若菜上
其の六「いとうれしく」
幼い姫は紫の上の養女となり、六条院春の館で愛情を一杯に受けて育ちました。紫の上は子供が大好きなのに自身は子供に恵まれませんでしたから、可愛い女の子を持つことができて本当にうれしかったと思います。明石君はその後大堰の山荘から六条院の冬の館に移り住みましたが、姫に会うことは許されませんでした。
そうして歳月は過ぎ、姫君は紫の上の元ですくすくと育ち、八年後十一歳になった年に、春宮の元に入内したのでした。源氏の計画通りです。このお輿入れのとき、姫は初めて実の母明石君に会います。紫の上は自分がずっと宮中につめて付き添うことはできないからと母親役を実の母に譲ったのでした。明石君は、入内後の姫君に付き添って身の回りのお世話などをすることになったのです。ここからは、姫を女御と呼びましょう。明石女御です。女御は自分が紫の上の実子でないことは知っていましたが、自分の誕生にまつわる詳しい事情は知らされていません。明石君もその辺りの過去のことについては話していません。いたずらに娘の心を乱すだけだから知らせる必要はないと考えていたのです。ところが、やがて妊娠した女御が出産のために六条院の冬の館に里帰りした折に、祖母尼君から昔話を聞くことになったのでした。いつもはお傍につききりの明石君がたまたま座をはずした時に、尼君が女御に近づいたのです。祖母とはもちろん初対面です。その場面を原文で読みましょう。かの大尼君とあるのが入道の妻、明石君の母つまり女御のおばあさんです。
かの大尼君も、今はこよなきほけ人にてぞありけむかし。この御ありさまを見たてまつるは夢のここちして、いつしかと参り近づき馴れたてまつる。年ごろ、母君はかう添ひさぶらひたまへど、昔のことなど、まほにしも聞こえ知らせたまはざりけるを、この尼君、よろこびにえ堪へで、参りては、いと涙がちに、古めかしきことどもを、わななき出でつつ語りきこゆ。はじめつかたは、あやしくむつかしき人かなと、うちまもりたまひしかど、かかる人ありとばかりは、ほの聞きおきたまへれば、なつかしくもてなしたまへり。
明石女御は、馴れ馴れしく話しかけてきた老人が気味悪くてじっとその顔を見つめていたのですが、話を聞くうちに、この人が、以前母からちょっと聞かされていた祖母なのだと納得して話に耳を傾けたのでした。尼君はこの機会を逃さじとばかりに明石の地に源氏の君がおいでになった時のことや、娘と結ばれはしたもののやがて京に帰っておしまいになり、もうこれで終わりかと嘆いたけれどもあなたが生まれたおかげで縁が切れずに今に至ったのだというようなことを話して聞かせたのでした。
生まれたまひしほどのこと、大殿の君のかの浦におはしましたりしありさま、今はとて京へ上りたまひしに誰も誰も心をまどはして、今は限り、かばかりの契りにこそはありけれと嘆きしを、若君のかく引き助けたまへる御宿世の、いみじくかなしきこと、と、ほろほろと泣けば、げにあはれなりける昔のことを、かく聞かせざらましかば、おぼつかなくても過ぎぬべかりけりとおぼして、うち泣きたまふ。
女御は全く知らなかったことなので、衝撃を受けました。自分が明石という田舎で生まれたことや母親は受領階級の娘であるということ、そして祖父が一人明石の地に残って寂しく暮らしておいでだということ、どれもこうして聞かせてもらわなかったら、何も知らないまま、いい気になって過ごしていただろうと思うことばかりでした。以下原文を続けます。
母君をば、もとよりかくすこしおぼえ下れる筋と知りながら、生まれたまひけむほどなどをば、さる世離れたる境にてなども知りたまはざりけり。いとあまりおほどきたまへるけにこそは。あやしくおぼおぼしかりけることなりや。かの入道の、今は仙人の世にも住まぬやうにてゐたなるを聞きたまふも、心苦しくなど、かたがたに思ひ乱れたまひぬ。
そこに明石君が戻ってきて二人の様子を見て状況を察します。出産を控えた女御の心を乱すようなことをして・・・・と心を痛めるのですが、尼君は意に介さず女御に寄り添うようにして涙を流しています。女御は故郷の明石の浦という所を訪ねてみたいと歌を詠み、明石君も別れて来た父明石入道のことを思って涙ぐんだのでした。三人の歌の応酬を原文で読みましょう。
(尼君)「老の波かひある浦に立ち出でてしほたるるあまを誰かとがめむ
昔の世にもかやうなる古人は、罪ゆるされてなむはべりける」と聞こゆ。
御硯なる紙に、
(姫)しほたるるあまを波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋を
御方もえ忍びたまはで、うち泣きたまひぬ。
(明石君)世を捨てて明石の浦にすむ人も心の闇ははるけしもせじ
など聞こえまぎらはしたまふ。別れけむ暁のことも、夢のうちにおぼし出でられぬを、くちをしくもありけるかな、とおぼす。
そんなこともありましたが、やがてめでたく御子が誕生しました。しかもそれは男御子だったのです。やがては春宮となり、帝の位を継ぐことになるであろう御子なのです。あまりに若い産婦だったので、出産を無事に終えることができるかどうかと周囲は危ぶんで、たいそう心配したのですが、母子ともに元気で、男の子が生まれたというわけですから、周囲の喜びはひとしおでした。源氏の君もほっと胸をなでおろしたのでした。原文です。
弥生の十余日のほどに、たひらかに生まれたまひぬ。かねてはおどろおどろしくおぼし騒ぎしかど、いたくなやみたまふことなくて、男御子にさへおはすれば、限りなくおぼすさまにて、大殿も御心おちゐたまひぬ。
明石にもほどなくこの朗報はもたらされました。その知らせを受け取った明石入道はこれで念願が叶ったということで、いよいよ俗世を捨てて山に籠ることにしたのでした。
原文です。
かの明石にも、かかる御こと伝へ聞きて、さる聖ごこちにも、いとうれしくおぼえければ、「今なむこの世の境を心やすく行き離るべき」と弟子どもに言ひて、この家をば寺になし、あたりの田などやうのものは皆その寺のことにしおきて、この国の奥の郡に、人も通ひがたく深き山あるを、年ごろも占めおきながら、あしこに籠りなむのち、また人には見え知らるべきにもあらずと思ひて、ただすこしのおぼつかなきこと残りければ、今までながらへりけるを、今はさりともと、仏神を頼み申してなむうつろひける。
こうして明石入道はこの世との縁を切る決意をかためたのですが、その時にあたって、妻尼君と娘明石君に遺書を届けさせたのでした。
次回はその遺書から始めましょう。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
次回2024年7月11日 光源氏に王権を奪還させた男 其の七「須弥の山」
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗