七、千年の春

初音 胡蝶

千年の春

 源氏の君35歳の秋、かねてから造営中であった六条院が完成しました。この邸宅は一般の貴族の舘の4倍の敷地に、春夏秋冬の季節に合わせた植栽で整えた四つの庭が作られ、それぞれに立派な寝殿造りの舘が建てられています。光源氏という男の夢を実現したものであり、彼の力の象徴でもありました。この頃、彼は太政大臣という最高の位につき、養女の斎宮女御は后の位について秋好中宮と呼ばれるようになっています。紫の上はその六条院の女あるじとして、幸せな日々を送っていました。六条院の四つに分けられた領域のなかでも最も豪華に作られた春の舘に、源氏の君、明石姫と共に紫の上が住んでいます。春の舘の西隣が秋の舘で、こちらは秋好中宮が里下りされた時の住まいです。そして、夏の舘には花散里、冬の舘には明石の君、と源氏の妻たちがそれぞれ移り住んでいます。同じ敷地内に三人の妻が暮らしていることになりますが、花散里、明石君の二人は紫の上と肩を並べるような存在ではありません。27歳になった紫の上は女ざかり、輝くような美しさの上に第一夫人としての自信が添ってその姿はまばゆいばかりです。
源氏の君と紫の上が六条院に移り住んだのは秋でしたが、時を同じくして秋好中宮も新邸宅に里帰りされました。そこで、紫の上の元に中宮から粋な挑戦状が届きました。春と秋とではどちらが魅力的かを競う春秋争いです。本文で読みましょう。

  長月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、いろいろの花紅葉をこきまぜて、こなた(紫の上)にたてまつらせたまへり。(略)御消息には、
   心から春まつ園はわがやどの
     紅葉を風のつてにだに見よ
若き人々、御使もてはやすさまどもをかし。御返りは、この御箱の蓋に苔敷き、巌などの心ばへして、五葉の枝に、
    風に散る紅葉はかろし春の色を
      岩根の松にかけてこそ見め
この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬ作りごとどもなりけり。      
 
 秋の舘に住む中宮から、「あなたのお好きな春はまだまだ遠いでしょう。残念ですこと。せめて私の庭の紅葉でもごらんになったらいかが」という歌と共に美しい紅葉や秋の花が届けられたのです。紫の上は、中宮から届いた箱の蓋に、作り物の苔や岩や松の木を置いて、「風に散る紅葉は軽々しくって問題になりませんわ。春の緑の重々しい美しさをこの松の緑に御覧になって下さいな」という歌をつけて返しました。
 翌年の春にはこの時のお返しを紫の上がします。後ほどご紹介しましょう。まずは、引っ越してから初めて迎える六条院の新春の光景です。幸せな夫婦を絵に描いたような場面を原文で読みましょう。

  春の御殿の御前、とりわきて、梅の香も御簾のうちの匂ひに吹き紛ひて、生ける仏の御国とおぼゆ。さすがにうちとけて、やすらかに住みなしたまへり。(略)朝のほどは人々参りこみて、もの騒がしかりけるを、夕つかた、御方々の参座したまはむとて、心ことにひきつくろひ、化粧じたまふ御影こそ、げに見るかひあめれ。「今朝この人々のたはぶれかはしつる、いとうらやましく見えつるを、上にはわれ見せたてまつらむ」とて、乱れたることどもすこしうちまぜつつ、祝ひきこえたまふ。
うす氷とけぬる池の鏡には
世にたぐひなきかげぞならべる
げにめでたき御あはひどもなり。
くもりなき池の鏡によろづ代を
すむべきかげぞしるく見えける
  
 これから女君たちの元にあいさつ回りにゆくからと、源氏の君はまず紫の上と新年を寿ぎ合います。二人の歌。源氏は「君と私の最高に幸せな美しい姿が池の鏡に映っているよ」と詠み、紫の上は「あなたさまのこれから先ずっとお健やかにお過ごしになるお姿が映っているのですわ」と返しています。
 そうして、新春の日々がめでたく過ぎて、春もたけなわの三月二十日ごろ、今の暦で言えば四月の末頃になるでしょうか、六条院春の舘で、咲き誇る花々に囲まれた池に龍頭鷁首の船を浮かべて船楽の催しが行われました。華やかな催しに多くの貴族が集まりましたが、その翌日は引き続き、隣の秋の舘で、里下り中の秋好む中宮が、御読経という仏事をお始めになると言うので、集まった人々はそのまま隣の御殿に移ります。当時、上層貴族は春と秋の二回、僧たちを招いて四日間にわたる法会を行っていました。それを御読経と言います。その法会に合わせて、紫の上から供養が送られました。以前、秋の時には美しい少女が箱の蓋に載せた花や紅葉を届けました。そのお返しです。原文で読みましょう。


  今日は中宮の御読経のはじめなりけり。(略)春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことにととのへさせたまひて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になきにほひを尽くさせたまへり。南の御前の山際より漕ぎ出でて、御前に出づるほど、風吹きて、瓶の桜すこしうち散りまがふ。いとうららかに晴れて、霞の間より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。(略)童べども、御階のもとに寄りて、花どもたてまつる。行香の人々取りつぎて、閼伽に加へさせたまふ。御消息、殿の中将の君(夕霧)して聞こえたまへり。
花園の胡蝶をさへや下草に
秋まつむしはうとく見るらむ
宮、かの紅葉の御返りなりけりと、ほほゑみて御覧ず。

 鳥と蝶に扮装した子ども、山吹をさした金の花がめと桜をさした銀の花がめが乗せられた舟が、池を漕ぎ渡ります。この池は春の御殿の庭から秋の御殿の庭につながっているのです。風が吹いてかめの桜がすこし散ったとあります。あーなんて雅で美しい光景でしょう。うっとりしていまいます。紫の上からの歌を夕霧がお伝えしました。「秋のくるのをお待ちのあなたさまにとっては蝶々も可愛くないのでしょうね」という戯れの歌です。こうして春から夏へと時はすぎて行きます。
 さて、三歳でひき取られた明石姫は紫の上の元ですくすくと育ち、もう8歳になっています。女の子に必要な教養を身に着けさせるために紫の上も源氏の君も心を配っていたと思われます。六条院に移った翌年の梅雨時、姫に与える物語について源氏が紫の上に注意を与える場面があります。ここはいかにも教育熱心な親という感じがして面白いのでちょっとご紹介しましょう。原文です。

  紫の上も、姫君の御あつらへにことづけて、物語は捨てがたくおぼしたり。(略)「姫君の御前にて、この世馴れたる物語など、な読みきかせたまひそ。みそか心つきたるものの娘などは、をかしとにはあらねど、かかること世にはありけりと、見馴れたまはむぞゆゆしきや」(略)など、ただこの姫君の、点つかれたまふまじくと、よろづにおぼしのたまふ。継母の、腹ぎたなき昔物語も多かるを、心見えに心づきなしとおぼせば、いみじく選りつつなむ、書きととのへさせ、絵などにも描かせたまひける。

 源氏の君は物語の内容について注意を与えています。ふしだらな娘の話とか継子いじめの話とか教育上よろしくないものは読み聞かせないようになどと言っています。当時は継子いじめの物語がとても多かったようです。事実としても、そういうことは間々あったのでしょう。けれども、紫の上と明石姫は実の親子以上に睦まじく暮らしていました。冬の舘に移って来た明石の君が娘の姫に会うことは許されていません。姫は実の母が別にいることは知らされていますが、紫の上を慕っていて、この人の子であるという事に満足しているのでした。こうして六条院春の舘での親子三人の平和な日々は続いたのでした。







文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回第八回 「香壺」 2022年5月19日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗