没落宮家の姫君末摘花
二「君がしじま」
姫君の周囲の女房達は、これまでに男君からのアプローチなど父宮御健在の折りにも無かったことなので、源氏の君のような高貴な方からお手紙が来たということで、大喜びで姫君にお手紙のお返事を勧めますがこの全く世間知らずの姫君は応じようとしません。原文です。
父親王おはしけるをりにだに旧りにたるあたりとて、おとなひきこゆる人もなかりけるを、まして、今は浅茅分くる人もあと絶えたるに、かく世にめづらしき御けはひの漏りにほひくるをば、なま女ばらなども笑みまけて、「なほ聞こえたまへ」とそそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。
源氏はあきらめずに、恋文を出し続けるのですが、そんなわけですから、相変わらず、返事は全くありません。いくらなんでも、遠慮深いにも程があるだろうと、頭中将に対する対抗心も手伝って、もうこれ以上我慢できないと命婦を攻め立てたのでした。命婦は「よづかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなるみちびきに、いとほしきことや見えむ」と姫君に気の毒な結果になるのではとためらうのですが、次第に煩わしくなっています。秋も深まったある夜のことです。昔の事など話してしんみりして涙ぐんだりしている姫君の様子を見て、今夜あたりちょうど良い機会かもしれないと命婦は源氏に連絡したのでした。源氏を呼んでおいてから姫君には例の琴の琴を弾かせます。星の光が美しい夜です。原文で読みましょう。
八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへの事語りいでて、うち泣きなどしたまふ。いとよきをりかなと思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましく、うちながめたまふに、琴そそのかされてほのかにかき鳴らしたまふほど、けしうはあらず。すこしけ近う今めきたる気をつけばやとぞみだれたる心には、心もとなく思ひゐたる。人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。
命婦は、示し合わせての来訪であることは隠して、驚いたふりをして、源氏の君がお見えになったこと、御断りもしづらいので、物越しにただお話をお聞きになるだけで良いのだからそこに居て下さい、と奥に逃げ出そうとする姫君にやや強く言います。原文です。
今しもおどろき顔に、「いとかたはらいたきわざかな。しかしかこそおはしましたなれ。(略)いかが聞こえ返さむ。なみなみのたはやすき御ふるまひならねば心苦しきを、物越にて、聞こえたまはむこと、聞こしめせ」と言へば、いとはづかしと思ひて、「人にもの聞こえむやうも知らぬを」とて、奥さまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。
姫君は、「ただ聞くだけで良いのなら聞きましょう」と素直な性格なので、結局は逃げ出すこともなく、また何の心用意もなく座敷に残ったのでした。源氏を襖障子の外に案内して命婦と二三の女房が部屋の中、姫のお傍には居ます。源氏はやっと念願が叶ったので喜び勇んで姫に話しかけますが、まったくお返事はありません。姫のほうは、命婦らに勧められて襖障子の側までいざりよったのですが、聞くだけでよいと言われていたので相手が何と言おうが返事をするつもりはないのです。源氏は、はじめは、姫君の物静かでおっとりした気配に、思った通りの高貴なお方だと喜んで、これまでずっと思いを寄せて来たことなどあれこれと話しかけるのですが全く反応がありません。そのあたりちょっと原文で読みましょう。
いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、忍びやかに、えびの香いとなつかしう薫りいだて、おほどかなるを、さればよとおぼす。年ごろ思ひわたるさまなど、いとよくのたまひつづくれど、まして近き御答へは絶えてなし。「わりなのわざや」と、うち嘆きたまふ。
「いくそたび君がしじまにまけぬらむ
ものな言ひそと言はぬ頼みに
のたまひも捨ててよかし。玉だすき苦し」とのたまふ。
ここで源氏が詠みかけている歌は、「あなたの沈黙に何度負けたことでしょう。いっそのこと嫌なら嫌とおっしゃってください」とうような意味です。側にいた侍従という若い女房が、見かねて、姫君のふりをして一度は歌を返すのですが、それっきりで何をいっても相変わらず何のお返事もないのです。業を煮やした源氏はついに境の襖障子をあけて部屋の中に侵入したのでした。命婦や女房はそれを見るとさっと逃げ出してしまいます。これはちょっとひどいと思います。一人残された世間知らずの姫君は、どう振舞ったらよいかわからずただ茫然とするばかりでした。原文です。
何やかやと、はかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、何のかひなし。いとかかるも、さまかはり、思ふかた異にものしたまふ人にやと、ねたくて、やをら押しあけて入りたまひにけり。(略)正身はただ我にもあらず、はづかしくつつましきよりほかのことまたなければ、今はかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人の、うちかしづかれたると、見ゆるしたまふものから、心得ずなまいとほ しとおぼゆる御さまなり。何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。
手をとってあれこれと話しかけてみても姫君はただただ恥ずかしがっているだけ。そのあまりに世馴れぬ対応と垢抜けない雰囲気に驚き失望して源氏は夜のあけるのを待たずそそくさと帰ったのでした。期待が大きかっただけに源氏の失望感も大きい。けれども誰を恨むこともできません。命婦は決して姫君が魅力的だといって勧めたわけではなく、自分が勝手に妄想をふくらませただけなのですから。一夜をすごして失望した源氏ですが、さすがに、後朝の歌を送らないのもあんまり失礼だと思って夕方になってやっと届けさせたのでした。これは随分ひどいことです。本来後朝の歌は帰るとすぐに朝のうちに届けるべきものですから。周囲はやきもきしていましたがご本人は何とも思っていません。原文です。
かしこには文をだにと、いとほしくおぼしいでて、夕つ方ぞありける。雨降り出でて、ところせくもあるに、笠宿りせむと、はた、おぼされずやありけむ。かしこには待つほど過ぎて、命婦も、いといとほしき御さまかなと、心憂く思ひけり。正身は、御心のうちにはづかしう思ひつづけたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、とがとも思ひわきたまはざりけり。
しかも遅れて届いた歌の内容は今夜は天気が悪いから行けないということを匂わせたものだったのです。当時の風習では女の元に通い始めたらまず三日は続けて通う、それによって結婚が成立するということになっていました。一晩だけということはこれで終わりと言うことになってしまいます。姫君の周りの者は衝撃を受けますが、本人はただぼんやりしています。歌が届けば内容はともかく返歌をしなければなりません。そこで前にも代わって歌を詠んだ侍従と言う女房が歌を教えて姫に筆をとらせて返歌を書かせて源氏の元に届けさせたのでした。原文です。
口々に責められて、紫の紙の、年経にければ灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下ひとしく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。いかに思ふらむと思ひやるも、安からず。かかることを悔しなどは言ふにやあらむ、さりとていかがはせむ、我はさりとも心長う見果ててむとおぼしなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける。
姫から届いた返歌は、古くなった、ごわごわした紙に古風な書体できっちり力強く書かれた、なんの風情もないものでした。また改めて失望の思いを深くした源氏は昨夜の行為を悔やみますが、その一方で、それなりの身分の方をこのまま捨て去ることはすまいとも思っているのでした。そんなことは知らない姫君の周囲は、こうして、一晩のもてあそびものにされただけなのかと思って嘆き合ったのでした。その後もたまたま宮中の行事が続いたりして源氏の常陸宮邸への訪れはないままに月日が流れました。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
次回、通り過ぎた女君たち第四章其の五 三「普賢菩薩の乗物」2025年11月13日配信です。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗