十六 玉鬘

玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火

玉鬘(たまかずら)

 自身は太政大臣という最高の地位につき、後見する女御は皇后となり、王朝文化の粋を尽くした六条院に妻たちを住まわせ、全て満たされたかに見える源氏の君。そんな彼の中で一つだけ欠けたままになっているピースがありました。それは、若いころに自分が死なせてしまった夕顔という女性に関わることでした。当時夕顔には頭中将との間に出来た幼い娘があったはずでした。母親が急に姿を消した後、その子はどうなっただろうかとずっと心に掛っていたのです。
 まだ三歳だったその娘は、母夕顔が行方知れずになった後、乳母の元で育てられていました。翌年、乳母の夫は任地筑紫に下ることになり、娘もともに筑紫に下り、大切にかしづかれて美しく育ったのですが、その地で、地元の有力者から結婚を迫られ、乳母らに連れられて、京に逃げ帰って来たのでした。そして、なんと偶然右近と出会ったのです。娘はもう二十一歳になっていました。
 右近というのは、夕顔が亡くなった時にその場に付き添っていた女房で、その後、源氏の元に引き取られていました。源氏は夕顔の娘発見のニュースに驚き喜んで、一行を六条院に迎えたのでした。行方のわからなかった子どもが見つかったというふれこみです。移り住んだ娘の元に、源氏の君は早速出かけてゆきます。原文です。

  「年ごろ御行方を知らで、心にかけぬ隙なく嘆きはべるを、かうて見たてまつるにつけても、夢のここちして、過ぎにしかたのことども取り添へ、忍びがたきに、えなむ聞こえられざりける」とて御目おしのごひたまふ。(略)「脚立たず沈みそめはべりにけるのち、何ごともあるかなきかになむ」と、ほのかに聞こえたまふ声ぞ、昔人にいとよくおぼえて若びたりける。(略)めやすくものしたまふを、うれしくおぼして、上にも語りきこえたまふ。

 語りかける源氏の君に、娘は夕顔によく似た声でほのかに返事をします。筑紫の国という辺鄙な田舎育ちではと心配しながら会った源氏の君は、その子が美しく洗練された娘に育っていることを知り喜びます。この娘は玉鬘と呼ばれることになります。源氏はこの魅力的な娘を六条院の華としてもてはやし、若い貴公子たちの心を惑わせてやろうと考えたのでした。この辺りから、玉鬘十帖と呼ばれる巻々が始まります。玉鬘を迎えていっそう華やぐ六条院の、源氏三十六歳の一年間が、四季折々の自然や人事を織り交ぜながらゆったり描かれています。
 作者紫式部は源氏物語を書き進めていたころ、女房として宮中に出仕しています。そして、彰子中宮のお側付となって、宮中や彰子の実家道長邸で行われる行事などを実際に体験しました。道長邸で舟遊びも体験していることが、紫式部日記からわかります。その経験がこの六条院の四季を描くに当たって活用されていると思います。新春の六条院の様子を原文で読みましょう。
年立ちかへる朝のけしき、名残なく曇らぬうららけさには、数ならぬ垣根のうちだに、雪間の草若やかに色づきはじめ、いつしかとけしきだつ霞に、木の芽もうちけぶり、おのづから人の心ものびらかにぞ見ゆるかし。まして、いとど玉を敷ける御前は、庭よりはじめ見所多く、磨きましたまへる御方々のありさま、まねびたてむも言の葉たるまじくなむ。春の御殿の御前、とりわきて、梅の香も御簾のうちの匂ひに吹きまがひて、生ける仏の御国とおぼゆ。

 六条院は四季の舘それぞれに見事に整えられて、またそこにお住いの方々もとりどりに素晴らしい、中でも紫の上の春の舘は極楽浄土もかくやと思われるようなすばらしさだとあります。
 正月一四日には男踏歌という行事があって、冴え渡る月光のもと、雪の舞い散る中で、貴公子たちが笛を吹き歌い舞う。宮中から出発し、一行が六条院に着くのはもう夜明け近い時刻です。玉鬘も春の御殿にやって来て明石姫や紫の上とともに見物します。雪の白さに映える美しい貴公子たちの姿、それを見る女君たちの出だし衣の色々。そこに明け方の光が射しそめて幻想的な光景です。少しだけ原文でご紹介しましょう。

  ほのぼのと明けゆくに、雪やや散りてそぞろ寒きに、竹河歌ひて、かよれる姿、なつかしき声々の絵にも描きとどめがたからむこそくちをしけれ。御方々、いづれもいづれも劣らぬ袖口ども、こぼれ出でたるこちたさ、ものの色あひなども、曙の空に、春の錦たち出でにける霞のうちかと見わたさる。

 初夏、四月ころになると玉鬘の評判は広まり、次々と恋文が届くようになります。その恋文を見て喜んでいるのは源氏。源氏は、思い通りになったとほくそ笑むのです。
 寄せられる恋文の中には蛍兵部卿の宮や髭黒の右大将、柏木青年からのものもありました。それらの男たちの評価をする一方で、源氏の心は次第に強く玉鬘に惹かれて行きます。そして、ある夜ついに心のうちを訴えます。玉鬘は厭わしく思うのですが、邪険にもふるまえず震えています。少し長い引用になりますが、原文を読みましょう。

  なごやかなるけはひの、ふと昔おぼし出でらるるにも、忍びがたくて、(中略)「見そめたてまつりしは、いとかうしもおぼえたまはずと思ひしを、あやしう、ただそれかと思ひまがへらるるをりをりこそあれ。」と涙ぐみたまへり。(中略)箱の蓋なる御くだもののなかに、橘のあるをまさぐりて、
「橘のかをりし袖によそふれば
かはれる身とも思ほえぬかな
  世とともに心にかけて忘れがたきに、なぐさむことなくて過ぎつる年ごろを、かくて見たてまつるは、夢にやとのみ思ひなすを、なほえこそ忍ぶまじけれ。おぼしうとむなよ」とて、御手をとらへたまへれば、女、かやうにもならひたまはざりつるを、いとうたておぼゆれど、おほどかなるさまにてものしたまふ。
    袖の香をよそふるからに橘の
みさへはかなくなりもこそすれ
むつかしと思ひてうつぶしたまへるさま、いみじうなつかしう、手つきのつぶつぶと肥えたまへる、身なり、肌つきのこまやかにうつくしげなるに、なかなかなるもの思ひ添ふここちしたまうて、今日はすこし思ふこと聞こえ知らせたまひける。女は心憂く、いかにせむとおぼえて、わななかるるけしきもしるけれど、「何か、かくうとましとはおぼいたる。いとよくもて隠して、人に咎めらるべくもあらぬ心のほどぞよ。さりげなくてをもて隠したまへ。」

 「あなたがあんまりお母さんに似ているので我慢できなくなった。そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか」と言いながら手を握ったりして、「私とのことが気付かれないようにさりげなくしていればいいんだよ」なんて言ってます。ひどい父親もどきです。
 そしてこの後では着物を脱いで下着姿になって玉鬘に添い臥すのです。当惑した玉鬘は「まことの親の御あたりならましかば、おろかには見放ちたまふとも、かくざまの憂きことはあらましや」本当の親ならこんなことはなさらないでしょうにと思ってこらえきれずに涙を流します。源氏は涙を見て「これよりあながちなる心はよも見せたてまつらじ。おぼろけに忍ぶるにあまるほどを、なぐさむるぞや」これ以上のことはしないから、いいじゃないかこれくらいは、と慰めながらも、傍らにいるのが昔の夕顔であるかのように思えて胸が一杯になるのでした。
 これから後、源氏は折あるごとに、彼女に言い寄ることを繰り返し、誰に相談も出来ない玉鬘はひとり苦しみます。源氏も若い頃のように一途に行動に走ることはできず、玉鬘の処遇についてあれこれと思い悩みます。周囲はまだ玉鬘が源氏の君の子ではないことを知りません。熱心な求婚者たちからはしげしげと恋文が届きます。中でも熱心な求婚者が兵部卿の宮、源氏の君の弟君にあたる方です。その宮からのお手紙にも玉鬘は返事を書こうとしないのですが、源氏がこっそり玉鬘付きの女房に代筆させて色よいお返事を出します。お出でになっても構いませんと言ったような含みです。
 わくわくしながらやって来た兵部卿の宮を玉鬘の部屋の外に案内させておいて、源氏は部屋に入り込んで、玉鬘のすぐ近くに蛍の群れを放ったのです。夕方取り集めて袖に包み隠しておいたのです。兵部卿の宮は、蛍の光でほのかに見えた玉鬘の容姿に心を奪われて、一層熱心な求婚者となったのでした。このことから、彼は蛍兵部卿と呼ばれるようになりました。
 玉鬘に惹かれながらも自分のものとはせず、他の男と恋をさせて楽しもうとする源氏の君の退廃的な恋。この先どうなるのかと読者はあれこれ予想せずにはいられません。さあどうなるのでしょうか。六条院の秋の出来事や光景は次回に譲りましょう。





文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「野分」2021年10月1日配信


YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗