夕霧四、想夫恋を弾きたまふ

柏木、横笛

第3章 脇役の男たち 其の三「夕霧」
四、想夫恋を弾きたまふ

 

 柏木の妻であった女二宮が落葉の宮と呼ばれるのは、女三宮を切望していた柏木が、三宮の代わりに二宮と結婚した後で、二宮は三宮とは全然似ていないことに失望して「なぜこんな落葉を拾ったのだろうか」と独り言ちたことから来ています。随分失礼な言いようですね。
さて、夕霧は宮邸を何度か訪れるうちに、邸の雅な雰囲気から想像される落葉の宮という方に惹かれるようになってきます。柏木から落葉の宮についての愚痴をきいていましたから、美人じゃないかもしれないが、人は見た目で決まるものじゃない、大切なのは人柄だと心に呟いています。そしてそれとなく、あまり色めいた感じは出さないようにしながらも、好意を伝えようとします。原文で読みましょう。

  かの一条の宮にも、常にとぶらひきこえたまふ。卯月ばかりの空は、そこはかとなうここちよげに、ひとつ色なる四方の梢もをかしう、見えわたるを、もの思ふ宿は、よろづのことにつけて静かに心細う、暮らしかねたまふに、例のわたりたまへり。(略)この宮こそ、聞きしよりは心の奥見えたまへ、あはれ、げにいかに人笑はれなることを取り添へておぼすらむ、と思ふもただならねば、いたう心とどめて、御ありさまも問ひきこえたまひけり。容貌こそいとまほにはえものしたまふまじけれど、いと見苦しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、見る目により人をも思ひ飽き、また、さるまじきに心をもまどはすべきぞ、さまあしや、ただ心ばせのみこそ、言ひもてゆかむには、やむごとなかるべけれ、と思ほす。「今はなほ昔に思ほしなずらへて、うとからずもてなさせたまへ」など、わざと懸想びてはあらねど、ねむごろにけしきばみて聞こえたまふ。

 「亡くなった御主人と同じようにお考えになって、親しくお付き合いください」などと言っています。この後も、夕霧はずっと律儀に宮邸への見舞を続けています。
 ある秋の夕べ、突然訪れた夕霧に慌てて、弾いていた琴をそのまま残して、落葉の宮は御簾の向こうに引き下がりました。出入りする人も多く子供たちで賑やかな我が家に引き換え、こちらは静かで趣き深い夕暮れの光景が広がっています。夕霧は廂の間に腰を下ろして残された琴を少し爪弾いて、こういう場面で好き心ある男は浮いた噂を立てられるようなことをするんだろうななどと思っています。原文です。

  うちとけしめやかに、御琴どもなど弾きたまふほどなるべし、深くもえ取りやらで、やがてその南の廂に入れたてまつりたまへり。(略)わが御殿の、明け暮れ人しげく、もの騒がしく、幼き君たちなど、すだきあわてたまふにならひたまひて、いと静かにものあはれなり。うち荒れたるここちすれど、あてに気高く住みなしたまひて、前栽の花ども、虫の音しげき野辺と乱れたる夕ばえを、見わたしたまふ。
和琴を引き寄せたまへれば、律に調べられて、いとよく弾きならしたる、人香にしみて、なつかしうおぼゆ。かやうなるあたりに、思ひのままなる好き心ある人は、しづむることなくて、さまあしきけはひをもあらはし、さるまじき名をも立つるぞかし、など、思ひ続けつつ掻きならしたまふ。

 その琴は生前柏木が愛用していたものです。夕霧はその琴に先ほどまでふれていたはずの落葉の宮の空気を感じ、自分でもその琴をかき鳴らし、御簾の際にそれを押しやり、落葉の宮を促します。折から月の光は冴えわたり、ものあはれな風情に満ちた宵です。控えめな宮も、思わず琴を掻き鳴らしたのでした。原文です。

  月さし出でて曇りなき空に、羽うちかはす雁がねも、列を離れぬ、うらやましく聞きたまふらむかし。風膚寒く、ものあはれなるに誘はれて、筝の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも、奥深き声なるに、いとど心とまり果てて、なかなかに思ほゆれば、琵琶を取り寄せて、いとなつかしき音に、想夫恋を弾きたまふ。「思ひ及び顔なるは、かたはらいたけれど、これはこと問はせたまふべくや」とて、切に簾のうちをそそのかしきこえたまへど、ましてつつましきさしいらへなれば、宮はただものをあはれとおぼし続けたるに、
ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは
人に恥ぢたるけしきをぞ見る
と聞こえたまふに、ただ末つかたをいささか弾きたまふ。
   深き夜のあはればかりは聞きわけど
      ことよりほかにえやは言ひける

 夕霧は「あなたのお気持ちを表したこの曲なら弾いていただけるでしょう」と夫を想う曲と言われる想夫恋を弾いたわけです。こうして宮の琴を聞き歌も詠み交わし、その後では御息所とも語り合って夜更けてから夕霧は宮邸を辞したのでした。
そうして、すっかり雅な気分に酔ったまま夕霧は帰宅しますが、自宅は宮邸とは全く違う世界です。戸は全部しっかり閉められてすっかり寝静まっているのです。雲居の雁は、夕霧が柏木未亡人に気があるらしいと人から聞かされていて、あちらに長居して遅く帰宅する夫が許せず、帰宅に気づいても寝たふりをしています。夕霧はどうして今夜の名月を見ないのかと言って御簾を巻き上げて、外に近い処で横になります。原文です。

  殿に帰りたまへれば、格子などおろさせて、皆寝たまひにけり。「この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがり聞こえたまふぞ」など、人の聞こえ知らせたれば、かやうに夜ふかしたまふもなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く、寝たるやうにてものしたまふなるべし。「妹とわれといるさの山の」と、声はいとをかしうて、ひとりごち歌ひて、「こはなどかく鎖し固めたる。あな埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり」と、うめきたまふ。格子上げさせたまひて、御簾巻き上げなどしたまひて、端近く臥したまへり。

月の光で見ると、部屋の中は子どもたちや女房がそこら中一杯にごろごろ横になっています。雑然とした部屋のうちを見ながら、御息所から託された笛をそっと吹いて、今頃宮のところでは琴を弾いたりして月を楽しんでおいでなのだろうなと思いながら眠りについたのでした。原文です。

 君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなど、ここかしこにうちして、女房もさしこみて臥したる、人気にぎははしきに、ありつる所のありさま思ひ合はするに、多く変はりたり。この笛をうち吹きたまひつつ、いかに名残もながめたまふらむ、御琴どもは、調べ変はらず遊びたまふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし、など、思ひやりて臥したまへり。

 ところが寝付くとすぐに子どもの泣き声で目が覚めました。幼い子が泣いて、乳を戻したりしてちょっとした騒ぎになり、雲居の雁は胸をはだけてお乳を飲ませています。そして、夕霧に向かって、あなたが御簾を上げて月を見たりするから、何か悪いものが入って来たのよと苦情を言うのでした。原文です。

  若君の寝おびれて泣きたまふ御声に、さめたまひぬ。この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騒ぎ、上も御殿油近く取り寄せさせたまひて、耳はさみして、そそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸をあけて、乳などくくめたまふ。

 こうして、時折宮の元を訪ねるようになってからすでに二年以上の時が流れました。何かの機会を捉えて恋心を訴えたいと気長に願っていたところ、母御息所が病気になり、小野の山荘に移るという話を聞き、これはもしかしたら、チャンスかもしれないと見舞いに行きます。小野というのは今で言えば、一乗寺、高野から大原の手前あたりでしょうか。比叡山の麓です。この山荘の位置は修学院離宮あたりかなと思います。
 山荘に移る手配から、律師、祈祷をしてくれる法師ですね、その人へのお礼、部屋の準備など色々なことをしておいて、夕霧は自ら見舞いに出かけて行ったのでした。

















文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回2023年8月10日(木)夕霧五「あはれを添ふる夕霧」をお送りします。 
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗