受領の妻空蝉 五、別れ

五「別れ」

 

 この当時、源氏の君は夕顔という新しい恋人に夢中になっていてしばらく空蝉には便りもせずにいました。その夕顔が突然目の前で亡くなったことに衝撃を受けて、源氏の君は寝込んでしまっていました。空蝉は源氏からの便りが途絶えてしまったことを気にしていた折から、君が御病気だという噂を耳にして、見舞いの手紙を出したのでした。もうすぐ京を離れなければならないけれど、忘れられたくはないという思いです。
原文です。

  かの伊予の家の小君、参るをりあれど、ことにありしやうなる言伝もしたまはねば、憂しとおぼし果てにけるをいとほしと思ふに、かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。遠く下りなむとするを、さすがに心細ければおぼし忘れぬるかと、こころみに、「うけたまはりなやむを、言にいでては、えこそ、
   問はぬをもなどかと問はでほどふるにいかばかりかは思ひ乱るる
益田はまことになむ」と聞こえたり。

 空蝉の歌は「お見舞い申し上げないのをなぜかと尋ねてもくださらないうちに時が過ぎて思い乱れております」というような意味で、その後に書き加えられている「益田はまことになむ」という言葉は引き歌で、元の歌は「ねぬなはの苦しかるらむ人よりも我ぞ益田の生けるかひなき」で簡単に言えば、「苦しんでいらっしゃる御病気のあなたさまよりも私の方がもっと苦しい毎日で、生きている気もしません」というようなことでしょうか。
 亡くなった夕顔のことで頭が一杯だった源氏の君ですが、珍しく空蝉のほうから手紙があったことで、「ああ、この人もいたのだった」と懐かしく思い出して、まだ病の癒えないまま震える手で返事を書いたのでした。原文で読みましょう。

 「生けるかひなきや、誰が言はましことにか。
空蝉の世はうきものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ
はかなしや」と、御手もうちわななかるるに乱れ書きたまへる、いとどうつくしげなり。

 源氏の君からの返事には「生きている甲斐がないとはどちらのセリフでしょうか」とあり、歌にはあの薄衣のことが詠み込まれていました。そこで「まだ大切にしてくださっているのだ!」と空蝉の心はひそかにときめいたのでした。源氏の君と逢瀬を持つことなどは思いもよらないことだけれど、心の片隅にでも自分のことをとどめておいていただきたい、と思っているのです。
 そしてこの空蝉との歌のやりとりの後、源氏はそういえばあの人違いで一夜を共にした娘はどうしているだろうと思い出します。周囲に聞いてみると、どうやら蔵人の少将という男を婿としたらしいということです。ちょっと気になって、軒端の荻にも手紙を出したのでした。こちらも原文で読みましょう。

  かの片つかたは、蔵人の少将をなむ通はすと聞きたまふ。あやしや、いかに思ふらむと、少将の心のうちもいとほしく、またかの人のけしきもゆかしければ、小君して、「死にかへり思ふ心は、知りたまへりや」と言ひつかはす。
  ほのかにも軒端の荻をむすばずは露のかことをなににかけまし
高やかなる荻に付けて、「忍びて」とのたまへれど、取りあやまちて少将も見つけて、われなりけりと思ひあはせば、さりとも罪ゆるしてむと思ふ御心おごりぞ、あいなかりける。

 小君をお使いにして、「あなたのことを死ぬほど思っているのをご存じですか」という口上とともに、丈の高い荻に歌を結び付けて軒端の荻の元に届けさせたのです。わざわざ丈の高い荻を使ったのは彼女の背が高いのをからかっているのです。そんな目立つようなことをしておきながら、口では「忍びて」つまりこっそり持って行けと言っています。しかも、この手紙がもし婿である少将に見つかったとしても、先に契った相手が自分であると知ったなら、問題にはならないだろうと源氏は思ったとあります。随分な思い上がりですね。手紙を受け取った軒端の荻は恨めしく思いながらも、思い出していただけたことが嬉しくてその場ですぐに返歌を書きつけて小君に渡したのでした。その歌を見て源氏は「やはりちょっと品のない字だな。でもこういうあっけらかんとした気の張らない女はこれはこれでいいもんだ。また逢ってみようか」などと、空蝉と比べてそんなことを思ったりしたのでした。
 そうこうするうちに、伊予の介が任国に下る日が近づいてきました。源氏は伊予の介に餞別の品を送り、空蝉にあててはまた別に手紙と贈り物を使いの者に託し、それに添えて今まで手元に置いていた例の薄衣も返したのでした。原文で読みましょう。

  伊予の介、神無月の朔日ごろに下る。女房の下らむにとて、たむけ心ことにせさせたまふ。また内々にも、わざとしたまひて、こまやかに、をかしきさまなる櫛、扇多くして、幣などわざとがましくて、かの小袿もつかはす。
  逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな
こまかなることどもあれど、うるさければ書かず。御使、帰りにけれど、小君して、小袿の御返りばかりは聞こえさせたり。
  蝉の羽もたちかへてける夏衣かへすを見てもねは泣かれけり
思へど、あやしう人に似ぬ心強さにてもふり離れぬるかなと、思ひ続けたまふ。今日ぞ冬立つ日なりけるもしるく、うちしぐれて、空のけしきいとあはれなり。

 空蝉への贈り物はおしゃれな櫛や扇の色々と幣袋だったと書かれています。そして源氏が添えた歌 「逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな」はまた逢うまでの形見だと思って手元に置いているうちにこの小袿の袖は私の涙ですっかり朽ちてしまいましたというような意味で、それに対して空蝉は「蝉の羽根のような夏の薄衣をお返し下さるにつけても私のことはお忘れになるということなのかと声をあげて泣いてしまいます」と返しています。
 こうして空蝉は去っていきました。結局一度だけの逢瀬に終わった空蝉に、源氏は未練を残しつつあきらめるしかなかったのでした。これで、源氏と空蝉の関係は完全に終わったというふうに読めるのですが、紫式部はあらためてもう一度、空蝉のために一巻をもうけています。四年後、「関屋」の巻でこの空蝉の後日譚が語られるのです。

 その再会の場面は次回に回すとして、ここでちょっと皆さんに思い起こしていただきたいことが有ります。源氏の君の年齢です。彼はこの時なんとまだ17歳なのです。時代が違うとはいえ、今の高校生と同じ年ごろなのだと思うとなんて「おませ」でなんて「おとな」なんだろう!!!と驚いてしまいます。









文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回 第四章 通り過ぎた女君たち 受領の妻空蝉 最終回第六話「関屋」 は2024年10月24日に配信いたします
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗