と同乗して祭り見物に行きます。出かける前には手ずから若紫の髪を切ってやっています。「なんと髪が多いんだ」とか言いながら切っています。
その場面、少しだけ原文をご紹介しましょう。


  姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見たてまつりたまふ。「君はいざたまへ。もろともに見むよ」とて、御髪の常よりもきよらに見ゆるを、かきなでたまひて、「久しうそぎたまはざめるを今日はよき日ならむかし」とて(略)「君の御髪は、われそがむ」とて、「うたて、所狭うもあるかな。いかに生ひやらむとすらむ」と、そぎわづらひたまふ。

 結婚して10年目にやっと子どもを宿した正妻葵の上をいとしく思わないでもないが、いまだに打ち解けてはくれず扱いにくい、六条御息所も肩が凝る。何と言っても、若紫が心の安らぎでした。
 この祭の日の頃から葵の上は執念深い物の怪に取りつかれて、激しく苦しむことが多くなりました。源氏も心配してあれこれと手配して祈祷などをさせています。その一方で、六条御息所の方も寝込んでおいでと聞いて、源氏は見舞いにと、久々に御息所の元へ足を運びました。一夜を共にし、朝になって、お帰りになる源氏の君のお姿は眩しいほどの美しさで、御息所の心は揺れに揺れたのでした。今回はここまで。次回は、この御息所の心の働きがどのような結果をもたらしたかという所からお話を始めましょう。

文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「葵」2021年5月21日配信


YouTube動画中の「源氏物語絵巻」につきまして。パブリックドメインとするニューヨーク公立図書館デジタルコレクションより引用しています🔗