四、涙そそく春の盃

葵、賢木、須磨

光源氏にはなれなかった男 頭中将4
四、涙そそく春の盃

 

 葵上が亡くなったのは八月の末、今の暦で言えば秋の半ばでした。源氏の君はその後一度も自宅に帰ることも無く左大臣家で喪に服しています。季節は移って時雨する頃となりました。十月からは季節が変わって冬になるため、衣替えをした頭中が、源氏の部屋をのぞきます。原文です。

  時雨うちして、ものあはれなる暮つかた、中将の君、鈍色の直衣、指貫、うすらかに衣がへして、いとををしうあざやかに、心はづかしきさまして参りたまへり。君は、西のつまの高欄におしかかりて、霜枯れの前栽見たまふほどなりけり。風荒らかに吹き、時雨さとしたるほど、涙もあらそふここちして、「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」とうちひとりごちて、頬杖つきたまへる御さま、女にては見捨ててなくならむ魂かならずとまりなむかしと、色めかしきここちに、うちまもられつつ、近うついゐたまへれば、しどけなくうちみだれたまへるさまながら、紐ばかりをさしなほしたまふ。

 衣替えして、喪服ながらも美しい姿でやってきた頭中、その目に映ったのは、女なら見捨てて亡くなる魂も引き留めてしまいそうな魅力的な源氏の君の姿でした。この所ずっと源氏の深い悲しみを間近で見てきて、頭中は、葵上に対する源氏の愛情が本物であったことをはっきり知り、友人でありライバルであった彼に改めて親愛の情を抱いたのでした。これまでは晴れの舞台では競い合い、プライベートな付き合いの中では面白おかしい体験を共にして来た二人の間は、悲しみを共にすることで一層近づいたのです。
 悲しい出来事は続きます。その翌年は光源氏の父であり、頭中にとっては伯父にあたる桐壺院がおかくれになったのです。桐壺院は帝の位を去ったあとも権力の中心にあったのですが、亡くなってしまったことで、世の大勢は完全に今の帝朱雀帝の側に傾きました。朱雀帝の母弘徽殿女御は右大臣の娘です。これまで左大臣系で占められていた要職は一気に右大臣系に流れたのでした。頭中は右大臣の娘を正妻としていましたが、婿としての勤めをあまり忠実にはたしていたとは言えませんでした。その報復か、頭中も左大臣系の人物として、源氏と同じように出世の道から外されたのでした。二人は世を拗ねて、まともに出仕することもせず、毎日一緒に学問や遊びに精出して日々を送ったのでした。昔と同じように何かにつけて「物狂おしきまで」挑み合ったとあります。原文で読みましょう。頭中は三位の中将とよばれています。大将殿が源氏です。

  三位の中将なども、(略)思ひ知れとにや、このたびの司召にも漏れぬれど、いとしも思ひ入れず。大将殿、かう静かにておはするに、世ははかなきものと見えぬるを、ましてことわりとおぼしなして、常に参り通ひたまひつつ、学問をも遊びをももろともにしたまふ。いにしへも、もの狂ほしきまで、いどみきこえたまひしを   
おぼしいでて、かたみに今もはかなきことにつけつつ、さすがにいどみたまへり。

 そうして出仕もろくろくせずにいる日々が続いて、さすがに世間では彼らのことを非難する声もきかれるようになりましたが、意に介する二人ではありません。盛大に法会を催してみたり、漢詩作りの会をしたり、韻ふたぎというゲームをして勝ち負けを争ったりしています。原文です。

  春秋の御読経をばさるものにて、臨時にも、さまざま尊きことどもせさせたまひなどして、またいたづらに暇ありげなる博士ども召し集めて、文作り韻塞などやうのすさびわざどもをもしなど、心をやりて、宮仕へもをさをさしたまはず、御心にまかせてうち遊びておはするを、世の中には、わづらはしきことどもやうやう言ひいづる人々あるべし。夏の雨のどかに降りて、つれづれなるころ、中将、さるべき集どもあまた持たせて参りたまへり。(略)賭物など、いと二なくていどみあへり。塞ぎもて行くままに、かたき韻の文字どもいと多くて、(略)つひに右負けにけり。二日ばかりありて、中将まけわざしたまへり。

 この時は韻塞ぎのゲームに頭中が負けてまけわざ、負けた方が勝った方を招いて開く宴会をしたとあります。夏のこととて華やかな花はないけれど、お庭にはひっそりバラの花が咲いています。招かれた人々はここでも漢詩を詠んだりし、頭中の子どもが笛を吹いたり歌を歌ったりし、源氏から御衣を賜ったとあります。内々のものながら、楽しい宴でした。
 その頃、困った事件が起こりました。源氏と、右大臣家の娘で今は朱雀帝の妻の一人となっている朧月夜との密会が露顕したのです。右大臣家に里帰りしていた朧月夜の元に何度も密かに通っていた源氏をある夜、右大臣が発見したのです。現場を押さえられたのでは言い逃れのしようもありません。帝の妻を犯したということですから罪に問われることは免れられません。源氏は制裁を受ける前に自ら須磨の地に退去して謝罪と恭順の意を示そうとしたのでした。世は右大臣家の思うがままという時勢です。右大臣側の不興を買えばどんなことになるかわかりません。源氏の周りからは潮が引くように人々は去っていきました。ごく僅かな供人だけを連れてひっそりわび住いをするそんな源氏の元を訪ねてきたのが頭中でした。須磨退去のほぼ一年後のことでした。原文です。

  いとつれづれなるに、大殿の三位の中将は、今は宰相になりて、人柄のいとよければ、時世のおぼえ重くてものしたまへど、世の中あはれにあぢきなく、もののをりごとに恋しくおぼえたまへば、ことの聞こえありて罪にあたるともいかがはせむとおぼしなして、にはかにまうでたまふ。うち見るより、めづらしううれしきにも、ひとつ涙ぞこぼれける。(略)飛鳥井すこし歌ひて、月ごろの御物語、泣きみ笑ひみ、若君の何とも世をおぼさでものしたまふ悲しさを、大臣の明け暮れにつけておぼし嘆く、など語りたまふに、堪へがたくおぼしたり。

 頭中はその後昇進して、今は宰相の位に就いていますが、源氏のような優れた人物がないがしろにされ、活躍の場を奪われている現状が嘆かわしく、また、個人的な気持ちとしても源氏に会うことの出来ない日々が虚しくてたまらないのでした。そこで例え罪を問われることになっても構わないという思いで突然須磨を訪れたのでした。危険を冒してまで訪ねて来た頭中に源氏は驚き感激します。二人は涙ながらに盃を酌み交わし、この間のことを語り合ったのでした。中でも頭中の話すわが子の様子を、源氏は胸をえぐられる思いで聞いたのでした。そしてやがて夜が明けて、頭中は慌ただしく帰っていきます。主も供人も皆涙涙の別れです。二人は最後に歌を詠み交わしています。原文で読みましょう。

  終夜まどろまず、文作り明かしたまふ。さ言ひながらも、ものの聞こえをつつみて、急ぎ帰りたまふ。いとなかなかなり。御土器参りて、「酔いの悲しび涙そそく春の盃のうち」と、諸声に誦じたまふ。御供の人も涙をながす。おのがじし、はつかなる別れを惜しむべかめり。朝ぼらけの空に雁連れてわたる。主人の君、
故里をいづれの春か行きて見む
うらやましきは帰るかりがね
宰相、さらに立ち出でむここちせで、
あかなくにかりの常世を立ち別れ
花の都に道やまどはむ
(略)
日やうやうさしあがりて、心あわたたしければ、かへりみのみしつつ出でたまふを、見送りたまふけしき、いとなかなかなり。「いつまた対面たまはらむとすらむ。さりとも、かくてやは」と申したまふに、主人、
「(略)何か、都のさかひをまた見むとなむ思ひはべらぬ」などのたまふ

 別れに際して、頭中は「いつまたお会いできるだろうか。いくらなんでもこのままということはないでしょう」と言い、源氏のほうは「京に戻ることはもう諦めています」と悲しいことを言います。何度も何度も振り返りながら頭中は帰っていきます。源氏のほうは姿が見えなくなるまでずっと見送り、友への思いと京恋しさでしばらくは物思いに沈む日々を送ったのでした。この須磨での一夜、二人の心は純粋に寄り添い、これまで共にして来た数々の思い出に添えて一際輝く一コマとなったのでした。





文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回 第五話「二十日あまりの月」  2022年10月13日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗