明石入道四、しほじむ身となりて

明石

其の四「しほじむ身となりて」

 

 源氏が密かに娘の舘に通うようになって一年近くの歳月が流れました人目を憚り、また京に残した妻紫の上のことを思って、間のあくこともありましたが、娘をいとしく思う気持ちは次第に強くなっていました。そんなところに7月のある日京から源氏召還の宣旨が届いたのです。全く予期せぬことではありませんでしたが、現実になってみると、入道の思いは複雑でした。源氏の復帰はめでたいことではあるけれど、娘ははたしてどうなるのだろうかという不安です。しかも、その宣旨の届く少し前、娘は源氏の子を宿していたのです。この頃となっては源氏の彼女への愛は一層つのり、毎晩娘の元を訪れています。原文で読みましょう。

  つひのことと思ひしかど、世の常なきにつけても、いかになり果つべきにかと嘆きたまふを、かうにはかなれば、うれしきに添へても、また、この浦を今はと思ひ離れむことをおぼし嘆くに、入道、さるべきことと思ひながら、うち聞くより胸ふたがりておぼゆれど、思ひのごと栄えたまはばこそは、わが思ひのかなふにあらめなど思ひ直す。そのころは夜離れなく語らひたまふ。六月ばかりより心苦しきけしきありてなやみけり。かく別れたまふべきほどなれば、あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれにおぼして、あやしうもの思ふべき身にもありけるかなとおぼし乱る。

 娘は悲しみに沈み入道も涙にくれる日々です。その一方で、源氏のお供の者たちは喜びあい、京からはお迎えの人々がやってきて源氏の周囲は浮き立っています。
 入道にとっては、源氏が再び世に出てその栄えを見ることは嬉しいことではありました。けれども、娘の処遇についてはなんの保障もないのです。このまま置き去りにされるかもしれないのです。娘の今後を思えば不安が募り、また娘の悲しみを思えば不憫でならず、いたたまれない気持ちで日々を過ごしたのでした。ところで、ここからは娘のことを明石の君と呼びましょう。
出発を間近に控えて、源氏は最後の夜を過ごすべく明石の君の元を訪れます。涙涙の一夜です。二人は歌を詠み交わし、源氏は大切にしていた琴(きん)の琴をまた会うまでの形見にと明石の君に渡したのでした。秋の風に乗って波の音が響き藻塩焼く煙がたなびいて悲しい別れの思いはいや増すのでした。原文です。

  明後日ばかりになりて、例のようにいたくもふかさで、わたりたまへり。さやかにもまだ見たまはぬ容貌など、いとよしよししう気高きさまして、めざましうもあるかなと、見捨てがたく、くちをしうおぼさる。さるべきさまして迎へむとおぼしなりぬ。(略)
心の限り行く先の契りをのみしたまふ。「琴はまた掻き合はするまでの形見に」とのたまふ。

 そしていよいよ出発の日が来ました。入道は源氏一行の旅立ちの支度のあれこれに手を尽くします。旅の装束から京への土産物など至らぬところなく準備したのでした。原文で読みましょう。

  入道、今日の御まうけ、いといかめしうつかうまつれり。人々、下の品まで、旅の装束めづらしきさまなり。いつの間にかしあへけむと見えたり。御よそひは言ふべくもあらず。御衣櫃あまたかけさぶらはす。まことの都の土産にしつべき御贈り物ども、ゆゑづきて思ひよらぬ隈なし。

 出発の時が来て、入道は「京都までお送りできないのは残念ですが、娘の悲しみを思えば私もつらくて・・・・」と泣き顔です。源氏の方も涙ぐんでいます。そして、「私もこの地をはなれることは京を出た時に劣らぬくらいつらいのです。お腹の子供のこともありますからこのままお別れということには決してなりません」などと言って入道を慰めています。入道はその言葉に感激してまたさらなる涙をこぼすのでした。そのあたりまた原文で読みましょう。「かひをつくる」は泣きべそをかく、「しほたる」は涙を流すという意味です。

  入道「今はと世を離れにし身なれども、今日の御送りにつかうまつらぬこと」など申して、かひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし。
「世をうみにここらしほじむ身となりてなほこの岸をえこそ離れね
心の闇はいとどまどひぬべくはべれば、境までだに」と聞こえて、「すきずきしきさまなれど、おぼし出でさせたまふをりはべらば」など、御けしき賜はる。いみじうものをあはれとおぼして、所々うち赤みたまへる御まみのわたりなど、言はむかたなく見えたまふ。「思ひ捨てがたき筋もあめれば、今、いととく見なほしたまひてむ。ただこの住処こそ見捨てがたけれ。いかがすべき」とて、
    都出でし春の嘆きに劣らめや年経る浦を別れぬる秋
とて、おしのごひたまへるに、いとどものもおぼえず、しほたれまさる。立ちゐもあさましうよろぼふ。

 こうして源氏は去ってゆきました。乳母や母君は悲しむ明石君を見て、やはりこんなことになったではないかと嘆き、源氏との結婚を無理にも進めた入道を責めます。入道はそれも辛くて、皆の起きている昼間は寝て、夜になって起きて念仏をとなえつつ歩き回って転んで腰を痛めて寝込んでしまったのでした。そのことで少し辛さもまぎれたとあります。このあたりの入道の姿はなんだか可愛らしいのです。自分がお告げに従って行ったことは果たして正しかったのだろうか、自分のしたことが娘を不幸にしたのだろうかと自信を失って、よろよろと歩き回っているのです。原文で読みましょう。

  乳母、母君など、ひがめる心を言ひ合はせつつ、「いつしか、いかで思ふさまにて見たてまつらむと、年月を頼み過ぐし、今や思ひかなふとこそ頼みきこえつれ、心苦しきことをも、もののはじめに見るかな」と嘆くを見るにもいとほしければ、いとどほけられて、昼は日一日寝をのみ寝暮らし、夜はすくよかに起きゐて、数珠の行方も知らずなりにけりとて、手をおしすりて仰ぎゐたり。弟子どもにあばめられて、月夜に出でて行道するものは、遣水に倒れ入りにけり。よしある岩の片そばに腰もつきそこなひて、病み臥したるほどになむ、すこしものまぎれける。

 復帰した源氏は以前に勝る力をもつようになり、その活躍ぶりは明石にも伝わってきます。源氏の後見する東宮が帝の位につき、源氏は内大臣になり、源氏の舅が太政大臣となりました。今や世の政は源氏一門が一手に握ることとなったのです。そんな噂を耳にするにつけても、入道は不安でなりません。このまま娘と孫が忘れさられるようなことになったら、自分は取り返しのつかないことをしてしまったことになると苦しんでいました。しかし、翌年の三月、出産の頃合いを計って、源氏からは立派な祝いの品が届いたのです。しかも物品のみならず、生まれた子の教育にあたる乳母まで送り込まれたのでした。さらに生まれてから五十日目にあたる祝いの日に合わせて京から源氏の差し向けた使いがやってきました。入道一家も五十日の祝いに様々な品を揃えてはいたけれど、源氏からの使いと祝いの品がなかったならば、闇夜のようなものでした。入道はうれし涙にくれます。原文です。五十日のことを「いか」と言います。

  五月五日にぞ、五十日には当るらむと、人知れず数へたまひて、ゆかしうあはれにおぼしやる。(略)御使出だし立てたまふ。「かならずその日違えずまかり着け」とのたまへば、五日に行き着きぬ。おぼしやることも、ありがたうめでたきさまにて、まめまめしき御とぶらひもあり。(略)入道、例の、よろこび泣きしてゐたり。かかるをりは生けるかひもつくり出でたる、ことわりなりと見ゆ。ここにも、よろづ所狭きまで思ひ設けたりけれど、この御使なくは、闇の世にてこそ暮れぬべかりけれ。
 

 生まれた子が女の子であったことから源氏はこの大切な子が明石という田舎で育つことを憂えています。そして、一刻も早く京に呼び寄せたいと思うのです。地方で育つことは女の子にとって大きな傷になるからです。そこで源氏から明石の君への手紙にはいつも「心配するようなことは決してないから、早く京へ上る決心をなさい。」と書いてあるのでした。明石の地で生まれ育った明石君にとって、この地を離れて見知らぬ京で暮らすのはとんでもなく恐ろしいことに思われてなりません。そして二度と京の土を踏まないことを決心している入道にとっては、娘と孫を京に送り出すことはすなわち彼女らとの永遠の別れを意味します。かといって彼女らを手元に置いておけば源氏の栄光と無縁の世界に生きることになり、娘を源氏と結び付けた意味が消えてしまします。娘にとっても父親にとっても難しい選択でした。今日はここまでです。











文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回2024年6月13日 光源氏に王権を奪還させた男 其の五「老いの涙」
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗