三、柳花苑

紅葉賀、花宴

光源氏にはなれなかった男 頭中将3
三、柳花苑

 

 二人が恋敵として競い合ったその同じ頃、時の帝、桐壺帝が大きな行事を催行されました。先の帝、上皇のおそらくは五十の賀の宴です。この盛大な賀は紅葉の賀と呼ばれ、物語の中では後々まで語り継がれています。
この催しの目玉が光源氏と頭中将が舞う青海波でした。帝は上皇御所で行われる本番に先立って宮中で試楽、リハーサルを行いました。後宮のお妃方やお仕えする女房たちに見せるためでした。原文で読みましょう。

  朱雀院の行幸は神無月の十日あまりなり。世の常ならず、おもしろかるべきたびのことなれば、御方々、物見たまはぬことをくちをしがりたまふ。上も、藤壺の見たまはざらむを、飽かずおぼさるれば、試楽を御前にてせさせたまふ。源氏の中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭の中将、容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。

 頭中は「花のかたわらの深山木」つまりもてはやす人のない目立たない存在であったと書かれていますが、源氏と並んで舞うことのできる若者はほかにはいなかったのでした。原文に表れた頭中の抱いていた思いをここでご紹介しましょう。

  やむごとなき御腹々の親王たちだに、上の御もてなしのこよなきに、わづらはしがりて、いとことにさりきこえたまへるを、この中将は、さらにおし消たれきこえじと、はかなきことにつけても、思ひいどみきこえたまふ。この君ひとりぞ姫君の御ひとつ腹なりける。帝の御子といふばかりにこそあれ、われも、同じ大臣と聞こゆれど、御おぼえことなるが、皇女腹にてまたなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際とおぼえたまはぬなるべし。人がらも、あるべき限りととのひて、何ごともあらまほしく、たらひてぞものしたまひける。この御中どものいどみこそ、あやしかりしか。

 ここからうかがわれるのは、彼の、自分は源氏の君とあくまでも対等な存在であるという意識です。他の若公達たちは、親王たちでさえ、帝が源氏を特別に寵愛されていることから、何となく敬遠して近づくことを避けていたのに、頭中だけはお構いなしに何かにつけて挑み合ったともあります。
 身分を考えても、光源氏は確かに帝の息子であるけれども、自分だって帝から格別目を掛けられている大臣を父とし、帝の妹を母としているのだ、決して劣りはしないと考えていたようだとあります。そして、実際彼の風貌は他から抜きんでており、様々な方面の才能も十分に備わった優秀な若者であったとも書かれています。つまり光源氏に対抗するだけの資質は十分備わっていたということになります。
 そんなふたりが公の場で競う場面が再びやってきました。紅葉の賀の翌々年、退位を間近にした桐壺帝が最後を飾る行事として宮中南殿で桜の花の宴を催されました。紫宸殿の前にある左近の桜を愛でる宴です。この当時の宴は私たちが思う宴会とはいささか趣が異なり、詩を作って披露したり、音楽の演奏や舞があってそのあとで料理やお酒が供され、さらに楽や舞、詩や歌の朗詠などが続くといったものでした。単に飲んだり食ったりするのではなく、何というか、文化度の高いものであったように思われます。
 この時もまず帝の御前で、それぞれが韻字を賜って、賜るといってもくじを引くような感じで鉢に入った韻字を探り取って、その字を句末において、韻を踏んだ漢詩を作ると言うものです。うーーん難しそうです。原文で読みましょう。宰相の中将とあるのが源氏の君です。

  日いとよく晴れて、空のけしき、鳥の声も、ここちよげなるに、親王たち、上達部よりはじめて、その道のは、皆、探韻たまはりてふみつくりたまふ。宰相の中将、「春といふ文字たまはれり」とのたまふ声さへ、例の、人に異なり。次に頭の中将、人の目移しもただならずおぼゆべかめれど、いとめやすくもてしづめて、声づかひなど、ものものしくすぐれたり。さての人々は、皆、臆しがちにはなじろめる多かり。地下の人は、まして、帝、春宮の御才かしこくすぐれておはします、かかる方にやむごとなき人多くものしたまふころなるに、はづかしく、はるばるとくもりなき庭に立ち出づるほど、はしたなくて、やすきことなれど、苦しげなり。

 源氏の君が独特の美しい声で「春と言う文字を頂きました」と引き当てた文字を披露し、その後で登場したのが頭中です。普通なら気後れするところですが、頭中は平然として立派に振舞ったとあります。それ以外の親王たち上達部たちは皆すっかり怖気づいてしまっていました。詩作などの方面にも堪能な帝や春宮らの前で、広々とした庭に立って自作の詩を朗詠するなど、きまりが悪く気はづかしく、頭中以外は、誰も誰も気後れして、苦し気な様子を隠せないのでした。
 詩の後は舞楽になります。次第に陽が傾く頃、春鶯囀という舞が面白く舞われると、春宮は紅葉の賀の折の源氏の君の青海波を思い出して、出て来て舞うようにと御所望になったのでした。源氏は断り切れずに御愛想程度にほんの少し舞って見せたのですが、それがなんとも素晴らしくて、舅の左大臣は、娘に冷たい婿への恨めしさも忘れて落涙したとあります。そして、ここでも源氏に続いて登場したのが頭中でした。原文です。

  やうやう入り日になるほど、春のうぐひすさえづるといふ舞、いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀のをり、おぼしいでられて、春宮、かざしたまはせて、切に責めのたまはするに、のがれがたくて、立ちて、のどかに、袖かへすところをひとをれ、けしきばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。左の大臣、うらめしさも忘れて、落涙したまふ。「頭の中将、いづら。遅し」とあれば、柳花苑といふ舞を、これは今すこし過ぐして、かかることもやと心づかひやしけむ、いとおもしろければ、御衣たまはりて、いとめづらしきことに人思へり。上達部皆みだれて舞ひたまへど、夜に入りては、ことにけぢめも見えず。

 帝からお声がかかり、登場した頭中の舞、柳花苑は、源氏のおざなりのものとは違って、こういうこともあろうかと前もって用意してきたものでした。その舞がたいそう素晴らしかったということで、帝から褒美の御衣を賜り皆の注目を浴びたのでした。ここでは頭中に軍配が上がった格好です。この数日後には、左大臣家を訪れた源氏の君を囲んで左大臣とその息子たち頭中らで楽しい管弦の夕べを過ごしています。
 花の宴の翌々年のことです。左大臣家の娘葵上が、結婚後10年で源氏の子を身ごもるというおめでたいできごとがありました。源氏の君と葵上は長年あまりしっくり行かなかったのですが、懐妊のことがあってからは、源氏は葵上を愛しく思うようになって、左大臣家にしばしば通います。左大臣も頭中も勿論喜びで一杯。無事出産が済むようにとさまざまに祈祷などをさせていたのですが、子どもは無事に生まれたものの、葵上は出産後に亡くなってしまいました。源氏はうちひしがれて、左大臣家で喪に服し、左大臣家の人々と悲しみを共にしたのでした。部屋に籠る源氏の君を慰めようと頭中が訪れます。原文です。

  御法事などは過ぎぬれど、正日まではなほこもりおはす。ならはぬ御つれづれを心苦しがりたまひて、三位の中将は常に参りたまひつつ、世の中の御物語りなど、まめやかなるも、また例のみだりがはしきことをも聞こえいでつつなぐさめきこえたまふに、かの内侍ぞうち笑ひたまふくさはひにはなるめる。大将の君は、「あないとほしや、祖母殿の上ないたう軽めたまひそ」といさめたまふものから、常にをかしとおぼしたり。かの十六夜のさやかならざりし秋のことなど、さらぬも、さまざまの好事どもを、かたみに隈なく言ひあらはしたまふ果て果ては、あはれなる世を言ひ言ひてうち泣きなどもしたまひけり。

 頭中は源氏を笑わせようとして色々と面白い話、艶っぽい話をします。恋敵として末摘花を競い合ったことも話題に上ります。中でも源内侍の所で演じたふたりのふざけた芝居、内侍の慌てぶりは笑いの種になったのでした。二人でこれまでの恋愛経験を打ち明け合ったりするうちに、やはり最後ははかなく亡くなってしまった葵上のことが思われて世の無常を思って涙を共に流したりもしたのでした。四十九日までを左大臣家で過ごした源氏、その深い悲しみに間近に接して、頭中の源氏に抱く感情には少し変化があったように思われます。これまでは正面から向かい合ってきた相手の、傍らに寄り添うような感じとでも言ったらよいでしょうか。そういう頭中のお話をは次回に譲ることといたしましょう。





文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回 第四話「涙そそく春の盃」  2022年9月22日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗