三、海松ぶさ(みるぶさ)

葵 賢木

海松ぶさ(みるぶさ)

 歳月は流れて若紫は14歳、光源氏は22歳になっています。二条院で若紫はのびのびと暮らしています。源氏の君はかつて12歳で元服した折に、すぐに左大臣の娘葵上を正妻としています。二人の仲は今一つしっくり行かぬままに、すでに10年が過ぎました。そしてこの年、葵上は初めて懐妊したのです。そのことによって、源氏の中に葵上をいとしく思う気持ちが芽生えたのでした。初めての、名実ともにわが子と言える子供が生まれるという喜びもひとしおです。もののけのしわざか、ずっと体調のすぐれない葵上を気遣って源氏は若紫の元を離れて左大臣家に滞在することが多くなっていたのですが、この日は葵祭を若紫と一緒に見に行こうと久々に二条院に戻ってきました。原文で読みましょう。

  今日は、(左大臣家から)二条の院に離れおはして、祭り見に出でたまふ。西の対(若紫の部屋)にわたりたまひて、惟光に車のこと仰せたり。「女房(ここでは童女のこと)出で立つや」とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見たてまつりたまふ。「君は、いざたまへ。もろともに見むよ」とて御髪の常よりもきよらに見ゆるを、かきなでたまひて、「久しうそぎたまはざめるを、今日はよき日ならむかし」とて、暦の博士召して、時問はせなどしたまふほどに、「まづ女房出でね」とて、童の姿どものをかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どもの末はなやかにそぎわたして、浮紋の表の袴にかかれるほど、けざやかに見ゆ。「君の御髪はわれそがむ」とて、「うたて、所狭うもあるかな。いかに生ひやらむとすらむ」と、そぎわづらひたまふ。「いと長き人も、額髪はすこし短うぞあめるを、むげに後れたる筋のなきや、あまり情なからむ」とて、そぎ果てて、「千尋」と祝ひきこえたまふを、少納言(乳母)、あはれにかたじけなしと見たてまつる。
(源 氏)はかりなき千尋(ちひろ)の底の海(み)松(る)ぶさの
生ひゆくすゑはわれのみぞ見む
と聞こえたまへば、
(若紫)千尋ともいかでか知らむさだめなく
満ち干る潮ののどけからぬに
とものに書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、めでたしとおぼす。


 祭り見物に行くために若紫も、遊び仲間の童女たちもみんなおめかししています。若紫以外の女の子たちは、すでに女房が髪もきれいに切りそろえています。若紫の髪だけは源氏の君自らが切ることになっていたようです。髪を切るというのは当時の感覚では重要な意味を持つ行為でした。切る前に暦の博士、(陰陽師のような人ですね)を呼んで縁起の良い時間を調べさせていますね。そして、髪を切りおわった後では、「千尋」とおまじないのような言葉を口にしています。尋とは深さや長さをはかる単位で、今も、海の深さなどに使われることがあると思います。ここでは、髪の長さに使われていて、千尋までも長く伸びますようにと言う祈りになっています。その後の源氏の君の歌に出て来る「海松ぶさ」は房になって生えている「みる」と言う海藻のことです。ふさふさゆらゆら海底で揺れるその姿は女の子の豊かな髪を連想させます。源氏の君の歌の中では、「海松ぶさ」はすなわち若紫その人を意味していて、この歌は、「海のように深い私の愛に包まれて育ってゆくあなたの姿は私だけが見届けよう」というような意味になります。それに対して、若紫は「あなたの愛の深さなんて海の深さと同じで満ちたり干いたりするからわからないわ」なんて返しています。楽しそうですね。この後若紫は源氏の君と車に同乗して祭り見物に出かけたのでした。
 この日からしばらくたって、葵上は無事源氏の君の子夕霧を出産するのですが、産後間もなく葵上は急死してしまします。そのため源氏は、葵上の死を心から悼み、四十九日の忌明けまで左大臣家で喪に服したのでした。喪が明けて久々に二条院に戻ってみるとしばらく見ぬうちに若紫はすっかり大人び、ますます藤壺そっくりになっているのでした。原文です。

  姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。「久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」とて、小さき御几帳ひきあげて見たてまつりたまへば、うちそばみて恥ぢらひたまへる御さま、飽かぬところなし。火影の御かたはらめ、頭つきなど、ただかの心尽くしきこゆる人に違ふところなくもなりゆくかなと見たまふに、いとうれし。

 そんな若紫を見て、源氏の君はもうそろそろ結婚しても良いころではないかと考えます。これまでは寝室を共にしてはいても、そういう関係ではありませんでした。初心で男女のことなど何も知らない若紫にとってある夜突然豹変した源氏はとうてい受け入れがたいものでした。なぜこんな方を今まで頼っていたのかとショックで朝になっても寝床から起き上がることができず泣いています。原文で読みましょう。

  姫君の何ごともあらまほしうととのひはてて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどにはた見なしたまへれば、けしきばみたることなど、をりをり聞こえこころみたまへど、見も知りたまはぬけしきなり。(略)男君は、とく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり。人々、「いかなればかくおはしますならむ。御ここちの例ならずおぼさるるにや」と見たてまつり嘆くに、君はわたりたまふとて御硯の箱を、御帳のうちに差し入れておはしにけり。

 女房達は何がおこったのかはわからず、若紫が起きてこないので、具合がわるいのかと心配しています。昼頃になって源氏の君が戻って来てみると若紫はまだ起きていません。

  昼つかたわたりたまひて、「なやましげにしたまふらむはいかなる御ここちぞ。今日は碁もうたで、さうざうしや」とて、のぞきたまへば、いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり。(略)御ふすまをひきやりたまへれば、汗におしひたして、額髪もいたう濡れたまへり。「あなうたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことにいとつらしと思ひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず。

 寝室を覗いてみると、若紫は夜具を頭からかぶって顔を隠しています。それを引きはがして見ると、彼女は汗と涙でびっしょり。髪も濡れています。「おやおや大変だ」と源氏が話しかけても返事もせず、目も合わせません。そんな若紫が愛しくて、この後しばらくは、葵の上の死去を口実に源氏は諸方への出歩きをやめて紫の機嫌をとり、つきっきりになります。源氏の君の愛情は本物で、彼女を大切に思う気持ちにいつわりはありません。ただ、この結婚は正式な手順を踏んだものではありません。若紫は女の子の成人式にあたる、いわゆる裳着もしていないのです。世間に全く知られていない日蔭の存在です。さすがにこのまま世間に隠しておくわけには行かないと考えて、源氏は、ついに若紫の父の兵部卿の宮にこの子の存在を知らせて、裳着の儀式を行うことにしたのでした。
本来は、親が裳着の儀式をして世間に娘が結婚適齢期を迎えたことを披露し、結婚の申し込みを受けて、これと決めた男性を婿として迎え、婿が三日間通ってきたところで、結婚の祝いをするものです。そういう形を踏まなかったことで、紫の上(もう若紫と呼ばずに紫の上と呼びましょう)は正妻として世間から認められたことにはなりませんでした。このことが後になって彼女の立場を不安定なものにします。ただ、そうは言っても、源氏の君の妻として世間に披露されたわけですから、人々はこの姫君を、玉の輿に乗った幸運な方と噂して羨んだのでした。
 初々しい新妻との新婚生活に満足する源氏でしたが、その翌年の冬、源氏の君の父桐壺院が世を去ります。それによって政界の力関係は変わり、源氏にとっては面白くない状況が展開することになりました。その鬱屈した気持ちを晴らすためか、紫の上が16歳になった年の春、源氏はかつて契りを交わし、今は帝の妻となっている朧月夜の君と逢い引きを重ねるようになり、また、桐壺院なきあと、実家に下がっていた藤壺の宮にも強引に迫り、以前からの想い人であった朝顔斎院にも恋文を出します。何が起こっているかは全く知らないけれど、心ここにあらずといった様子で、留守がちになった源氏に紫の上は寂しさと不安を感じるようになったのでした。しばらく雲林院という寺に籠っていて久しぶりで二条院に戻って来た源氏は、物思いに沈む紫の上の姿を見たのでした。原文です。


  女君は、日ごろのほどに、ねびまさりたまへるここちして、いといたうしづまりたまひて、世の中いかがあらむと思へるけしきの、心苦しうあはれにおぼえたまへば、あいなき心のさまざま乱るるやしるからむ、「色かはる」とありしもらうたうおぼえて、常よりこまやかにかたらひきこえたまふ。

 憂い顔の紫の上に、あれこれ話して、心配を解こうとしています。「色かはる」とあるのは、これ以前に源氏が滞在先から出した手紙に返してきた紫の上の「風吹けばまづぞ乱るる色かはる浅茅が露にかかるささがに」という歌によります。「ささがに」は蜘蛛の糸のことで、「私は、風が吹けばまず乱れ枯れて色が変わって行く草の露にかかっている蜘蛛の糸のようなはかない存在です」と訴えた歌です。色が変わるとはもちろん源氏の心変わりを意味します。そして、この、紫の上の抱いていた二人の間についての不安は、源氏の心変りによるものではありませんが、現実となってやがて二人は別れて暮らすことを強いられる結果となるのでした。
その話は次回に回しましょう。







文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


新講座第四回 「藻塩」 2022年3月17日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗