五、蓬生

没落宮家の姫君末摘花
五「蓬生」

 

 

 

 源氏が、須磨に身を引いた後、京では光源氏に関わりのあったものたちは肩身狭く暮らすことになりました。常陸宮邸の場合は、須磨退去までの七・八年の間は源氏からの援助があり、それなりにうるおっていたものと思われますが、源氏が京を去った今となっては、以前の状態に輪をかけた困窮ぶりです。源氏の君からの援助は君の側からすればほんのささやかなものだったでしょうが、受ける側の常陸宮家にとっては大変ありがたい恵みだったのです。そのあたり原文で読みましょう。

  常陸の宮の君は、父親王の亡せたまひにし名残に、また思ひあつかふ人もなき御身にていみじう心細げなりしを、思ひかけぬ御ことの出で来て、とぶらひきこえたまふこと絶えざりしを、いかめしき御勢ひにこそ、ことにもあらず、はかなきほどの御情ばかりとおぼしたりしかど、待ち受けたまふ袂の狭きに、大空の星の光を盥の水にうつしたるここちして過ぐしたまひしほどに、かかる世の騒ぎ出で来て、なべての世憂くおぼし乱れしまぎれに、わざと深からぬかたの心ざしはうち忘れたるやうにて、遠くおはしにしのち、ふりはへてしもえ尋ねきこえたまはず。

 屋敷は日増しに荒れて行き、使用人たちも見限って次々に去ってゆきました。残った老女房たちは姫君に家を売ることや家具を売ることを勧めるのですが、末摘花は、自分が生きている間はそういうことはさせないと頑固に厳しくそれを拒むのでした。
ここでは、末摘花は、使用人に対して主人として明確な意思を表明し、女房たちを叱っています。「むむ」としか言わなかった口の重い姫君とは別人のようです。以前は、周りの言うことには逆らわないと書かれていて、女房たちの言うがままに行動していましたけれど、今は頑として自分の主張を譲らないのです。原文です。

  もとより荒れたりし宮のうち、いとど狐の住処になりて、うとましう、気遠き木立に、梟の声を朝夕に耳ならしつつ、人気にこそ、さやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしからぬものども、所を得て、やうやう形をあらはし、ものわびしきことのみ数知らぬに、まれまれ残りてさぶらふ人は、「なほいとわりなし。この受領どもの、おもしろき家造りこのむが、この宮の木立を心につけて、放ちたまはせてむやと、ほとりにつきて、案内し申さするを、さやうにせさせたまひて、いとかうもの恐ろしからぬ御住ひに、おぼしうつろはなむ。立ちとまりさぶらふ人も、いと堪へがたし」など聞こゆれど、「あないみじや。(略)生ける世にしか名残なきわざはいかがせむ。かく恐ろしげに荒れはてぬれど、親の御影とまりたるここちする古き住処と思ふになぐさみてこそあれ」とうち泣きつつ、おぼしもかけず。

 常陸宮家の風流な造りの家が荒れ果てているのに目をつけた受領が譲ってくれと言ってきたことが書かれています。源氏物語全体は、作者の生きた時代を少しさかのぼり、古き善き時代を懐古の情で描いたものとなっているのですが、このあたりはまさに同時代の風潮ではなかったかと思われます。受領の中で要領のよいものは蓄財に励み、経済力においては生半可な貴族をはるかにしのいでいたのでしょう。零落した貴族がその屋敷や家財を手放し、それらを手にいれた成金受領が、これ見よがしにそれらを披露してみせるということが行われていたのです。
 邸の売却は勿論、家財道具も売ることを禁じたため、宮家の生活は苦しくなりまさり、庭も荒れ放題。牧童がお屋敷の庭で牛や馬を放し飼いにするような有様です。盗人さえ寄り付かなかったとあります。原文です。
 
  かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉じこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞめざましき。八月、野分荒かりし年、廊どもも倒れ伏し、下の屋どもの、はかなき板葺なりしなどは、骨のみわづかに残りて、立ちとまる下衆だになし。煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり。盗人などいふひたぶる心ある者も、(略)この宮をば不用のものに踏み過ぎて寄り来ざりければ、(略)

 そんな常陸宮家の困窮ぶりを見て、今は受領の妻となっている叔母が、かつて、身分の低さを馬鹿にされていたことの報復に、姫を娘の召使にしてやろうと思って、声をかけます。末摘花は、恥ずかしがって返事もしません。そうこうするうちにこの叔母の夫が大宰府の大弐となり、そちらに下ることになりました。この叔母は末摘花を伴って下向しようと思い、遠くに行くのであなたを残してゆくのは心配だと強く誘うのですが姫はうんと言いません。叔母は腹を立てて「源氏の君があんたのことなんか憶えていてくれはるわけがないやろ」と捨て台詞を残して帰ります。実際、源氏のほうでは末摘花の存在などすっかり忘れ去っていたのですが、末摘花の方では源氏を信じきって、そのお帰りを愚直に待っていたのでした。
そしてやがて本当に源氏の君は京に戻っておいでになりました。けれども末摘花の所にはまったく音沙汰がありません。もうお忘れになってしまわれたのかと落胆して泣き暮らすのでした。原文です。

  かやうにあわたたしきほどに、さらに思ひ出でたまふけしき見えで月日経ぬ。今は限りなりけり。年ごろ、あらぬさまなる御さまを悲しういみじきことを思ひながらも、萌え出づる春に逢ひたまはなむと念じわたりつれど、たびしかはらなどまでよろこび思ふなる御位あらたまりなどするを、よそにのみ聞くべきなりけり、悲しかりしをりのうれはしさは、ただわが身一つのためになれるとおぼえし、かひなき世かなと心くだけてつらく悲しければ、人知れず音をのみ泣きたまふ。

そんな姫の元にまた叔母がやってきて、それ見たことかと言わんばかりに再度大宰府へと誘うのですが、末摘花は首を縦に振ることはありません。まだ源氏の君を信じているのです。いつかは思い出して下さるのではないかと思い、自分がこれほどひどい暮らしをしていることを風の便りにでもお聞きになれば必ずお出で下さるだろうと思っています。原文です。

大弐の北の方、さればよ、まさにかくたづきなく、人わろき御ありさまを、数まへたまふ人はありなむや、(略)いとどをこがましげに思ひて「なほ思ほし立ちね。(略)」など、いとことよく言へば、むげに屈じにたる女ばら、「さもなびきたまはなむ。たけきこともあるまじき御身を、いかにおぼして、かく立てたる御心ならむ」ともどきつぶやく。

叔母は、さすがに末摘花もあきらめて自分の説得に応じるだろうと思って、姫の旅の衣装まで用意してきています。源氏の君がもう一度情けを掛けてくださる可能性などないことを説き同行を強く勧めます。わずかに残る老女房もそれを望んでいて、「なんて強情な、言われた通りになさればよいのに」と嘆き姫を非難するのでした。それでも末摘花は叔母の説得には応じません。叔母はとうとうあきらめて、唯一気の利く侍従という若い女房を連れて行こうと誘います。侍従は泣き泣き末摘花に言います。「叔母様のおっしゃることはもっともです、でもお嬢様のお気持ちもわかります」と。原文です。

されど動くべうもあらねば、よろづに言ひわづらひ暮らして、「さらば、侍従をだに」と日の暮るるままに急げば、心あわたたしくて、泣く泣く、「さらば、まづ今日はかの聞こえたまふもことわりなり。また、おぼしわづらふもさることにはべれば、なかに見たまふるも心苦しくなむ」と忍びて聞こゆ。この人さへうち捨ててむとするを、恨めしうもあはれにもおぼせど、言ひとどむべきかたもなくて、いとど音をのみたけきことにてものしたまふ。

一心同体と思ってきた乳母子の侍従までも自分を見捨てて去っていくというので、末摘花は辛くて悲しくてたまりません。声をあげて泣いています。それでも長年仕えてくれた侍従に何かお礼の品を渡したいと思い、適当な着物も無いので、自分の抜け毛を集めて作った鬘を箱にいれ、昔からあった上等なお香の壺を取り出してそれと共に渡したのでした。この時には歌も添えています。以前の末摘花とは違う、強い意志を持った、そして常識のある女になっているのです。 それにしても、日々の暮らしはどうしていたのでしょうか。食べ物にも不自由していたことでしょう。このまま餓死したのではあんまりです。次回、ついに末摘花の意地は報われることになります。










文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回、通り過ぎた女君たち第四章其の五 六「松こそ宿のしるし」2025年12月25日配信です。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗