澪標、蓬生、関屋、絵合
絵合
政権の中枢に返り咲いてからしばらくは、源氏の毎日は多忙を極め、その合間には
紫の上との間の失われた時間を取り戻すことに夢中で、他の女君を顧みる余裕はありませんでした。そうして一年余りが過ぎた頃、御息所が病重く、髪を下ろされたと言う話を聞いて、源氏は慌てて六条の屋敷に御息所を見舞いました。原文で読みましょう。
大臣聞きたまひて、かけかけしき筋にはあらねど、なほさるかたのものをも聞こえあはせ人に思ひきこえつるを、かくおぼしなりにけるがくちをしうおぼえたまへば、おどろきながらわたりたまへり。飽かずあはれなる御とぶらひ聞こえたまふ。近き御枕上に御座よそひて、脇息におしかかりて、御返りなど聞こえたまふも、いたう弱りたまへるけはひなれば、絶えぬ心ざしのほどは、え見えたてまつらでやと、くちをしうて、いみじう泣いたまふ。
かくまでもおぼしとどめたりけるを、女もよろづにあはれにおぼして、斎宮の御ことをぞ聞こえたまふ。「心細くてとまりたまはむを、かならずことに触れて数まへきこえたまへ。また見ゆずる人もなく、たぐひなき御ありさまになむ。(略)」とても、消え入りつつ泣いたまふ。
あの嵯峨野の野々宮での別れ以来の対面でした。源氏にとってこの方は特別な方、雅の世界を共有できるという点では一番の方でした。大切なこの方を失うのは耐えがたく、源氏の君は心からのお見舞いを申し上げたのでした。それにお答えになる御息所の弱々しいお声に胸が迫り、激しく泣かずにはいられません。そんな源氏の君に、御息所は遺言のように、娘、斎宮の後見役を頼んだのでした。その時御息所が念を押すように付け加えたのは、「決してあなたのものにはしないで下さい」という言葉でした。この時、源氏は几帳を隔てて御息所とお話していたのですが、 帰る前に、もしや、と几帳のうちをそっと覗きます。そうすると、仄暗い明かりに照らされた御息所と前斎宮の姿が見えたのです。
もしやとおぼして、やおら御几帳のほころびより見たまへば、心もとなきほどの火影に、御髪いとをかしげにはなやかにそぎて、寄りゐたまへる、絵にかきたらむさまして、いみじうあはれなり。帳の東面に添ひ臥したまへるぞ、宮ならむかし。御几帳のしどけなく引きやられたるより、御目とどめて見通したまへれば、頬杖つきて、いともの悲しとおぼいたるさまなり。はつかなれど、いとうつくしげならむと見ゆ。
御息所は髪を尼削ぎにしておいでで、それが何とも素敵なお姿でした。尼削ぎというのは当時、女性は出家すると、長い髪を肩のあたりまで切ったのですが、その髪型です。その御息所のむこうにちらりと見える前斎宮のお姿、これがまた何とも愛らしい。源氏の好き心は動きました。けれども、今はそういう場合ではありません。さすがの源氏も控えめです。鄭重に挨拶をして退出したのでした。
そして、この日から七、八日後に御息所は亡くなってしまいました。源氏は後の仏事その他をすべて取り仕切り、前斎宮には心籠ったお悔やみと慰めの便りを重ねて届けたのでした。この遺された娘、前斎宮には前々から関心はありましたが、たとえ御息所の言葉がなかったとしても、軽々しくわがものとするわけには行きません。そして、それならばこの娘を帝の元にいれて、実の娘、まだ赤ん坊の明石姫が成長するまでの繋ぎにしようと考えるのです。しかし、かつて、斎宮として旅立つにあたって、宮中に挨拶に参上した彼女に、朱雀院がひと目で魂を奪われ、帰京の暁には必ずやわが元にと思っておいでであることを源氏は知っています。年齢的に前斎宮は二二歳。三〇すぎの朱雀院とはつりあいます。一方の冷泉帝はまだ十三歳、どうしたものかとためらい悩んで源氏は藤壺に相談します。出家した藤壺は、今は、入道の宮と呼ばれています。以下原文で読みましょう。
院より御気色あらむを、ひき違へ横取りたまはむを、かたじけなき事と思すに、人の御ありさまのいとらうたげに、見放たむはまた口惜しうて、入道の宮にぞ聞こえたまひける。「(略)内裏にもさこそ大人びさせたまへど、いときなき御齢におはしますを、すこしものの心知る人はさぶらはれてもよくやと思ひたまふるを、御定めに」など聞こえたまへば、「いとよう思し寄りけるを。院にも思さむことは、げにかたじけなう、いとほしかるべけれど、かの御遺言をかこちて知らず顔に参らせたてまつりたまへかし。今はた、さやうのこと、わざとも思しとどめず、御行ひがちになりたまひて、かう聞こえたまふを深うも思しとがめじと思ひたまふる」
藤壺の宮は「院には申し訳ないけれど、御息所の遺言ということにして帝に入内させなさったらよろしいでしょう。」とあっさり源氏におっしゃったのでした。これで、源氏の気持ちは固まり、前斎宮は冷泉帝に入内したのでした。斎宮の女御、のちには梅壺の女御と呼ばれることになります。
当時帝の元にはほぼ同年齢の女御、元の頭の中将、今は権中納言の娘がすでに弘徽殿の女御として入内しており、ままごとあそびさながらに仲良くされていました。どうすれば幼い帝の気持ちを、年かさの新しい女御に向けることができるだろうかと源氏は考えます。光源氏は絵が好きで、得意であったことは須磨の巻で出てきましたが、その血を継いでか、冷泉帝も絵を見るのも描くのもお好きでした。そこに源氏は目をつけました。斎宮の女御は、母御息所の薫陶を受けて育っており、絵の方面でも知識豊富で、しかもご自身も上手に描かれたのです。絵を通して、帝は、次第にこの新しい女御に惹かれて行かれたのでした。それを知った弘徽殿女御の父権中納言は負けじとばかり当代の名絵師を召し集めて絵を作成させてせっせと娘の元に届けたのでした。原文で読みましょう。
上はよろづのことにすぐれて絵を興あるものに思したり。立てて好ませたまへばにや、二なく描かせたまふ。斎宮の女御、いとをかしう描かせたまひければ、これに御心移りて、渡らせたまひつつ、描き通はさせたまふ。(中略)なまめかしう添ひ臥して、とかく筆うちやすらひたまへる御さま、らうたげさに御心しみていとしげう渡らせたまひて、ありしよりけに御思ひまされるを、権中納言聞きたまひて、あくまでかどかどしく今めきたまへる御心にて、われ人に劣りなむやと思しはげみて、すぐれたる上手どもを召し取りて、いみじくいましめて、またなきさまなる絵どもを、二なき紙どもに描き集めさせたまふ。
そんなことから、宮中では絵が大流行し、藤壺の宮の前で、斎宮の女御方と弘徽殿の女御方による物語絵合わせが行われたりもしました。当時は歌合せがさかんに行われていましたが、それに準じた何々合わせというのがあって、絵合わせもその一つです。右と左に分かれて勝負を競うというものです。宮中の盛り上がりを面白く思った源氏は帝の前での絵合わせを企画します。斎宮の女御と弘徽殿の女御の対決です。帝も大賛成です。これを知った権中納言は、お抱え絵師たちをさらに叱咤激励して、隠し部屋で、新たに豪華な絵を用意します。斎宮女御の元には朱雀院から貴重な絵巻が届けられました。宮中は熱気に満ち満ちてその日を迎えたのでした。
この大々的な絵合わせは、実在の村上天皇の天徳歌合せの記録に準じてすべてを設定しています。やはり源氏物語の時代設定は醍醐朱雀村上という時代なのかと思わせます。いずれにしても、冷泉帝の時代が、文化的な行事が重視された時代、聖代であったということをうちだしているのでしょう。
さて、いよいよ当日、斎宮女御方が左、弘徽殿女御方が右で、絵合わせが始まりました。帥の宮が判者に指名されます
その日と定めて、にはかなるやうなれど、をかしきさまにはかなうしなして、左右の御絵ども参らせたまふ。(略)召しありて、内の大臣(源氏)、権中納言、参りたまふ。(略)定めかねて夜に入りぬ。左なほ数ひとつあるはてに、須磨の巻出で来たるに中納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、果ての巻は心ことにすぐれたるを選りおきたまへるに、かかるいみじきものの上手の、心の限り思ひ澄まして静かに描きたまへるは、たとふべき方なし。親王よりはじめたてまつりて、涙とどめたまはず。(略)よろづ皆おしゆづりて、左勝つになりぬ。
接戦でしたが、最後に斎宮女御方から須磨明石時代に源氏が描いた絵が出て、こちらの勝ちとなりました。
この時の人々の感涙は、今のこの安定した時代は、源氏の君の須磨明石の流謫あってこそのものであると思い至ったことによるものだったのかもしれません。
この絵合わせの終わったあとの宴の席で、源氏は弟の帥の宮に向かって「父上が『学問はあまりしないほうがよい。昔から学才に秀でた人は不幸になる例が多い。それよりは芸能の方面や政治家としての実学を学べ』といわれたが、どれもまあまあできた中で、絵を描くことが一番好きだった」と言います。するとそれに対して、帥の宮は、「あなたが楽器の演奏に秀でておいでなのは知っていましたが、絵までこれほどの腕とは存じませんでした」と言っています。光源氏という人はほんとうに何でもできる人だったということで、ちょっと出来すぎ、と思ってしまうのですが、本来上流貴族とはそういうものであったのです。芸術に明るく教養豊かな人にこそ、人の上にたって世を治める資格が与えられるというわけです。従って、ここでもまた、光源氏はまさにそういう資格を持つ人物であることが確認されたわけです。
さてこうして、斎宮の女御は確実に帝の寵愛をわがものとし、この後の中宮選定にあたっても、弘徽殿の女御を越えてその位を手にしたのでした。秋好む中宮と呼ばれる方です。
そんなわけで、この先、源氏の君は帝の後見役として、そして中宮の親代わりとして、まさに肩を並べるものとてない力を持った存在となって行くのでした。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
次回「松風」2021年8月6日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗