明石入道七、須弥の山

若菜上

其の七「須弥の山」

 

 

 

 御子の誕生からしばらくして、さまざまな出産祝いの行事が落ち着いたころに明石から使者がやってきました。入道がさしむけた使いです。その使いの者が運んできたのは、これまで入道が毎年書いてきた多くの願文の入った箱と、娘明石君と妻尼君にあてた手紙(内容としては遺書)でした。明石君への手紙には、なぜ娘が特別な宿縁を担っていると思うようになったのかというその理由が書かれていたのでした。手紙を原文で紹介しましょう。孫の明石女御のことを若君と言っています。

  つてにうけたまはれば、若君は春宮に参りたまひて、男宮生まれたまへるよしをなむ、深くよろこび申しはべる。そのゆゑは、みづからかくつたなき山伏の身に、今さらにこの世の栄えを思ふにもはべらず。過ぎにしかたの年ごろ、心ぎたなく、六時の勤めにも、ただ御ことを心にかけて、蓮の上の露の願ひをばさし置きてなむ念じたてまつりし。わがおもと生まれたまはむとせし、その年の二月のその夜の夢に見しやう、みづから須弥の山を、右の手に捧げたり。山の左右より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす。みづからは山の下の蔭に隠れて、その光にあたらず。山をば広き海に浮かべおきて、小さき船に乗りて、西のかたをさして漕ぎゆく、となむ見はべし。

 明石君が生まれる前にみた夢のことが書かれていました。入道自身が須(す)弥(み)の山を右手に掲げ持っていてその山の左から月、右からは日が昇って世界を照らす、自分自身はその光の当たらない山陰にいて、その山を海に浮かべて西、つまり極楽浄土へと立ち去ったという夢でした。須弥の山というのはいわゆる「しゅみせん」のことで、古代インドの世界観から仏教にとりいれられたものだそうです。「しゅみせん」とは世界の中心にある山で、回りを大きな海に囲まれていて、その山の周囲を常に太陽と月が回って、これが世界を照らしているという思想です。ですから、自分がそのしゅみせんを右手に掲げ持ちそれを海に浮かべて立ち去るということの意味は、自分は世界の中心になるべき人をこの世に誕生させておいて、自身は極楽に立ち去るということだと受け取ったわけです。そこで、生まれた明石君が夢の予言につながるものであることを確信して入道は住吉の神に願を掛け、毎年明石君を伴って住吉参りを続けたのでした。
 そうして源氏の君が出現し、生まれた娘が春宮に入内して春宮の子を産んだのですから、いよいよ夢の予言の実現が確実になったということになります。
 入道の手紙の続きを読みましょう。

  わが君を頼むことに思ひきこえはべしかばなむ、心ひとつに多くの願を立てはべし。その返り申したひらかに、思ひのごと時にあひたまふ。若君、国の母となりたまひて、願ひ満ちたまはむ世に、住吉の御社をはじめ、果たし申したまへ。さらに何ごとをかは疑ひはべらむ。このひとつの思ひ、近き世にかなひはべりぬれば、はるかに西のかた、十万億の国隔てたる、九品の上の望み疑ひなくなりはべりぬれば、今はただ迎ふる蓮を待ちはべるほど、その夕まで、水草清き山の末にて勤めはべらむとてなむまかり入りぬる。
    光いでむ暁ちかくなりにけり今ぞ見し世の夢語りする
とて月日書きたり。 

 夢の実現が確実になった今、自分がやがては極楽浄土にむかえられることは確実なのでその日がくるまでは山の中に籠ってお勤めをすると書かれていたのでした。妻尼君にあてた手紙には、ただ簡単に、山に入ること、あの世で逢おうということだけが書かれていました。こちらも原文で読みましょう。

  この月の十四日になむ、草の庵まかり離れて、深き山に入りはべりぬる。かひなき身をば
熊狼にも施しはべりなむ。そこには、なほ思ひしやうなる御世を待ち出でたまへ。明らかなる所にて、また対面はありなむ。
とのみあり。

 この手紙を明石から届けたのは、入道のお側近くに仕えて来た高僧でした。尼君は、夫ともう二度と会えないと思うと悲しくてたまりません。入道は今どうしているのだろうとその僧にあれこれ尋ねたのでした。そうするとこの手紙を書いた三日後には何もかも処分して僧一人と童二人だけを共に人跡未踏の深い山に入ってしまわれたということなのです。原文で読みましょう。

  尼君この文を見て、かの使ひの大徳に問へば、「この御文書きたまひて、三日といふになむ、かの絶えたる峰にうつろひたまひにし。(略)年ごろ行ひの隙々に、寄り臥しながら掻き鳴らしたまひし琴の御琴、琵琶とり寄せたまひて、かい調べたまひつつ、仏にまかり申したまひてなむ、御堂に施入したまひし。さらぬものどもも、多くはたてまつりたまひて、その残りをなむ、御弟子ども六十余人なむ、親しき限りさぶらひける、ほどにつけて皆処分したまひて、なほし残りをなむ、京の御料とて送りたてまつりたまへる。今はとて、かき籠り、さるはるけき山の雲霞にまじりたまひにしむなしき御あとにとまりて、悲しび思ふ人々なむ多くはべる」

 これを聞いて、尼君は涙がとまりませんでした。明石君も呼ばれてやってきて、手紙を読み、話を聞いて、悲しみで一杯になり、すでに父の生死さえわからないことを母とともに嘆きあったのでした。しかし、どうすることもできないのでした。
 二人の悲しみを少しだけ原文で読みましょう。尼君が娘明石君に向って涙ながらに述懐しています。あなたのお蔭で思いがけなく有難いことにも出会いましたけれど、辛い思いもしてきました。夫とはたがいに深く信頼し合って若い時から共に過ごしてきたのに、こんなにも長い間、それほど遠くもない所に暮らしていながら一度別れてからは逢うこともなくこのままお別れするのでしょうかと嘆いています。御方が明石君です。

  尼君、久しくためらひて、「君の御徳には、うれしくおもだたしきことをも、身にあまりて並びなく思ひはべり。あはれにいぶせき思ひもすぐれてこそはべりけれ。(略)つひにかくあひ見ず隔てながらこの世を別れぬるなむ、くちをしくおぼえはべる。世に経し時だに、人に似ぬ心ばへにより、世をもてひがむるやうなりしを、若きどち頼みならひて、おのおのはまたなく契りおきてければ、かたみにいと深くこそ頼みはべしか。いかなれば、かく耳に近きほどながら、かくて別れぬらむ」と言ひ続けて、いとあはれにうちひそみたまふ。御方もいみじく泣きて、「(略)さて絶え籠りたまひなば、世の中も定めなきにやがて消えたまひなば、かひなくなむ」とて、夜もすがら、あはれなることどもを言ひつつ明かしたまふ。

 一晩二人で語り合った後、明石君は女御の元に戻りました。その時、願文の入った文箱は持ち帰り、事情を話して明石女御に託しました。たまたま女御の部屋にやってきた源氏がその文箱を見てこれは何かと聞いたことから、明石君は一部始終を語り、入道からの手紙も見せたのでした。源氏も涙しながら入道の手紙を読み、入道の先祖は大臣の位についていたこと、入道も本来なら高い位についてもおかしくない優秀な人物であることなどを語っています。そして心のうちに自分が須磨明石と流離うことになったのもじつはこの入道の掛けた願がもたらしたものであったことをあらためて確信したのでした。原文です。

 「いとかしこく、なほほれぼれしからずこそあるべけれ。手なども、すべて何ごとも、わざと有職にしつべかりける人の、ただこの世経るかたの心おきてこそ少なかりけれ。かの先祖の大臣は、いとかしこくありがたき心ざしを尽くして、朝廷につかうまつりたまひけるほどに、ものの違ひめありて、その報いにかく末はなきなりなど人言ふめりしを、女子のかたにつけたれど、かくていと嗣なしといふべきにはあらぬも、そこらの行ひのしるしにこそはあらめ」など涙おしのごひたまひつつ、この夢のわたりに目とどめたまふ。(略)さらばかかる頼みありて、あながちには望みしなりけり、横さまにいみじき目を見、ただよひしも、この人ひとりのためにこそありけれ、いかなる願をか心に起こしけむ、とゆかしければ、心のうちに拝みて取りたまひつ。

 源氏は、さらに、世間では入道の一族がこのまま衰亡するのだと思われていたけれど、入道の掛けた願、そしてその勤行一筋の生き方によってこうしてその娘を経て再び一族の栄えを招きよせることができたのだと語っています。
 明石入道の消息はここで途絶え、その後の娘や孫たちの繁栄を知ることもなかったのでした。きょうはここまでです。











文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回最終回2024年7月25日 光源氏に王権を奪還させた男 其の八「明石一族のその後」
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗