五、紫のゆかり

若紫・末摘花

紫のゆかり

 十八歳になった年に、源氏の君は、今後の人生に大きく関わる重要な出来事に遭遇することになります。
帝王にはならないが臣下でもないという謎の予言が実現するための鍵となる藤壺の宮との一夜、そして、その藤壺の形代となる少女若紫との出会い、さらに明石の君との出会いへの伏線も張られています。今回お話する内容が、本当の意味での物語の始まりといえるでしょう。
さて、夕顔や空蝉との出会いや別れのあった翌年の春、源氏は、熱の出る病気が治らず、北山の聖のもとに加持を受けに行きます。三月の末、山桜の咲くころでした。加持を受けた後で源氏の君は供の者と辺りを散歩します。町中とは異なる風景の美しさに感動する源氏に、いやいや世の中にはこれどころではない美しい所が色々ありますと供の者たちは口々に言い、京から近いところでは明石の浦が格別な風光と話題になりました。そして、そこに住む先の国の守、明石入道という変わり者のことが興味深く語られます。一人娘を大切に育てていて、「この娘は特別な方としか結婚させない」と言って、多くの求婚者を退け、娘に向かっては「もしそれが叶わぬうちに自分が死んだ場合は海に身を投げよ」と言っているというのです。その話を聞いて、源氏の君は興味を抱きます。その場面からご紹介しましょう。
 
 「近き所には、播磨の明石の浦こそ、なほいとことにはべれ。何の至り深き隈はなけれど、ただ海の面を見わたしたるほどなむ、あやしく異所に似ず、ゆほびかなる所にはべる。かの国の前の守、新発意の、女かしづきたる家、いといたしかし。」(略)わが身のかくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさま異なり。もし我に後れてその志とげず、この思ひおきつる宿世違はば、海に入りね、と常に遺言しおきてはべるなる」と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。

 ここだけ読むと単なるエピソードですが、これは、あきらかに後で明石君を登場させるための伏線となっています。これを中村真一郎はプルーストと同じ手法と言っています。「失われた時を求めて」で、誰かが「アルベルチーヌ!」と呼ぶ声が主人公のマルセル少年の耳に届くという挿話があって、そのかなり後で、マルセルとアルベルチーヌとの出会いがあります。実人生でもこのようなことはたまにありますよね。前にちらっと噂を聞いていた人と、かなり後になって、偶然何かで親しい間になるといったようなこと、ありますよね。 

 その日の夕暮れ、再び散歩に出た源氏は高台から下の僧坊を見下ろしていて、藤壺の宮の面影を宿すひとりの少女を見つけることになります。原文で読みましょう。

  きよげなるおとな二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなれたる着て、走りきたる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじくおひさき見えて、うつくしげなる容貌なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。(略)つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと、目とまりたまふ。さるは、限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる。

 ひと目見ただけで、こんなにもこの少女にひきつけられるのは、この子が藤壺に似ているからなのだと気づいて、源氏は涙を流しています。10歳ほどの少女です。調べてみるとその少女は藤壺の姪だったことがわかります。この少女が藤壺の宮につながる血筋と知って、「こころのままにおほしたてばや」(思い通りに育てたい)という強い思いを抱いたのでした。
一方で、同じ頃、四月のある日、寝ても覚めても忘れられない藤壺と逢うチャンスが訪れました。藤壺の宮が、体調がすぐれないために、里に下がっていることを知った源氏は、親しい女房に無理に頼み込んで手引きさせたのでした。
  
  いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつるほどさへ、うつつとはおぼえぬぞわびしきや。宮もあさましかりしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむと深う思したるに、いと心憂くて、いみじき御けしきなるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず、心深うはづかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似させたまはぬを、などか、なのめなることだにうちまじりたまはざりけむと、つらうさへぞおぼさるる。

 ようやく叶った夢のような逢瀬でした。あまりのことに動揺して嘆く藤壺でしたが、やはり他のどんな女性にもない魅力を持つ方であることを源氏はあらためて感じます。なぜこのように完璧でいらっしゃるのかとかえって恨めしく思われたとあります。随分、勝手な言い草ですが。
 そしてこの夜の密会で、藤壺は光源氏の子を宿しました。ことの重大さに戦く藤壺は、以後一切光源氏とは関わるまいと心に決めます。源氏の方は、自分の行為が齎した結果を察知していますが、性懲りもなく藤壺に逢おうとします。このあたりの二人の心のありようはかなり違います。厳しく拒む藤壺、何とかして近づきたいと執心する源氏。
 どうしても逢ってはもらえないと感じた源氏の心の中で、北山で見つけた少女が急激にクローズアップされてきます。恋しい藤壺の宮の代わりに、せめてあの子を、と。ちょうどその頃、少女を育てていた祖母尼君が亡くなり、離れて暮らしていた父、兵部卿の宮が少女を引き取るらしいという話を聞いた源氏は急遽、その少女、若紫を拉致し去ることにします。今なら犯罪行為です。

  君は何心もなく寝たまへるを、抱きおどろかしたまふに、おどろきて、宮の御迎へにおはしたると、寝おびれておぼしたり。御髪掻きつくろひなどしたまひて、「いざ、たまへ。宮の御使にて参り来つるぞ」とのたまふに、あらざりけりとあきれて、恐ろしと思ひたれば、「あな心憂。まろも同じ人ぞ」とて、かき抱きて出でたまへば、大輔、少納言など「こはいかに」と聞こゆ。(略)「よし、後にも人は参りなむ」とて、御車寄せさせたまへば、あさましういかさまに、と思ひあへり。若君も、あやしとおぼして泣いたまふ。少納言、とどめきこえむ方なければ、昨夜縫ひし御衣どもひきさげて、みづからもよろしき衣着かへて乗りぬ。

 夜明け前の暗い時間に突然やって来た源氏の君に若紫の周囲は驚き慌てますが、なす術もなく、乳母だけがお供をして、源氏の君の車に乗ったのでした。抱き上げた人が父ではないことに気づいた若紫は恐れて泣きますが、そのまま抱きかかえられて源氏の自宅二条院に連れて行かれたのでした。泣き寝入りした若紫でしたが、翌朝目を醒ましてみわたすとすてきなお家に素敵なお庭、そして、きれいな絵や、人形などのおもちゃがたくさんあるのを見て、すっかり機嫌をなおしたのでした。
若紫を迎えとった源氏は、彼女を懐かせ、教育することに夢中です。当座は出仕もせずにつきっきりだったと書かれています。

 「いで、君も書いたまへ」とあれば、「まだ、ようは書かず」とて見上げたまへるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほゑみて、「よからねど、むげに書かぬこそわろけれ。教へきこえむかし」とのたまへば、うちそばみて書いたまふ手つき、筆とりたまへるさまのをさなげなるも、らうたうのみおぼゆれば、心ながらあやしとおぼす。「書きそこなひつ」と恥ぢて隠したまふを、せめて見たまへば、
かこつべきゆゑを知らねばおぼつかな
いかなる草のゆかりなるらむ
と、いと若けれど、生いさき見えて、ふくよかに書いたまへり。

 源氏自らお手本に古歌を書いたり、絵をかいたりしてみせ、若紫にも歌を書くように言います。彼女がまだうまく書けないというのに対して源氏は、「うまく書けないからと言って書かないのは良くないことだよ。教えてあげるから書きなさい」と教育的な発言をしていますね。そう言われると、若紫は素直に返歌を書いて、「書き損じました」と言って隠そうとしています。本当にかわいいですね。
 この後、若紫は二条院で源氏を父とも兄とも慕って、少女時代を過ごすことになります。そして、正妻の葵上が亡くなった後、14歳になったころですが、新枕を交わし、源氏の君の伴侶として生涯を寄り添って過ごします。この若紫こそ、大人になってからは、紫の上と呼ばれるその人です。

文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「紅葉の賀」2021年4月16日配信


YouTube動画中の「源氏物語絵巻」につきまして。パブリックドメインとするニューヨーク公立図書館デジタルコレクションより引用しています🔗