六「天翔けりても」
六条御息所が亡くなってから17,8年もの歳月が流れました。ある夜、源氏は妻紫の上を相手に、これまで関係のあった女君たちについての思い出話などをしました。その中で御息所にも触れ、「ほかの方とは全く比べ物にならない非の打ちどころのない高貴な方だったけれど、私にとってはちょっとつきあいにくく肩の凝る方だったために距離を置いてしまって、恨まれることになったのは心苦しいことでした。」というようなことを話したのでした。原文で読みましょう。
中宮の母御息所なむ、さま異に心深くなまめかしき例には、まづ思ひ出でらるれど、人見えにくく、苦しかりしさまになむありし。怨むべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふしを、やがて長く思ひつめて、深く怨ぜられしこそ、いと苦しかりしか。心ゆるびなくはづかしくて、われも人もうちたゆみ、朝夕のむつびをかはさむには、いとつつましきところのありしかば、うちとけては見おとさるることやなど、あまりつくろひしほどに、やがて隔たりし仲ぞかし。
その後に続けて、「自分との間に噂が立ち、元の身分にふさわしくない身となったことをお嘆きだった点については、自分にも責任があると気に病んでいたのですが、約束を果たして娘を後見して中宮の位につけ、幸せにしたことで、あの方もあの世ながら私を少し見直してくださったのではないだろうか」と語ったのでした。この夜そんなふうに御息所を話題にして紫の上と仲睦まじく語り合ったことが死霊の出現をうながしたのか、この晩から紫の上は重い病の床に就くことになったのでした。その後、一旦はもちなおしたものの、また急に危篤状態となり、一時は息も絶えてしまいます。源氏の君が狂ったようになってあらゆる加持祈祷を尽くさせたところ、物の怪が憑坐(よりまし)に移って紫の上は息を吹き返したのでした。(憑坐(よりまし)というのは病人から物の怪を乗り移らせる霊媒で、おおくは童女だったようです。)そしてそのよりましの口から出たのは何と御息所の言葉だったのです。紫の上の病気は六条御息所が物の怪となって憑りついたことによるものだったのです。原文で読みましょう。院とあるのが源氏です。
いみじく調ぜられて、「人は皆去りね。院一所の御耳に聞こえむ。おのれを月ごろ調じわびさせたまふが、情けなくつらければ、同じくはおぼし知らせむと思ひつれど、さすがに命も堪ふまじく、身を砕きておぼしまどふを見たてまつれば、今こそかくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残りてこそ、かくまでも参り来たるなれば、ものの心苦しさをえ見過ぐさで、つひにあらはれぬること。さらに知られじと思ひつるものを」とて、髪を振りかけて泣くけはひ、ただ昔見たまひしもののけのさまと見えたり。
よりましに乗り移った御息所は「もののけの正体が自分であることは決して知られまいと思っていたが、源氏の君があまりにお嘆きになるので見かねてとうとう正体を現してしまった」と泣きながら言ったのでした。さらに御息所は「中宮の御ことにても、いとうれしくかたじけなしとなむ、天翔けりても、見たてまつれど・・・・・」つまり成仏できぬままに空を駆け巡って娘や源氏のことを見下ろしていることに触れ、「娘のことは有難く思ってはいますが、この世の人でなくなったせいか、子供には執着が無くなっています。それよりも、自分が生前十分に愛しては頂けなかったことの怨みが忘れられないのです。それなのに夫婦の会話の中で私のことを話題になさるなんてあんまりです」などと髪を振り乱して泣く仕草は御息所その人で、源氏は葵上に彼女が乗り移った時のことを思い出して背筋が寒くなったのでした。
御息所の物の怪は紫の上の命を奪おうとしていたわけですが、物の怪がよりましに乗り移って正体を現したことによって、紫の上は息を吹き返しました。物の怪は名乗ってしまうと力を失うのです。
ところで、源氏は、紫の上が病の床についてからしばらくして、紫の上を元の住まいであった二条院に移しました。お仕えする人々も一緒に二条院へ移ったために六条院は手薄になりました。六条院春の館には源氏と紫の上夫婦ともう一人、身分の高い若い妻、女三宮と呼ばれる方が住んでいましたが、人少なになった隙をねらって、その女三宮の元に若い貴公子柏木が忍び込んだのでした。一度だけではありません。その結果三宮は柏木の子を宿すことになり、しかもその密事は源氏の知る所となったのでした。その不義の子を宿した時から宮は怯え、ずっと体調がすぐれませんでした。出産後も衰弱の一途を辿り結局源氏の反対を押し切って髪を下ろしてしまいます。普段は自己主張などすることのない宮が意志を貫いて出家したのは、実は御息所の物の怪がさせたことでした。原文で読みましょう。
後夜の御加持に、御もののけ出で来て、「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつと、一人をばおぼしたりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなむ、日ごろさぶらひつる。今は帰りなむ」とて、うち笑ふ。いとあさましう、さは、このもののけのここにも離れざりけるにやあらむ、とおぼすに、いとほしうくやしうおぼさる。宮、すこし生き出でたまふやうなれど、なほ頼みがたげに見えたまふ。
宮が髪をおろした後、物の怪が姿を現して、「この前は紫の上の命をとりそこねて悔しかったので、今度はこの人にとりついていたのだ」と笑ったのです。物の怪が去って宮は少し元気を取り戻しました。御息所の物の怪がいまだに執念深くこのあたりにさまよっていたことを知って源氏は恐ろしくも不気味にも感じています。御息所は生霊として葵上を死に追いやり、死霊となってからは紫の上を危篤状態にし、女三宮を出家させたのです。ただ、このことは源氏自身以外には知るものはありません。誰かに相談するわけにも行かず、ただただ迷える霊魂を鎮めるために祈祷を重ねて行うことしかできません。
長い間なりを潜めていた御息所が死霊として再び出現したのには理由があると円地文子は言っています。六条院という彼女の屋敷跡の敷地を含み込んだ大邸宅が、娘の中宮の里として機能していた間は六条院の女主人は中宮でした。けれども冷泉帝が退位され、中宮もともに院の邸宅に住むようになると里下がりは無くなり、結果として、六条院の女主人はまず紫の上に、その後は女三宮に変わってゆく。御息所は自分の財産が完全に他の女たちのものとなってゆくことが許せなかったのではないかというのです。そうかもしれませんね。 この後御息所が物の怪となって登場することはありません。
それにしても、源氏の側の年齢から考えてみると16か17歳の頃に初めて情けをかわす仲となって、22歳の時生霊として出現した姿に遭遇、23歳で別れ、29歳の時に再会しやがて彼女は亡くなりますが、そのあと、47歳の時と48歳の時に死霊となった彼女に出くわしています。10代の頃から50歳近くになるまで、つまりほとんど源氏の生涯に亘って六条御息所は源氏の心のどこかに住み続けていたのです。彼の永遠の憧れの人藤壺がそうであったように。
ところで六条御息所とはいったい何者だったのでしょうか。前にもちょっと触れましたが、物語を見渡すと、御息所が実は何にでもなり得たことがわかります。皇太子妃として宮中に起居していたその地位を、皇太子死後も皇太子の兄桐壺帝の妃として保持し続けることもできました。場合によっては帝の子を持つことだってできたかもしれない。また、帝の子の源氏を通わせた後では源氏の正妻になることも、源氏の子を産むことも、六条院の主として君臨することもできたかもしれない。それらを彼女は無意識のうちに心の底で強く欲していたのですが、それらはすべて実現しなかったのです。抑圧され潜在した欲望は怨念となって凝り固まり、生霊死霊となって、自分があるはずの所にいるものを襲わずにはいられなかったのです。
そういう人間の心のうちに潜む無意識の存在にライトをあてることを目的に六条御息所という女性は作り出されたのです。つまり作者紫式部が自分自身の内面を見て、心のうちに溜まってゆくものの暗い重さに気づいた時、ふと、この思いが憎悪や嫉妬の対象になんらかの形で向かって行くのではないかと思わずにはいられなかったのではないしょうか。普通なら目を背ける自分の暗部にも目を向けてしまうのが作家の性というものでしょうか。空蝉にも紫式部の一部が投影されていました。今回の六条御息所にもそういう意味で作者の一部を投影しているということができるのと思うのですが、皆さまはどうお思いになりますか。
六条御息所篇はこれで終わりとなりました。この方とのつきあいはちょっと気が重かったですね。次は御息所の対極にある夕顔です。またお聞きいただけたら幸いです。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
第四章 通り過ぎた女君たち 其の三「葎の宿の夕顔」は2025年3月~配信予定です。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗