義理の母 藤壺の宮
一「輝く日の宮」
「通り過ぎた女君たち」の4人目は源氏にとっては義理の母にあたる藤壺の宮です。この方については「通り過ぎた」という形容は当たらないかもしれません。亡くなったあとも含めて、彼の生涯を通じて、折あるごとにその面影は脳裏に浮かんだのではないでしょうか。
その藤壺の宮が初めて登場するのは源氏が11歳の時のことです。源氏の母親、桐壺の更衣が亡くなった後、父帝は何年経っても更衣が忘れられず憂いに沈む日々を送っていました。周囲は心配して更衣に似た姫君を探すのですが、なかなか帝が納得するような方はありません。そうして七年が過ぎた頃、更衣によく似ているという姫君が入内してきました。この姫君は先の帝の四の宮、つまり四人目のお子で、その帝はすでになく、母后が大切にお育てになっていましたが、その母后も亡くなり、周囲の勧めで桐壺帝の元に入内することになったのでした。後宮での局は藤壺、これは帝の御座所から近い、ランクの高い局です。お庭に藤があったことから藤壺と名がついています。ちょっと原文を読みましょう。
藤壺と聞こゆ。げに御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御きはまさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめきこえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは人の許しきこえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。おぼしまぎるとはなけれど、おのづから御心うつろひて、こよなうおぼし慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。
後宮に入った女君はその局の呼び名で呼ばれます。そこで彼女は藤壺とよばれることになりました。まだ十六歳という若さです。そして不思議なほど亡くなった更衣に似ておいでだったとあります。そんなことから帝はこの藤壺に夢中になられて、更衣を失った悲しみもようやく紛れたようだったとあります。この方は先の帝の皇女ですから身分も高く、帝の寵愛が厚くとも誰も文句を言うことは出来ません。
帝は更衣亡き後、その悲しみを紛らすために源氏の君を常にお傍に置いて慈しんできました。女君の元を訪れるときも連れて行ったりもしていたのです。この藤壺の君の元にも源氏を伴って行き、「あなたはこの子の母によく似ておいでだから、この子とあなたも親子みたいだ。可愛がってやっておくれ」などとおっしゃるのでした。原文です。
源氏の君は、御あたり去りたまはぬを、ましてしげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあへたまはず。いづれの御方も、われ人に劣らむとおぼいたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うちおとなびたまへるに、いと若ううつくしげにて、切に隠れたまへど、おのづから漏り見たてまつる。母御息所も影だにおぼえたまはぬを、いとよう似たまへりと、典侍の聞こえけるを、若き御ここちにいとあはれと思ひきこえたまひて、常に参らまほしく、なづさひ見たてまつらばやとおぼえたまふ。上も限りなき御思ひどちにて、「な疎みたまひそ。あやしくよそへきこえつべきここちなむする。なめしとおぼさで、らうたくしたまへ。つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見えたまふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、をさなごこちにも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。
源氏は、亡くなった母を知る典侍からこの方が自分の母に似ていると聞かされていたので、この若くて美しい方に母の面影を重ねて、もうずっとお傍にいたいという気持ちです。数え年三歳の時に亡くなった母のことは全く憶えていませんから、この方を母と慕って折を見つけては、花や紅葉に歌をつけて送ったりして思いを伝えたのでした。
桐壺帝が更衣の面影を宿す人として藤壺を寵愛なさるにつけて、弘徽殿の女御は、かつての更衣に対する嫉妬や怨みを思い出して、藤壺も憎くまた源氏の君も憎いと思うのでした。ただ、そんな弘徽殿の思いとは関係なく世間では源氏の君の美しさと藤壺の宮の美しさが評判になり、それぞれ、光君・輝く日の宮と呼ばれたのでした。
こよなう心寄せきこえたまへれば、弘徽殿の女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うちそへて、もとよりの憎さも立ちいでて、ものしとおぼしたり。世にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほにほはしさはたとへむかたなく、うつくしげなるを、世の人光君と聞こゆ。藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、かかやく日の宮と聞こゆ。
元服するまでは子供ということで帝は源氏を藤壺の元に伴ったりしていましたが、翌年十二歳で元服すると、もう一人前の男性ということになり、源氏は藤壺に直接会うことは出来なくなります。元服と同時に源氏は左大臣の姫君と結婚もします。親同士が決めた、まあいわゆる政略結婚ですね。嫁は四歳年上の葵上と呼ばれる女性です。大切に育てられた美しい令嬢です。しかし、源氏の心の中には藤壺が住んでいて他の女性には気持ちが動かない、藤壺のような人を妻にしたいとばかり思っています。葵上も何となくそれを感じて冷たい態度をとってしまうのでした。そんなわけであまり居心地もよくなくて、源氏は左大臣家にはあまり足が向きません。まあお義理程度に通っていたのでした。そのあたりちょっと原文で読みましょう。
源氏の君は、上の常に召しまつはせば、心やすく里住みもえしたまはず。心のうちにはただ藤壺の御ありさまを、たぐひなしと思ひきこえて、さやうならむ人をこそ見め、似る人なくもおはしけるかな、大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかずおぼえたまひて、幼きほどの心ひとつにかかりていと苦しきまでぞおはしける。大人になりたまひてのちは、ありしやうに御簾のうちにも入れたまはず。御遊びのをりをり、琴笛の音に聞こえかよひ、ほのかなる御声をなぐさめにて、内裏住みのみこのましうおぼえたまふ。
藤壺の顔を見ることはもう許されない、それでもせめて藤壺の弾くお琴の音に合わせて笛を吹いたり、お声をかすかに漏れ聞いたりできたらと、宮中に滞在することを好んだのでした。この後しばらく、物語は途絶えて次に登場する時は源氏の君は十七歳くらいになっています。その間に藤壺と一度密会したと思われるのですがそれは語られていません。藤壺と逢えない憤懣を晴らすためか、若さに任せてさまざまな女性と関係しています。これまでに取り上げて来た六条御息所、空蝉とか夕顔とかいった女性です。そんなことの一方で、ずっと藤壺との今一度の密会の機会を窺っています。そしてある時ついにチャンスが訪れました。源氏十八歳の初夏です。
藤壺の宮、なやみたまふことありて、まかでたまへり。上の、おぼつかながり嘆ききこえたまふ御けしきも、いといとほしう見たてまつりながら、かかるをりだにと、心もあくがれまどひて、何処にも何処にも、まうでたまはず、内裏にても里にても、昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば、王命婦を責めありきたまふ。
藤壺の宮が病気で宮中から退出して実家に下がってこられたと言うのです。宮中においでの間はいくらなんでも忍んでゆくわけにはいきませんから実家に下がられた時がチャンスです。この機会に何が何でももう一度逢いたいと、もうそのことだけしか考えられなくなって、源氏は、藤壺の身近にお仕えする女房王命婦に手引きをしてくれと攻め立てたのでした。お目当ての方に近づくためにはまずその方のお近くにお仕えする女房を籠絡するというのが大原則です。いつの場合もそういう女房の手引きなしには女君に近づくことは出来ません。身近にお仕えする女房が女君の運命を握っているといえるかもしれません。
さてこの後の展開は次回に回しましょう。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
第四章 通り過ぎた女君たち 義理の母藤壺の宮 其の四 第二話「あさましき御宿世」は2025年6月26日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗