※朗読コンテンツは3月13日配信となります。
一「夕顔の舘」
これも光源氏17歳の頃のできごとです。前々回の空蝉のお話の頃と時期は重なります。その時にお話ししたように、光源氏は宿直所に集まった仲間たちの話に触発されて自分とは異なる身分、中流階級の女性に興味を持つようになり、空蝉、夕顔、末摘花といった女性たちと次々に関わったのでした。
夕顔との出会いは、六条御息所の所に通う道筋に住む乳母(めのと・うばのことですね)を見舞ったことがきっかけとなります。源氏の側近惟光は源氏とは乳兄弟の間柄です。その惟光の母つまり源氏の乳母の病気が重いと聞いて源氏は五条あたりの、中流から下流の人々が住む界隈にある乳母の家を訪問します。その時正面の門が閉まっていて、しばらく門前で待たされることになりました。その間に向かいの家の垣根に咲く花に興味を持ちその花の名をお付きの者に尋ねたのでした。尋ねたと言っても「あの花の名前は何」などと言ったわけではありません。独り言のように「遠方人にもの申す」と言っています。これは「うちわたす遠方人にもの申すわれそのそこに白く咲けるは何の花ぞも」という古今集の旋頭歌をひいているのですが、お付きの者はすぐにそれとわかって花の名を答えています。全くこの当時の人々の教養のレベルの高さには驚きます。その後の展開を原文で読みましょう。
きりかけだつ物にいと青やかなるかづらの、ここちよげにはひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑の眉ひらけたる。「遠方人にもの申す」と、ひとりごちたまふを、御随身ついゐて、「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ、咲きはべりける」と、申す。げにいと小家がちにむつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまなどの、はひまつはれたるを、「くちをしの花の契りや。一ふさ折りて参れ」とのたまへば、この押しあげたる門に入りて折る。さすがにされたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴、長く着なしたる童の、をかしげなる、出で来て、うち招く。白き扇の、いたうこがしたるを、「これに置きて参らせよ。枝もなさけなげなめる花を」とて、取らせたれば、門あけて惟光の朝臣出で来たるして、奉らす。
お付きの者が花の名を答えると、源氏はその花をひとふさ折って持ってこいと命じます。するとその家から子供が出てきて、香を焚きしめた扇を差し出し、「これに載せて差し上げてください」と言うので、夕顔の花はその扇に載せられて、ちょうど門を開けて出て来た惟光を通して源氏の君に奉られたのでした。この後源氏は乳母を見舞い、しばらく話をした後で、夕顔の花が載せて寄越された扇を見ます。扇には歌が書かれていました。その部分原文で読みましょう。
惟光に紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば、もてならしたる移香、いと染み深うなつかしくて、をかしうすさび書きたり。
心あてにそれかとぞ見る白露の
光そへたる夕顔の花
そこはかとなく書きまぎらはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかにをかしうおぼえたまふ。
夕顔の花を載せた扇に書かれていた歌の筆跡は貧しげなみすぼらしい家に住む女性のものとは思えぬ上品で風流な書き流しの文字、即興の歌もなかなかのものです。歌は「当て推量ながら夕日に輝く美しい(夕顔)お顔は光の君かと存じます」と言うような意味です。源氏はその家に住む女性に興味を持ち、早速返歌を詠んでお付きの者に届けさせたのでした。返歌は「もっと近寄って見たらどうですか」と女を誘うものになっています。自分であるとわからないように筆跡を変えて書いたとあります。原文で読みましょう。
御畳紙に、いたうあらぬさまに書きかへたまひて、
寄りてこそそれかとも見めたそかれに
ほのぼの見つる花の夕顔
ありつる御随身してつかはす。まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御そば目を見過ぐさで、さしおどろかしけるを、いらへたまはでほどへければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、いかに聞こえむ、など言ひしろふべかめれど、めざましと思ひて、随身は参りぬ。
源氏からの歌を受け取った女の側は、どうお返事しようとあれこれ騒いでいるようなので、歌を届けたお付きの者は「身のほど知らずめが」と思って返事はまたずに戻ってきたのでした。この後で源氏は惟光に命じてその夕顔の家の女のことを調べさせたのでした。惟光はその家についての情報を得るためにその家にお仕えする若い女の子にあてて恋文を出してみたというのですから惟光は本当に忠実な部下ですね。惟光が言うには5月ごろから密かに滞在している人がいるということだけれど、それがどういう素性の人かはわからない、というのです。源氏は一層興味を持ち、こういう貧し気な家に思いがけない素晴らしい女がいたらどんなに素敵だろうと思って惟光をけしかけたのでした。惟光はその家の事情をあれこれ探り、その女が誰かはわからないけれど、どうやら頭の中将に関係のあった女らしいということを報告してきます。源氏の好奇心はますます募り、とにかく垣間見させよと惟光に迫ったのでした。原文で読みましょう。
惟光、日頃ありて参れり。(略)「仰せられしのちなむ、隣のこと知りてはべる者呼びて、問はせはべりしかど、はかばかしくも申しはべらず。いと忍びて五月のころほひよりものしたまふ人なむあるべけれど、その人とは、さらに家のうちの人にだに知らせず、となむ申す。時々中垣のかいま見しはべるに、げに若き女どもの透影見えはべり。しびらだつもの、かことばかり引きかけてかしづく人はべるなめり(略)」と聞こゆ。君うちゑみたまひて、知らばやと思ほしたり。(略)「なほ言ひ寄れ。尋ね寄らでは、さうざうしかりなむ」とのたまふ。かの下が下と、人の思ひ捨てし住ひなれど、そのなかにも、思ひのほかにくちをしからぬを見つけたらばと、めづらしく思ほすなりけり。
どこまでも忠実な惟光は、まあ自分自身の好き心も手伝って、なんと自身がその家に恋人を作り、無理な算段をして、源氏を密かに案内したのでした。通い始めてみると、その夕顔の宿の女は予想をはるかに超えた魅力的な女で、源氏はすっかり心を奪われてしまいます。朝も昼のその女性のことで頭が一杯になってしまったとあります。原文で読みましょう。
惟光、いささかのことも御心に違はじと思ふに、おのれも隈なき好き心にて、いみじくたばかりまどひありきつつ、しひておはさせそめてけり。(略)かかる筋は、まめ人の乱るるをりもあるを、いとめやすくしづめたまひて、人のとがめきこゆべきふるまひはしたまはざりつるを、あやしきまで、今朝のほど昼間の隔てもおぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつはいともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深く重きかたはおくれて、ひたぶるに若びたるものから、まだ世を知らぬにもあらず、いとやむごとなきにはあるまじ、いづこにいとかうしもとまる心ぞ、とかへすがへすおぼす。
その女性はなんともいえずやさしくおっとりして素直で、幼い感じがするけれど全く初心というわけでもない。とにかく本当に可愛いいのです。さあこの恋の行方はどうなるでしょうか。続きは次回に回しましょう。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
第四章 通り過ぎた女君たち 其の三葎の宿の夕顔「隈なき月影」は2025年3月27日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗