五、二十日あまりの月

絵合、少女

光源氏にはなれなかった男 頭中将5
五、二十日あまりの月

 

 さて源氏が須磨明石で流謫生活を送っている間、京では朱雀帝が目を患い、母弘徽殿太后も病を得、さらに天変地異が続いたりしました。帝は、父桐壺院の「何事も源氏に相談せよ」との遺言に背いたことの報いではないかと考えるようになり、ついに源氏の召還を決意しました。それはまた、自身の譲位を視野に入れて、政界の安定のために必要な人物だという判断からでもありました。そうして源氏の君は二年半ぶりに京の土を踏んだのでした。源氏の帰還を待って朱雀帝は退位し、源氏が後見する春宮冷泉が帝の位に即いたのでした。そうして再び世は左大臣系のものとなりました。引退していた左大臣が六十三歳と言う高齢ながら太政大臣として天下の政を取り仕切ることになり、子どもたちもみな表舞台で活躍することになりました。頭中も権中納言に出世しました。原文です。

  とりわきて、宰相の中将、権中納言になりたまふ。かの四の君の御腹の姫君、十二になりたまふを、内裏に参らせむとかしづきたまふ。かの高砂歌ひし君も、かうぶりせさせて、いと思ふさまなり。腹々に御子どもいとあまたつぎつぎに生ひ出でつつ、にぎははしげなるを、源氏の大臣はうらやみたまふ。(略)世の中のこと、ただ、なかばを分けて、太政大臣、この大臣(源氏)の御ままなり。権中納言の御女、その年の八月に参らせたまふ。祖父殿ゐたちて、儀式などいとあらまほし。

 世の中は太政大臣と源氏の君の二人ですべて動いていたとあります。そして、その太政大臣の長男である頭中が娘を冷泉帝に入内させました。冷泉帝はまだ十一歳という幼さです。頭中の娘は同じ年頃、愛らしく優しい娘でもあったので、すっかり帝のお気に入りとなって、頭中は満足していました。この娘は弘徽殿女御と呼ばれ、やがては中宮の位間違いなしと周囲は思っていました。
 娘を入内させ、その娘が男の子を産めば、孫が帝の位を手にすることになります。今では権力闘争の相手となった源氏には持ち駒となる娘がありません。頭中は次世代は我が物と安心していました。ところが落とし穴がありました。二年後、源氏は亡くなった六条御息所の娘を養女として、冷泉帝の元に送り込んだのです。ただ、その娘、(斎宮の女御とここでは呼ばれていますが)この方はなんともう二十二歳です。十三歳の帝とはどう考えても釣り合わない。ところが意外なことに少年冷泉の気持ちは新たなお姉さんの方に移るかに見えたのでした。そのあたりの経緯を原文で読みましょう。

  上は、よろづのことにすぐれて絵を興あるものにおぼしたり。立てて好ませたまへばにや、二なく描かせたまふ。斎宮の女御、いとをかしう描かせたまひければ、これに御心移りて、わたらせたまひつつ、描き通はさせたまふ。(略)ありしよりけに御思ひまされるを、権中納言聞きたまひて、あくまでかどかどしく今めきたまへる御心にて、われ人に劣りなむやとおぼしはげみて、すぐれたる上手どもを召し取りて、いみじくいましめて、またなきさまなる絵どもを、二なき紙どもに描き集めさせたまふ。
「物語絵こそ心ばへ見えて見所あるものなれ」とて、おもしろく心ばへある限りを選りつつ描かせたまふ。例の月次の絵も、見馴れぬさまに、言の葉を描き続けて御覧ぜさせたまふ。わざとをかしうしたれば、またこなたにてもこれを御覧ずるに、心やすくも取り出でたまはず、いといたく秘めて、この御方へ持てわたらせたまふを惜しみ領じたまへば、大臣聞きたまひて、「なほ権中納言の御心ばへの若々しさこそ、あらたまりがたかめれ」など笑ひたまふ。

 源氏の養女として入内した斎宮女御は絵を描くことが大層得意だったのです。文化度の高い六条御息所という母親の元で育ったお蔭でしょうか。何よりも絵が好きだった冷泉帝はそのことですっかり斎宮女御が気に入ってしまったのでした。二人で一緒に絵を描いたりしたとあります。気を許していた頭中は思いがけない展開に焦ります。この頃から頭中は本気で源氏を敵対視するようになりました。
 こうして、かつては共に笑い共に泣いた仲、競い合いながらも深い親愛の情で結ばれていた二人の競争は新たな局面を迎えたのでした。絵という共通の趣味で新しい女御が弘徽殿女御を超えて寵愛を受けていることを知った頭中は、名の知れた絵師たちを集めて叱咤激励して、変わった趣向のものを描かせて娘の所に届けたのでした。しかもそれらの絵を弘徽殿女御の部屋から持ち出し禁止にして、帝が弘徽殿女御の元にいかねば見ることが出来ないようにしたのでした。その話を聞いた源氏は「相変わらずだな」と笑ったのでした。帝が絵をお好みということから宮中でも絵が話題になることが増え、後宮でも絵合せが流行するようになりました。そこで源氏の君が、両女御の帝の御前での絵合せを提案したのでした。当日、それぞれの女御の親として源氏の君も頭中も招かれ、審判としては蛍兵部卿、(ここでは帥の宮と呼ばれています)が呼び出されました。絵合わせの様子を原文で読みましょう。

  召しありて、内の大臣、権中納言、参りたまふ。その日帥の宮も参りたまへり。いとよしありておはするうちに、絵をこのみたまへば、大臣の、下にすすめたまへるやうやあらむ、ことことしき召しにはあらで、殿上におはするを、仰せ言ありて、御前に参りたまふ。この判つかうまつりたまふ。いみじう、げに描き尽くしたる絵どもあり。さらにえ定めやりたまはず。(略)定めかねて夜に入りぬ。左はなほ数一つある果てに、須磨の巻出で来たるに、中納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、果ての巻は心ことにすぐれたるを選り置きたまへるに、かかるいみじきものの上手の、心の限り思ひすまして静かに描きたまへるは、たとふべきかたなし。(略)誰も異事思ほさず、さまざまの御絵の興、これに皆移り果てて、あはれにおもしろし。よろづ皆おしゆづりて、左勝つになりぬ。

 接戦でしたが、結局、この勝負は斎宮女御方が最後に源氏の君が須磨で書いた絵日記を持ち出したことによって、全てを超えて圧倒的な勝ちとなったのでした。絵合せの終わったあとはお酒がでて、宴会となりました。明け方になって有明の月が出て、宴もたけなわとなり、それぞれに琴などを奏でます。負けた頭中も和琴の優れた腕を披露し、やがて夜が明けたのでした。当時の貴族は徹夜は平気だったようです。原文です。

  二十日あまりの月さし出でて、こなたはまださやかならねども、おほかたの空、をかしきほどなるに、書司の御琴召し出でて、和琴、権中納言賜はりたまふ。さはいへど、人にまさりて掻きたてたまへり。(略)権中納言は、なほおぼえ圧さるべきにやと、心やましうおぼさるべかめり。上の御心ざしは、もとよりおぼししみにければ、なほこまやかにおぼしめしたるさまを、人知れず見たてまつり知りたまひてぞ、たのもしく、さりともとおぼされける。

 頭中は絵合わせには負けたものの、これまでのことを思えば、帝の娘に対する寵愛はそう簡単に衰えることはあるまいと自らを励ましたのでした。けれどもこの絵合わせから二年後、冷泉帝の后として中宮の位についたのは弘徽殿女御ではなく斎宮女御だったのです。諦めきれない頭中は、もう一人の娘雲居の雁にのぞみを掛けます。春宮の元服も間近と言う頃でしたから、今度こそという思いです。頭中は、源氏もうらやむ子沢山でしたが、女の子は二人しかないのでした。この娘は弘徽殿女御とは腹違いで、頭中の母大宮の元で育てられていました。その大宮の元を訪れた頭中が思いを述べます。原文で読みましょう。

 「女はただ心ばせによりこそ、世に用ゐらるるものにはべりけれ」など人のうへのたまひ出でて、「女御を、けしうはあらず、何ごとも人に劣りては生ひ出でずかしと思ひたまへしかど、思はぬ人におされぬる宿世になむ、世は思ひのほかなるものと思ひはべりぬる。この君をだに、いかで思ふさまに見なしはべらむ、春宮の御元服、ただ今のことになりぬるをと、人知れず思うたまへ心ざしたるを、かういふ幸ひ人の腹の后がねこそ、またおひすがひぬれ。立ち出でたまへらむに、ましてきしろふ人ありがたくや」とうち嘆きたまへば、「などか、さしもあらむ。この家にさる筋の人出でものしたまはで止むやうあらじと、故大臣の思ひたまひて、女御の御ことをも、ゐたちいそぎたまひしものを、おはせましかば、かくもてひがむることもなからまし」などこの御ことにてぞ、太政大臣をもうらめしげに思ひきこえたまへる。

 頭中は弘徽殿女御が、思いがけず後から来た斎宮女御に越されたことを嘆き、「次女雲居の雁を春宮にと思うが、今度は源氏にも幼い娘があるので、あとから追いつかれるかもしれない」とも訴えます。大宮は頭中に同調し、「わが家系から后が出ないはずがない、もし、左大臣がこの世におられたらこんな筋ちがいなことは起こらなかったでしょうに」と弘徽殿女御の立后がならなかった事では息子と一緒になって源氏の君を恨んだのでした。頭中が望みを掛けた次女雲居の雁、さあこの後どうなるのでしょうか。続きは次回といたしましょう。






文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回 第六話「寝覚がちにて」  2022年10月27日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗