明石入道一、播磨の明石の浦

若紫、須磨、明石

其の一「播磨の明石の浦」

 

 

 

 前回の朱雀院は娘女三宮を溺愛する父親でしたが、今回とりあげる明石入道も一人娘をわが命とする父親です。源氏物語にはいくつかの父親像が描かれていまあす。紫式部が母親像よりも父親像にこだわっているのは彼女の成育歴によるものでしょうか。
ともあれ明石入道という男はなかなか興味深い人物です。娘が一族の復権につながる存在であることを頑なに信じ、まずは受領となって地方へ下って財力を蓄え、18年間に亘って住吉神社への願掛けと参詣を続ける意思の強い男。その一方で琴や琵琶を愛し美しい音色に感動して涙し、娘や孫娘との別れの辛さに泣いてよろめいて転んでしまったりする気弱な優男でもあるのです。これからその姿を追ってゆきましょう。

 初めて彼の名が物語に登場するのは、光源氏十八歳の時、わらわ病みの治療のために北山の聖の元を訪れた時です。京のうちとは異なる北山の風景を眺めながら、源氏とそのお供の間で景色が美しいのはどこかと言うことが話題になった時のことです。元播磨の守の子の良清が明石の浦の名を挙げ、そこに住む変わりものとして明石入道が噂にのぼります。原文で読みましょう。

(良清)「近きところには、播磨の明石の浦こそ、なほいとことにはべれ。何の至り深き隈はなけれど、ただ海の面を見わたしたるほどなむ、あやしく異所に似ず、ゆほびかなる所にはべる。かの国の前の守、新発意の、女かしづきたる家、いといたしかし。大臣の後にて、出で立ちもすべかりける人の、世のひがものにて、まじらひもせず、近衛の中将を捨てて、申し賜はれりける司なれど、かの国の人にもすこしあなづられて、『何の面目にてか、また都にも帰らむ』と言ひて、頭もおろしはべりにけるを、(略)」

 家柄も良く出世の可能性もあったのに、官位を捨てて受領となって地方に下り、さらに、任期果てても京に戻らず、出家してその地に居座ったというのです。先にも触れたように、受領を願い出たのは、経済的な理由によるものでした。豊かな地の受領となり、才覚があれば容易に蓄財できたらしいのです。生まれて来る娘を豊かな環境で育てるために入道が選んだ道でした。さらに出家したのも、自らが功徳をつむことによって娘にそれを回向するためだったのと思われます。この回向という概念は時代によって変わりますが、この時代にはまだ、自分の捨てた現世の幸せを他に振り向けることができると考えられていたようです。なぜ娘のためにそこまでしたのか。それは後で語られることになります。
 娘を大切に育てていると聞いて興味を持った源氏がその娘のことを尋ねると良清はこんなことを皆に話したのでした。原文です。


(良清)「けしうはあらず、容貌、心ばせなどはべるなり。代々の国の司など、用意ことにして、さる心ばへ見すなれど、さらにうけひかず。わが身のかくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさま異なり。もし我に後れてその志とげず、この思ひおきたる宿世違はば、海に入りね、と、常に遺言しおきてはべるなる」と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。

 才色兼備のなかなかいい娘だという噂で代々の国司などが求婚してきたけれど、父親の入道は国司風情に娘をやるつもりはない、私には考えがあるといって承知せず、娘にはもし自分が先に死んでしまって自分の考えているような縁組ができなかった時には海に入れと遺言しているらしいと良清は語っています。それを聞いて一行は笑い、源氏も面白がったとあります。そしてこの時から八年後、源氏は朧月夜との密会が露顕したことから須磨に流謫の身となりました。ここでようやく北山でわざわざ噂話をさせたことの意味がわかるという仕組みになっています。入道は明石のすぐ近く、同じ播磨の国の須磨に源氏がやってきたと聞いて念願の高貴な血筋の方がいよいよ出現なさったと喜び、妻にこの方こそ娘の婿になられる方だと語るのですが、妻は「多くの奥方をお持ちで、しかも帝の妻にまで手を出されたようなお方なんてとんでもない。うちの娘なんか無理です」と反対します。けれども入道はそんな妻を𠮟りつけ、「そのうち折りを見て源氏の君をこちらにお迎えするから心構えをしておきなさい。私には考えがあるのだ」と言って源氏の住まいに充てるつもりの家を磨きたてて準備をするのでした。原文です。

  この君かくておはすと聞きて、母君に語らふやう、「桐壺の更衣の御腹の、源氏の光君こそ、朝廷の御かしこまりにて、須磨の浦にものしたまふなれ。吾子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、この君にたてまつらむ」と言ふ。母、「あなかたはや。京の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻ども、いと多く持ちたまひて、そのあまり、忍び忍び帝の御妻をさへあやまちたまひて、かくも騒がれたまふなる人は、まさにかくあやしき山がつを、心とどめたまひてむや」と言ふ。腹立ちて、「え知りたまはじ。思ふ心ことなり。さる心をしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせむ」と、心をやりて言ふも、かたくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。

 須磨に移り住んだその一年後、源氏が上巳の祓を海辺でしたところ、突然嵐になり、何日も暴風雨が荒れ狂い、源氏の住む館も落雷によって一部焼けてしまいました。その夜、まどろんだ源氏の夢に父桐壺帝が現れて、迎えの舟に乗ってこの地を去れと言うのです。一方の入道も夢でこの日に須磨の浦に舟を出すようにという住吉の神のお告げを受けていたのです。入道がお告げに従って嵐の翌朝早朝に船を出すと、一筋の風が吹いて、あっという間に須磨の浜辺に着いたのでした。そして源氏の館に使いをやって良清を呼び寄せて住吉の神のお告げによってお迎えに来た旨を話したのでした。それを受けて源氏は数人の供と船に乗りこんだのでした。原文です。源少納言とあるのは良清のことです。

  渚に小さやかなる舟寄せて、人二三人ばかり、この旅の御宿りをさして来。何人ならむと問へば、「明石の浦より、前の守新発意の、御舟よそひて参れるなり。源少納言さぶらひたまはば、対面して、ことの心とり申さむ」と言ふ。良清おどろきて「入道は(略)ことなる消息をだに通はさで、久しうなりはべりぬるを、波のまぎれに、いかなることかあらむ」と、おぼめく。(略)ともあれかくもあれ、夜の明け果てぬさきに御舟にたてまつれ、とて、例の親しき限り四五人ばかりして、たてまつりぬ。

 帰りもまた不思議な風が吹いてまたもあっという間に明石の浜に到着しました。源氏の君が、浜で舟から車に乗り移られるときにちょうど日が昇り、君のお顔を仰いだ入道はその美しさに感動して胸がいっぱいになりました。そしていそいそと用意してあった邸宅に案内したのでした。源氏の部屋は豪華な家具がそろえられて京の高貴な方のお住まい以上に素晴らしく整えられていたのでした。原文です。

  例の風出て来て、飛ぶやうに明石に着きたまひぬ。ただはひわたるほどは片時の間と言へど、なほあやしきまで見ゆる風の心なり。(略)舟より御車にたてまつり移るほど、日やうやうさしあがりて、ほのかに見たてまつるより、老忘れ、齢延ぶるここちして、笑みさかえて、まづ住吉の神を、かつがつ拝みたてまつる。月日の光を手に得たてまつりたるここちして、いとなみつかうまつること、ことわりなり。(略)御しつらひなど、えならずして、住ひけるさまなど、げに都のやむごとなき所々に異ならず、艶にまばゆきさまは、まさりざまにぞ見ゆる。

 この展開はあまり現実的とはいえませんね。源氏物語は、こういう古代物語の性格と近代小説的な性格の両方を持っているのです。後で述べられることですが、明石入道が娘の持つ宿縁を信じたのも、夢のお告げによるものでした。明石物語はその全体が古代物語の枠組みの中で語られているという感じがします。
 ではきょうはここまでといたしましょう。











文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回2024年4月25日 光源氏に王権を奪還させた男 其の二「つつましうなりて」
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗