四、恋の狩人

帚木、空蝉、夕顔

恋の狩人

 前回申しましたように、源氏の君は、品定めの一夜の翌日、方違えで紀伊の守の邸に泊まることになりました。たまたま、そこには、紀伊の守の父である伊予の介の後妻が滞在していました。紀伊の守の話によれば、父伊予の介とは年の離れた若い後妻だということで、もとはそれなりの身分であったのに、親亡き後、身よりもなかったために、受領階級の、しかも、高齢の、伊予の介の元に身を寄せたということでした。
今は受領の妻であるが、元は上流の家柄・・・・昨夜の品定めの話を思い出して、源氏の心にむくむくと好奇心が湧いたのでした。若い彼は早速行動に移しました。人々の寝静まるのを待って、その女性の部屋に忍び込んだのでした。
   
  皆しづまりたるけはひなれば、かけがねをこころみに引きあげたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口には立てて、火はほの暗きに見たまへば、唐櫃だつ物どもを置きたれば、みだりがはしきなかを分け入りたまへれば、ただひとりいとささやかにて臥したり。

 そっと襖をあけて部屋に入ってみると、目指す女性は一人で寝ています。その女性、空蝉は、突然傍らに寄り臥してきた男が源氏であることにすぐに気づきました。今夜、そういうお方がお泊りになっていることは聞いていましたので、そのいかにも高貴なお方らしい雅やかな気配でこの不埒な男の正体が源氏の君であるとわかったのです。男の身分を知るが故に、「ここに怪しい人が」と叫ぶこともできず、ただ「人違へにこそはべるめれ」と息も絶え絶えに抵抗することしかできませんでした。源氏は相手の気持ちなど思いもしません。彼女を軽々と抱き上げて、襖の向こう側の自分の寝室に連れ込んだのでした。空蝉は汗ぐっしょりになって、さらに抵抗します。「こんな身分のものだからと見下して、無体なことをなさるのでしょうが、あなたとは御縁のない身分の者です。どうぞ相手になさらないで下さい」と言うのですが、それに対して、源氏は「私には身分の違いなどわかりません。世間の浮気者とは私は違います。なぜこんなことをするのかと自分でもわからないのです。前世からあなたと結ばれるご縁があったのでしょう。」などと言って、何とか空蝉に心を開かせようとします。原文です。

  まめだちて、よろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことのわびしければ、すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さるかたのいふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人がらのたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹のここちして、さすがに折るべくもあらず。

 源氏は必死の抵抗をする空蝉を可哀そうだと思いながらも、そのままにするわけには行かず、契りを交わします。空蝉は、情を解さぬ女だと思われてもいいと考えて、最後までつれなくふるまおうとします。そして、別れる前に、空蝉は源氏に「しがない受領の妻などに納まる前、結婚前にこのような情けをかけていただいたなら、愛していただけることを願うこともできたのですが・・今はもうきっぱりと私のことはお忘れになって下さい」と胸のうちを絞り出すようにして言ったのでした。
それでも源氏は空蝉のことが忘れられず、二度目の逢瀬を求めて、「なぜまたこちらに」といぶかられながらも、ふたたび紀伊の守の邸に方違えをしました。けれども、それを知った空蝉は、いち早く女房の部屋に隠れてしまい、源氏は彼女をみつけることができませんでした。
若く美しい源氏の君に強く惹かれながらも、すでに人妻であることや、身分違いであることから、空蝉は心の揺らぎを自らに許しません。ただ、この後も、源氏の君から送られてくるお手紙に時折歌を返すなどして、完全に源氏との縁が切れることは避けても居るのです。このあたりの空蝉の微妙な心理は、かなり詳細に、生き生きと描かれています。作者紫式部もこのような夢を見ていたのかもしれません。若い貴公子に言い寄られるというような。
その後しばらくしてから、源氏は空蝉の弟を手なづけて、紀伊の守邸に今度はこっそり侵入します。今回は自分が来ていることを空蝉は知らないのだから、うまく行くだろうと考えたのです。そしてその夜、ふたたび源氏は空蝉のもとに忍び込んだのでした。

  母屋の几帳の帷引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、皆しづまれる夜の、御衣のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。(略)かかるけはひの、いとかうばしくうちにほふに、顔をもたげたるに、一重うちかけたる几帳の隙間に、暗けれど、うち身じろき寄るけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹なる単を一つ着てすべり出でにけり。

 空蝉は気配に気づいて床を抜け出したのでした。後にはその夜部屋に泊まっていた空蝉の義理の娘が残されていました。源氏は抱き寄せたとたんにその肉付きから人違いに気づいたのですが、まあ、いいかとその娘と一夜の契りを結んだのでした。そして、空蝉が残していた薄衣をそっと抱えて立ち去ったのでした。
この後空蝉に逢うことはできませんでしたが、源氏はその薄衣の匂いを嗅いでは彼女を懐かしみ、どこまでも意地を通した空蝉を諦めきれずにいるのでした。
 この頃、源氏の君は、六条あたりの高貴な方にも通っていたとあります。そして、六条のお方に通う道筋にあった貧しげな家の女、夕顔にも興味を持ちます。乳母の家の隣であったため、親しく使っていた乳母子の惟光に命じて手だてを講じさせて、その女性のもとに通うようになります。時を経ずして、源氏は、不思議なほどにこの女性に夢中になります。まるで自分というものを持たないような、たよたよとした素直で物柔らかな夕顔の魅力に憑りつかれた源氏は寝ても醒めても彼女のことを思い続けずにいられません。素性を隠すためにわざわざ粗末なものを身に着け、顔は覆面で隠し、車にも乗らず馬で、従者も一人か二人だけしかつれずに、密かに通い続けます。やがて秋ともなり、仲秋の名月の夜、源氏は夕顔の宿で夜を明かしました。明け方の様子を原文で読みましょう。

  白妙の衣うつ砧の音もかなたこなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声、取り集めて、忍びがたきこと多かり。端近き御座所なりければ、遣戸を引きあけて、もろともに見いだしたまふ。ほどなき庭に、されたる呉竹、前栽の露は、なほかかる所も同じごときらめきたり。虫の声々みだりがはしく、壁のなかの蟋蟀だに間遠に聞きならひたるまへる御耳に、さしあてたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかへておぼさるるも、御心ざし一つの浅からぬに、よろづの罪ゆるさるるなめりかし。白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなるここちして、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、ほそやかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、あな心苦しと、ただいとらうたく見ゆ。

 戸一枚開ければ庭という狭い家で朝を迎え源氏の君は、唐突に、二人だけでどこか静かな所で過ごしたいという思いに駆られて、夕顔の宿から、何某の院に彼女を連れ出すことにしました。普段は使われていない皇室所有の屋敷です。明け方にそこに着いて、その日は一日中ふたりで寄り添って過ごしました。この屋敷には留守居役の者とその家族などが住むだけで、ひっそりしています。やがて夕暮れがやってきます。

  たとしへなく静かなる夕の空をながめたまひて、奥のかたは暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げて添ひ臥したまへり。夕ばえを見かはして、女も、かかるありさまを思ひのほかにあやしきここちはしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆくけしき、いとらうたし。つと御かたはらに添ひ暮らして、ものをいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。

 夕顔が暗い所を怖がるので、外に近い、夕映えの光の明るい所でふたりはぴったり寄り添って横になっています。源氏は、次第に打ち解けてきた夕顔がますます愛しくてなりません。暗い所を怖れる子供っぽさも可愛い。
 やがてとっぷり日が暮れて、夜の帳が屋敷を覆います。そしてその夜事件が起こりました。眠りについて、うとうとしたところで、源氏は夢を見て飛び起きます。自分の枕上に美しい女が座って、「あの素晴らしいお方をお訪ねすることなく、こんなつまらない女を連れて来て可愛がっていらっしゃるとは」と言って、夕顔をゆすって起こそうとしているのです。不気味な空気が漂っていて、眠気も吹き飛んだ源氏が、手を伸ばしてさわってみると夕顔はぐったりしていて反応がありません。宿直の者も寝ているのか、屋敷は真っ暗で、みんな寝静まっています。屋敷の者を起こして明かりを持って来させてみると、夕顔はすでに息絶えていたのでした。それに続く場面を原文でみましょう。

  まづこの人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、「やや」とおどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。言はむかたなし。たのもしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。法師などをこそは、かかるかたのたのもしきものにはおぼすべけれど、さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、「あが君、生きいでたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。

 まだ若い源氏は、動揺して、冷たくなってゆく夕顔を抱きかかえて呆然とするばかり。明け方になって、ようやくやって来た惟光に後を任せて、自宅二条院に戻ったのでした。この後、源氏は病みついて一か月以上病の床に臥すことになります。夕顔にただ一人付き添っていた右近という女房はそのまま源氏の元に引き取られ、夕顔の急死は誰にも知られぬまま闇に葬られたのです。
この後、夕顔が亡くなって一月半ほどして、時雨するころ、空蝉は夫に伴って伊予の国に旅立ちます。その日、源氏は例の薄衣を返してやり、「死んでしまった人も旅立ってゆく人も、みんなどこに行ってしまったことやら」とひとり呟いてもの思いにふけったのでした。
 
 この少し後の事になりますが、源氏は、零落した宮家の姫君、末摘花と呼ばれる方と関係を持ったり、父の愛人であった、うんと年上の、色好みで名高かった源内侍という女性と関係したりもしています。まさに恋の狩人です。この頃の光源氏の姿は、色男のモデルと言われる伊勢物語の主人公の振舞を模したものになっていると思われます。

源氏の君17歳から19歳の頃の姿でした。

文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「紫のゆかり」2021年4月2日配信

YouTube動画中の「源氏物語絵巻」につきまして。パブリックドメインとするニューヨーク公立図書館デジタルコレクションより引用しています🔗