六、紅葉の賀

紅葉賀

紅葉の賀

 若紫を自宅二条院に迎えとったその同じ年の晩秋、源氏の君が主役を演じる華やかな催しがありました。紅葉賀と呼ばれて、後々まで人々の語り草になったものです。ここには衆目を集める、青年光源氏の眩いばかりの輝かしい姿があります。その姿はまた、傲慢と思い上がりの極にある彼の姿でもありました。
紅葉賀は、朱雀院、これは退位された帝のお住まいですが、桐壺の帝がそちらに御幸して、賀宴を張るという催しでしたが、この催しの目玉は光源氏の舞う青海波でありました。桐壺帝は実際の宴に藤壺が参加できないのを残念に思い、その予行(試楽)を宮中で行い、藤壺はじめ、女君たちに見せてやります。その場面をご紹介しましょう。

  上も、藤壺の見たまはざらむを、飽かずおぼさるれば、試楽を御前にてせさせたまふ。源氏の中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。(略)入りかたの日かげ、さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏み、おももち、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、これや、仏の御迦陵頻伽の声ならむと聞こゆ。おもしろくあはれなるに、帝、涙をのごひたまひ、上達部、親王たちもみな泣きたまひぬ。詠果てて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、常よりも光ると見えたまふ

 夕陽に照らされた源氏の君の舞姿はゆゆしきほどの美しさで、舞いながら詩句を朗唱なさると、その声は極楽にいるという鳥、迦陵頻伽の鳴き声のような妙なる音色で、帝はじめその場に居合わせた者たちはみな感動して泣いたとあります。藤壺も複雑な思いでそっと涙をぬぐっていたことでしょう。
 身重の藤壺が御簾の蔭からじっとみつめているであろうことを意識し、そちらを見つめ返して舞う源氏。お腹の秘密の子を守るために厳しく源氏を遠ざけている藤壺でしたが、その胸の内には、この禁断の恋への渇望が渦巻いていたのではないでしょうか。
宴果てた後、帝に「今日の試楽は青海波に事みな尽きぬな。いかが見たまひつる」と問われた藤壺はかろうじて「異にはべりつ(格別でございました)」とだけ答えています。
 
 この頃、源氏の、葵の上との結婚生活も長くなりましたが、ふたりは相変わらずしっくり行きません。二条院に新たに女性を迎えたという話は左大臣家にも伝わり、葵はよけいに心を閉ざします。源氏は葵の上を蔑ろにするつもりはないけれど、ひたすらその心は藤壺にむかっていたというのも事実でした。そして、世間には秘密にしている少女、若紫を思いのままに育て上げる、つまり藤壺の宮のような魅力的な女に育てることに情熱を傾けています。


 年も改まって、予定の日をかなり過ぎてから、藤壺の宮が御子を産みます。源氏の君の子です。予定日とはつまり、当然のことながら、桐壺帝の元にあった時、里に退出する前を起点に計算されたものです。源氏の君の子を身ごもったのは退出後のことですから、大幅に遅れた出産となったわけです。そのことから、秘密が暴かれるのではないかと藤壺は怖れますが、本人の心配をよそに、周囲は物の怪による遅れだと騒いでいました。物の怪とか、物忌とかは実に便利なものでした。その部分を原文で読みましょう。

  この御ことの、師走も過ぎにしが、心もとなきに、この月はさりともと宮人も待ちきこえ、内裏にもさる御心まうけどもあるに、つれなくて立ちぬ。御もののけにやと世人も聞こえ騒ぐを、宮、いとわびしう、このことにより、身のいたづらになりぬべきことととおぼし嘆くに、御ここちもいと苦しくてなやみたまふ。(略)世の中のさだめなきにつけても、かくはかなくてや止みなむと、取り集めてなげきたまふに、二月十余日のほどに、男御子生まれたまひぬれば、名残なく、内裏にも宮人もよろこびきこえたまふ。

 12月の出産予定日が遅れに遅れて、2月の半ばになって、ようやく無事御子が誕生しました。源氏はそれを聞いて胸をなでおろす一方でその御子を何とかしてひと目見たいと思います。けれども、藤壺はきびしく拒みます。というのも、生まれた子どもは光源氏に生き写しだったのです。藤壺は、そのことで、人々が疑いを持つのではないかとまた心を痛め、とにかく、源氏の君には近寄ってほしくないと思っています。

 その後、二か月ほど経って、藤壺は御子を伴って帝の待つ宮中へ参内しました。

  四月に内裏へ参りたまふ。ほどよりは大きにおよすけたまひて、やうやう起きかへりなどしたまふ。あさましきまで、紛れどころなき御顔つきを、思しよらぬことにしあれば、また並びなきどちはげに通ひたまへるにこそは、と思ほしけり。いみじう思ほしかしづくこと限りなし。(略)瑕なき玉と思ひかしづくに、宮はいかなるにつけても、胸の隙なく、やすからずものを思ほす。

 桐壺帝は、単純に、この御子が、最愛の息子の赤ん坊の頃とそっくりであることを喜んでおいでです。源氏の君を春宮に据えることができなかったことを残念に思っておいででしたが、この、源氏の君をコピーしたような御子の誕生によってその恨みをいささか払拭できるというお気持ちでした。
 そしてある日、源氏の君が内裏に参内された折に、帝はその御子を自らお抱きになって彼の側に寄り「御子たちは大勢いるけれども、小さい時から毎日見たのはあなただけだったからかもしれないが、この子はあなたの小さいころに本当によく似ている」とおっしゃって、愛しくてたまらないという目で源氏の君と腕の中の御子とを交互に御覧になるのです。流石に源氏も、一瞬、さっと顔色が青ざめましたが、恐縮しながらも、この美しい御子に自分が似ているなら、自分を大切にしなくてはと思ったとあります。実に傲慢な若者です。一方の藤壺は罪の意識におののくばかりでした。

 わが子でありながら、決してわが子と呼ぶことの出来ない御子を見て、源氏の藤壺の宮への思いは一層募るのでした。けれども彼女に逢うことはできません。波立つ心を鎮めてくれるのが若紫と二条院で過ごすひと時でした。笛を吹きながら、琴を教え、絵を一緒に見ながら物語をする、そんな場面を読んで見ましょう。

  ちひさき御ほどに、さしやりてゆしたまふ御手つき、いとうつくしければ、らうたしとおぼして、笛吹き鳴らしつつ教へたまふ。いとさとくて、かたき調子どもを、ただひとわたりに習ひとりたまふ。おほかたらうらうじうをかしき御心ばへを、思ひしことかなふとおぼす。(略)
  大殿油参りて、絵どもなど御覧ずるに、出でたまふべしとありつれば、人々声づくり聞こえて、「雨ふりはべりぬべし」など言ふに、姫君、例の、心細くて屈したまへり。絵も見さしてうつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪のいとめでたくこぼれかかりたるをかき撫でて、「ほかなるほどは恋しくやある」とのたまへば、うなづきたまふ。

 日が暮れて、今夜も源氏の君はお出かけらしいと知った若紫はしょんぼりします。それを見て源氏が「出かけた後では私のことが恋しいかい」と聞くと、若紫は黙ってうなづくのでした。
この後、若紫は源氏の君の膝に寄りかかって寝てしまったので「今夜は出かけるのはやめだ」ということになりました。思い通りに理想の女性に育ってきた若紫に満足しながらも、夜になるとまたあれこれの恋人のもとへ出かけて行くことの多い日々でした。
 
 さてこの同じ年の7月に藤壺の宮は后の位に登り、中宮と呼ばれるようになります。春宮の母の弘徽殿の女御という、入内して20年にもなる方を越えての、予想外の昇格でした。これは、桐壺帝の、自らの譲位を視野に入れての御決断でした。弘徽殿の女御には右大臣家というバックボーンがあるけれども、藤壺にはなんの後ろ盾もないのです。藤壺の宮の産んだ御子を次の春宮としたとき、宮そのものに権威が備わっていれば支えになるだろうとお考えになったわけです。同じ理由で、春宮の後見役にと帝が予定されていた源氏の君も昇格して宰相という位に着き、参議の一員となりました。今で言えば閣僚になったというような感じでしょうか。
 光源氏19歳の秋のことでした。

文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「花の宴」2021年5月7日配信


YouTube動画中の「源氏物語絵巻」につきまして。パブリックドメインとするニューヨーク公立図書館デジタルコレクションより引用しています🔗