夕霧五、あはれを添ふる夕霧

夕霧

第3章 脇役の男たち 其の三「夕霧」
五、あはれを添ふる夕霧

 

 小野の山荘に移り住んだ落葉の宮とその母御息所、夕霧はチャンス到来とばかりに郊外のその山荘を訪れます。世間には親友の遺族の面倒を見て居ると言う風に見せかけながら、実はその未亡人と何とか親しくなりたいと言う思いです。原文で読みましょう。大将が夕霧です。

  まめ人の名をとりてさかしがりたまふ大将、この一条の宮の御ありさまを、なほあらましと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。下の心には、かくては止むまじくなむ、月日に添へて思ひまさりたまひける。(略)いかならむついでに、思ふことをもまほに聞こえ知らせて、人の御けはひをも見む、とおぼしわたるに、御息所、もののけにいたうわづらひたまひて、小野といふわたりに、山里持たまへるにわたりたまへり。

 夕霧が山荘に着いてみると、御息所のお具合がよくないというので、元々多くは来ていない女房たちがみなそちらにつきっきりになって、落葉の宮はがらんとしたところで、物思いにふけっておいでです。夕霧は良い機会だと思い、今日こそ日ごろの思いを訴えようと決心して、宮の近くに寄って話しかけます。日も暮れて、いかにも山里らしく霧が深く立ち込めてきました。「夕霧が濃すぎて帰る道も見えません」と歌を詠みかけると宮も歌を返してくれました。ところで、この時詠んだこの夕霧の歌から彼は「夕霧」と呼ばれるようになったのです。ちなみにこの歌のやり取りやふたりの会話はすべて女房を介していて、直接にはなしているわけではありません。
さて、その歌のやりとりの後で、夕霧は思いがけない行動に出ます。歌の応酬のあたりから原文で読みましょう。

  いと苦しげにしたまふなりとて人々もそなたにつどひて、おほかたも、かかる旅所にあまた参らざりけるに、いとど人少なにて、宮はながめたまへり。しめやかにて、思ふこともうち出でつべきをりかな、と思ひゐたまへるに、霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、「まかでむかたも見えずなりゆくは、いかがすべき」とて、
  山里のあはれを添ふる夕霧に
立ち出でむそらもなきここちして
と聞こえたまへば、
   山賤の籬をこめて立つ霧も
心そらなる人はとどめず
ほのかに聞こゆる御けはひになぐさめつつ、まことに帰るさ忘れ果てぬ。(略)例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきも見えたまはぬを、うたてもあるかな、と宮おぼせど、ことさらめきて、軽らかにあなたにはひわたりたまはむも、さまあしきここちして、ただ音せでおはしますに、とかく聞こえ寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の蔭につきて入りたまひぬ。

 この時までは部屋の外の廊下に夕霧は座っていました。落葉の宮は、普段はこんなに長居なさる方ではないのに困った事、となかなか帰って行こうとしない客人に当惑しながらもわざとらしく奥にひっこむのも失礼かとじっとしていると、夕霧は自分の言葉を伝えに部屋に入って行く女房の後にくっついて、何と宮の部屋に入り込んでしまったのです。原文で読みましょう。

  まだ夕暮の、霧にとぢられて内は暗くなりにたるほどなり。あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまうて、北の御障子の外にゐざり出でさせたまふを、いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ。御身は入り果てたまへれど、御衣の裾の残りて、障子はあなたより鎖すべきかたなかりければ、引きたてさして、水のやうにわななきおはす。人々もあきれて、いかにすべきことともえ思ひえず。

 女房が気配を感じて振り返ると、背後に夕霧がいるではありませんか。部屋の中はすでに薄暗くなっています。宮は恐ろしくなって部屋の外に逃れようとするのですが、夕霧に着物の裾をつかまれてしまいます。からだは部屋の外に逃げおおせたのですが、裾をつかまれてしまって襖を閉めることができず、宮はぶるぶる震え、まわりの女房たちもおどろくばかりでどうしてよいかわからず呆然としています。夕霧もとんでもない狼藉をはたらくものですね。もっとおだやかに接近する方法があるでしょうに。恋の道にたけた源氏の君なら絶対にしないようなやり方です。しかもその後もいけません。
 彼は頑なに拒む落葉の宮に向かって、あなたも結婚したことのある身なのに、そんな初心な対応をしなくてもいいじゃないですか、みたいなことを言ったり、このまま何事も無く自分が帰ったとしても、あなたは濡れ衣を着るだけでしょうよなどと、女性の心を逆撫でするようなことを言っています。本当に不器用な、女心を解しない奴です。原文で読みましょう。

 「あまりこよなくおぼし貶したるに、えなむしづめ果つまじきここちしはべる。世の中をむげにおぼし知らぬにしもあらじを」と、よろづに聞こえせめられたまひて、いかが言ふべきとわびしうおぼしめぐらす。
世を知りたるかたの心やすきやうに、をりをりほのめかすも、めざましう、げにたぐひなき身の憂さなりや、とおぼし続けたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、「憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」と、いとほのかにあはれげに泣いたまうて、
われのみや憂き世を知れるためしにて
濡れそふ袖の名をくたすべき
とのたまふともなきを、わが心に続けて、忍びやかにうち誦じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞとおぼさるるに、「げにあしう聞こえつかし」など、ほほゑみたまへるけしきにて、
「おほかたはわれ濡衣を着せずとも
朽ちにし袖の名やは隠るる
ひたぶるにおぼしなりねかし」とて月明きかたに誘ひきこゆるもあさましとおぼす。

 かなり無神経に高圧的に説得しようとしましたが、結局落葉の宮は拒み続け、夕霧は無理やり思いをとげるのも自分らしくないと思って、何ごともないままに明け方になって、山荘を辞去しました。
 ところが、その姿を、御息所の所へ加持に通う律師に見られてしまいます。気の利く人ならそんなことは口にしないものですが、世事には疎いからか、御息所に「お嬢様はいつから大将を通わせておられるのか」と不躾な質問をしたのです。そしてさらに、「夕霧大将には強い本妻があって、子どもも大勢おられるから、お嬢様には太刀打ちできない、煩悩がますのでこの縁は切った方が良いですよ」とまで言うのです。驚いた御息所はそんな関係ではないと言いますが、朝帰りの姿をみた律師はゆずりません。
御息所は娘やお付きの女房を呼んで事情を聞きますが、よくわかりません。いずれにしても、律師があのように言うのなら、世間もそう思うだろうと、御息所はショックで一層重くなった病状に耐えて、夕霧にこうなった以上責任をとってほしいといった趣旨の手紙を出します。ところがその手紙は雲居の雁に奪われて、夕霧はその夜読むことがかないませんでした。原文です。女君とあるのが、妻雲居の雁です。

  宵過ぐるほどにぞ、この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、御殿油近う取り寄せて見たまふ。女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、はひ寄りて、御うしろより取りたまうつ。(略)とかく言ひしろひて、この御文はひき隠したまうつれば、せめてもあさり取らで、つれなく大殿籠りぬれば、胸はしりて、いかで取りてしがなと、御息所の御文なめり、何ごとかありつらむと、目も合はず思ひ臥したまへり。女君の寝たまへるに、昨夜の御座の下など、さりげなくて探りたまへど、なし。

 愛人からの手紙だと思って奪い取った手紙を、雲居の雁はどこかに隠してしまいました。一体どういう内容の手紙だったのだろうかと気になって、妻が寝た後でこっそり探したのですが、手紙は見つからず、翌朝になってもまだ見つからない。雲居の雁は夫が手紙を探しているとは思わず、自分が手紙を隠したことさえ忘れて子供たちの相手をしています。愛人からの恋文ではない、どうということもないものだと言った手前、今さら、「あの手紙はどうした」と聞くに聞けない夕霧の焦り。御息所に早くお返事しなくてはと思うけれども手紙の内容がわからないままにお返事の書きようがない・・・。原文です。

  女は、かく求めむとも思ひたまへらぬをぞ、げに懸想なき御文なりけりと、心にも入れねば、君達のあわて遊びあひて、雛作りひろひすゑて遊びたまふ。書読み、手習ひなど、さまざまにいとあわたたし。小さき児這ひかかり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出でたまはず。男は、異事もおぼえたまはず、かしこに疾く聞こえむとおぼすに、昨夜の御文のさまも、えたしかに見ずなりにしかば、見ぬさまならむも、散らしてけるとおしはかりたまふべしなど、思ひ乱れたまふ。

 読まないままにお返事を書くことも考えたのですが、それでは手紙を失くしたのだとお思いになるだろうと迷っています。さあ困ったことになりました。そのままにこの日は過ぎて行きます。この続きは次回といたしましょう。


















文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回2023年8月24日(木)夕霧六「霧ふたがる里」をお送りします。 
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗