三「垣間見」
小君は幼いながらも源氏の君の期待に応えようともう一生懸命です。とはいえ、まだ声変わりもしていない十歳そこそこの子どもにどこまで段取りができるだろうかと読者としてもはらはらするところです。
屋敷に着くと人目のない門から入って、こっそり源氏の君をおろして建物の東側の廊下に立たせておいて、小君自身は南側の格子を大声をあげながらたたいて開けさせます。ここでの格子は、おそらく室内の方に持ち上げて留める扉のようなものでしょう。源氏の耳に小君と女房の会話が聞こえてきます。「この暑いのになんで格子を下ろしているの」と小君が尋ねると、女房が「西の対の姫君(これは伊予の介の先妻の娘で、空蝉にとっては義理の娘、軒端の荻と呼ばれる女性ですが)その娘が来て二人で碁をうっておいでなので、格子をおろしているのです」と答えているのが聞こえてきました。小君が入った後もその格子は上げられたままになっているので、源氏はそちらに回って、そっと中をのぞきます。いわゆる垣間見ですね。室内には視線を遮る屏風などもなくて、源氏は、空蝉と軒端の荻が碁に興じている様子をしっかり見たのでした。まずは目に映った空蝉の姿を原文で読みましょう。
火近うともしたり。母屋の中柱にそばめる人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単襲なめり、何にかあらむ上に着て、頭つきほそやかに、ちひさき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは、さし向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたうひき隠しためり。
小柄な痩せた女性が地味なかっこうで座っているのがみえます。これが空蝉らしいなと源氏はじっと見ています。碁の相手にも顔は勿論、手先もできるだけ見せないように袖口で隠しているのがわかります。慎み深さが見て取れます。一方向かいに座っている娘、軒端の荻の方はあけっぴろげな様子で顔もすっかり見えています。こちらも原文で読みましょう。
今一人は、東向きにて、残るところなく見ゆ。白き羅の単襲、二藍の小袿だつもの、ないがしろに着なして、紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ口つきいと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、さがりば、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなる人と見えたり。
暑さのせいで着物をだらしなく着ていて胸まで見えているのはどうかと思うけれども、髪も美しく色白でふっくらしていてどこといって欠点のないかわいらしい娘です。源氏は「この娘にもうちょっと落ち着いた感じが加わったら最高だな」などと勝手なことを考えています。小君は室内に入ってなかなか出てこないので、源氏は垣間見を続けます。やがて二人は碁を打ち終えてくつろいだ様子でおしゃべりをしたりしています。空蝉は慎み深く、娘はあけっぴろげで陽気です。袖で口のあたりを隠しているので空蝉の顔ははっきりとは見えないのですが、なんとか横顔を見ることができました。目ははれぼったく、鼻筋も通っていない、やはりとても美人とはいえない・・・・それなのになぜか魅力的だ・・・・・美人の娘のほうもこれはこれでなかなか良いな。ちょっと声かけてみようかな・・・・などと勝手なことをあれこれ考えています。原文です。空蝉の容貌を「わろきによれる容貌」どちらかといえば不美人であるとはっきり言っています。
たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、目をしつとつけたまへれば、おのづからそば目に見ゆ。目すこし腫れたるここちして、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず、言ひ立つれば、わろきによれる容貌を、いといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さるかたにいとをかしき人ざまなり。あはつけしとはおぼしながら、まめならぬ御心は、これもえおぼし放つまじかりけり。
源氏の君は、こんなふうに女君たちが打ち解けている様子を見たのは初めてで、見られたことを知らない二人にちょっと申し訳ないなと思いながら、もっとずっと覗いていたかったのですが、小君が戻ってきそうなので急いでその場をはなれたのでした。小君は、姉たちがすっかり源氏に見られてしまったことを知りません。源氏の君を長く待たせたことを詫びて、きょうはいつもと違う人が来ていて姉と話すこともできなかったと言います。源氏はそのことを知っているわけですが、覗き見したことなど勿論言いません。その代わりに「じゃあきょうは無駄足だったのか。ひどいじゃないか」と小君を責めます。小君は「いえいえその人が自分の部屋に帰ってからご案内します」と言うのですが、実際には軒端の荻がいつ姉の元を離れるのかは確かめたわけではありません。まあ多分寝るときには自分の部屋に戻るだろうと小君は思ったわけです。そこで、人々が寝静まるのを待って小君はそっと源氏の君を導き入れたのでした。ところが実はこの夜、軒端の荻は帰らず空蝉の隣で寝ていたのです。原文です。
こたみは妻戸をたたきて入る。皆人々しづまり寝にけり。(略)戸放ちつる童べもそなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、火明かきかたに屏風をひろげて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。いかにぞ、をこがましきこともこそ、とおぼすに、いとつつましけれど、導くままに、母屋の几帳の帷引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、皆しづまれる夜の、御衣のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。
妻戸というのは格子とは違って、現在のドアのような両開きの戸です。もう皆寝静まっているのでそっと戸を開けさせて隙間から入ろうとしたわけです。その戸をあけてくれた子も寝たのを確かめて小君は廊下に潜んでいた源氏を招き入れます。幼い知恵を懸命に絞って、明かりの横に屏風を置いて暗くしたりしています。子供のすることですから、源氏は「大丈夫かな、何かみっともないことがおこるのでは」と内心はらはらしながら、小君に導かれて部屋に入ります。そのあと、小君は姉の寝ている場所を源氏の君に示しておいて、自分は部屋の入口近くで横になったのでした。
源氏の君のお召し物は格別上等なものですが、そのため衣擦れの音が、普通の女房たちの身じろぎするのとは違う、特別な音を立てます。また、身じろぎすれば、高貴なお方に特有のお香の匂いが漂います。それでも女達はみなぐっすり寝入っていて、その音や匂いに気付くようすはありません。ただ一人だけその音に気付いたものがありました。
眠れずにいた空蝉です。この後の展開は次回に譲りましょう。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
次回 第四章 通り過ぎた女君たち 受領の妻空蝉 第四話「空蝉の身」 は2024年9月26日に配信いたします。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗