八、笛の音

柏木、横笛、橋姫、宿木

光源氏に憧れ続けた男 柏木
八、笛の音

 

 

 こうして儚く亡くなってしまった柏木の死を世の人はこぞって悼み、惜しみ悲しんだのでした。柏木の子とわかっている子をわが子として抱かねばならない源氏の君も複雑な思いです。柏木の面影を宿す赤子を見れば、無礼者と癪に障ったことも忘れて、この子だけを人知れぬ形見として残して、あれほど高い志を抱いていた青年が我とわが身を滅ぼしてしまったことよとその哀れさに密かに涙をこぼすのでした。原文です。

  いと何心なう物語して笑ひたまへるまみ、口つきのうつくしきも、心知らざらむ人はいかがあらむ、なほいとよく似通ひたりけりと見たまふに、親たちの、子だにあれかしと泣いたまふらむにも、え見せず、人知れずはかなき形見ばかりをとどめ置きて、さばかり思ひあがり、およすけたりし身を、心もて失ひつるよと、あはれに惜しければ、めざましと思ふ心もひき返し、うち泣かれたまひぬ。

 身分の高い人も低い人も、柏木を恋い、時の帝も管弦の催しのある度に柏木の不在を嘆いたとあります。原文で読みましょう。

  高きも下れるも(柏木の死を)惜しみあたらしがらぬはなきも、むべむべしきかたをばさるものにて、あやしう情を立てたる人にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人、女房などの年古めきたるどもさへ、恋ひ悲しびきこゆる。まして上には、御遊びなどのをりごとにも、まづ思し出でてなむ、しのばせたまひける。「あはれ衛門の督」といふ言種、何ごとにつけても言はぬ人なし。

 人々は何かにつけて「あはれ衛門の督」というフレーズを口にしたとあります。人々の悲しみをよそに生まれた子はすくすくと成長し、秋にはハイハイをするようになりました。少しだけ原文を引用します。六条の院が源氏です

  六条の院には、ましてあはれとおぼし出づること、月日に添へて多かり。この若君を御心ひとつには形見と見なしたまへど、人の思ひ寄らぬことなればいとかひなし。秋つかたになれば、この君はゐざりなど。

 この子が忘れ形見であると、柏木の親たちに伝えたいけれどもそういうわけには行きません。この子薫はあくまでも、源氏の君が晩年に恵まれた子供ということで世間に披露するしかありませんでした。
 柏木亡き後、悲しみにくれる人々の中でも取り分け深い悲しみに包まれたのは、大臣、元頭中ですね、その一家と、妻であった落葉の宮とその母でした。柏木から未亡人の世話を頼むと遺言された夕霧は、他に訪れる人もない寂しい宮家にしばしば立ち寄って二人を慰めたのでした。ある夜夕霧が帰ろうとした時に、宮の母が柏木の遺品、愛用していた笛を彼に託します。夕霧は私には分不相応なものですと言いつつそれを持ち帰り、寝る前にちょっと吹いてみました。すると、その夜の夢に柏木が現れ、その笛はあなたではない別の人に伝えたいものであったと言うのです。また原文を引用します。衛門の督が柏木です。

  すこし寝入りたまへる夢に、かの衛門の督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る。夢のうちにも、亡き人のわづらはしう、この声を尋ねて来たると思ふに、
「笛竹に吹き寄る風のことならば
      末の世長きねに伝へなむ
思ふかた異にはべりき」と言ふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣きたまふ御声に、さめたまひぬ。

 誰に伝えたいのかを尋ねようとした時に、子どもが泣いて目が覚めてしまったのでした。柏木はその笛を誰に渡して欲しかったのか、このまま自分が持っていたのでは柏木の恨みを負うのではないかと思って、夕霧は、父に相談しようと六条院を訪れます。
 するとそこには、源氏の孫の幼い皇子たちに混じって、女三宮の産んだ薫がいたのでした。薫の顔をゆっくり見たことはなかったなと思って、その顔をよく見ると、気のせいか柏木によく似ているように思われるのです。柏木が遺言の中で匂わせていた、源氏の君の不興を買うようなことをしてしまったと言っていたのはもしかしたらこれかも知れないと密かに思い当たる気がしたのでした。まさか父に真相を尋ねるわけにもゆきません。薫を見た夕霧の思いを述べている部分を原文で読みましょう。

  二藍の直衣の限りを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、皇子たちよりもこまかにをかしげにて、つぶつぶときよらなり。なま目とまる心も添ひて見ればにや、眼居など、これは今すこし強うかどあるさままさりたれど、まじりのとぢめをかしうかをれるけしきなど、いとよくおぼえたまへり。

 この後、夕霧は父に会って、柏木から言付かった源氏への詫び、申し訳ない事をしたと謝って欲しいと頼まれたことを話し、自分には事情が分からないので教えて欲しいというようなことを口にしたのですが、源氏ははぐらかして、夕霧の問には答えません。ただ、笛については「それは私が預かるべきものだ」と夕霧から取り上げたのでした。
 源氏はこの笛は柏木の子である薫に渡すべきものだと考えたわけです。
 この薫が五歳か六歳のころ、源氏は出家し、やがて世を去りました。そしてその後、10年以上の歳月が流れ、宇治の八宮を慕って通うようになった薫はその邸にお仕えしていた老女房から自分の出自について重大な秘密を打ち明けられます。それは、自分の父親は源氏の君ではなく、柏木であると言う驚くべき事実でした。そしてその老女房は、柏木が亡くなる直前に書いた女三宮宛の手紙を、いつか薫に渡せることを神仏に祈って長年にわたって保存していたのです。手紙には、自分の病はとても重くなってしまってもうお逢いできそうにもないけれど、あなたにお会いしたいという気持ちは増すばかりです、などとありその後に、命さえあれば生まれた子をひそかにわが子として見ることもできるでしょうにとも書かれていたのでした。原文を少し引用しましょう。

  かの御手にて、病は重く限りになりにたるに、またほのかにも聞こえむことも難くなりぬるを、ゆかしう思ふことは添ひにたり、御容貌も変はりておはしますらむが、さまざま悲しきことを、陸奥紙五六枚につぶつぶと、あやしき鳥の跡のやうに書きて、
(略)
また端に、
めづらしく聞きはべる二葉のほども、うしろめたう思うたまふるかたはなけれど、
命あらばそれとも見まし人知れず
岩根にとめし松の生ひ末
書きさしたるやうにいと乱りがはしうて、「小侍従の君に」と上には書きつけたり。

 手紙はかび臭く紙魚も喰っていましたが、墨あとは今書いたばかりのようにはっきりしているのでした。薫は胸の詰まる思いでこの手紙を読んだのでした。
 こうして薫は誰にも言うことの出来ない重い秘密を胸に抱えて生きて行くことになったのでした。そして父の遺品であるとはっきり悟った笛を何かの折には吹き立てて実の父に思いを馳せたのでした。

 さて、柏木はなぜこのような悲劇の主人公にならねばならなかったのでしょうか。もう一度振り返ってみましょう。恋の虜になる前の柏木はただの前途有為な青年貴族という類型的な没個性的な脇役にすぎません。それが恋に取りつかれることによって変貌し、柏木と言う男が造られた。恋に狂って、現実が見えなくなってしまった男。恋の外部の現実の側から見れば、愚かで哀れな男です。
 ところで、柏木は女三宮という女性を命がけで恋したのでしょうか。光源氏が義理の母藤壺を恋したように。どうも違うように思われます。柏木は自分の創り出した実体のない女三宮、源氏の愛する妻である女三宮という虚像に恋しただけだったのです。憧れの人であった源氏の君を乗り越えられるような錯覚をおこしてその妻を冒したのです。源氏に忌避されるような存在としての自分はあり得ないという認識もありながら、深みにはまった。その結果、光源氏という現実の前に彼の恋物語はもろくも砕け散り、すでに戻るべき現実を失った柏木は、その恋に殉ずるしか道は無かったのです。

 そしてもうひとつ、別の観点から柏木物語を見ると、これは、暗い影を持った人物薫を誕生させるためだったという見方もできます。源氏物語第三部宇治物語の主人公となる人物です。紫式部が第二部若菜の巻を書いた時点で、次の物語の構想を持っていたと考えてみてはどうでしょう。瀕死の柏木をも、源氏をも振り切って出家する女三宮は浮舟の原型と見る事も出来ましょう。つまり、柏木の物語は宇治物語への橋渡しであったということになります。
 その一方で、柏木と女三宮の密通、秘密の子の誕生という流れは第一部における源氏の君と藤壺の宮の同様の出来事を源氏自身にも読者にも思い起こさせもします。第三部にもつながり、第一部にもつながる大きなうねりがここにはあるということになるのです。

 今回で柏木物語は終了です。次は柏木の親友であった夕霧をとりあげたいと思います。














文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


最終回 
(予告)次回新シリーズ 脇役の男たち 其の三  夕霧「光源氏の嫡男」をお送りします。 
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗