四、藻塩

須磨 明石

藻塩

 今回のタイトル「藻塩」は当時の都人にとっては須磨の地を象徴する言葉でした。かつて在原行平がその地に流謫の身となった時に詠んだといわれる「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ」によるものです。その地を源氏も自らの謹慎の地として選んだのでした。事の発端は、朧月夜の尚侍との密会の露顕でした。
源氏の君25歳の夏のことです。源氏は、右大臣邸に里帰りしていた朧月夜の元に忍んでその現場を右大臣に見つけられてしまったのです。朧月夜は帝の寵愛篤い妻。右大臣は朧月夜の父親であると同時に、帝の母弘徽殿太后の父親、つまり帝の祖父に当たる人です。源氏の行為はどこから見ても許されないものでした。現場を押さえられてしまった以上言い逃れのしようもありません。罪人とされる前に自ら退去して謹慎しようと源氏は須磨をその地に選んだのでした。そして翌年の春、京を去ることにしたのでした。紫の上と結婚してから4年目、紫の上は18歳になったところです。別れを悲しむ紫の上を見ると源氏の君も辛くてたまりません。原文です。

  姫君の、明け暮れにそへては思ひ嘆きたまへるさまの、心苦しうあはれなるを、行きめぐりてもまた逢ひ見むことをかならずとおぼさむにてだに、なほ一二日のほど、よそよそに明かし暮らすをりだに、おぼつかなきものにおぼえ、女君も心細うのみ思ひたまへるを、幾年そのほどと限りある道にもあらず、逢ふを限りに隔たりゆかむも、定めなき世に、やがて別るべき門出にもやと、いみじうおぼえたまへば、忍びてもろともにもやとおぼし寄るをりあれど(以下略)

 このまま二度と逢えないかも知れないという思いが胸を衝き上げ、源氏は密かにつれてゆこうかとも考えました。けれどもそれは不謹慎なことでもあり、また、連れて行けば色々と心配なことも起こるかもしれないと考えて思いとどまったのでした。紫の上はどんなところでも連れて行って下さいと懇願するのですが。
そして3月20余日、出発の日がやってきました。最後に二人は歌を詠み交わします。
源氏の君は「死んで別れることだけを怖れて、生きている限りはあなたと共にとお約束していたのに、こうして別れるとは。はかない約束でした」とちょっと冗談めかして言い、紫の上は「惜しくもない私の命と引き換えにこの別れの時をしばらくでも延ばしたい」と切ない言葉を口にします。
いつまでと期限のわからない別れです。原文で読みましょう。

  わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむと、うしろめたく悲しけれど、おぼし入りたるに、いとどしかるべければ、
   「生ける世のわかれを知らで契りつつ
      命を人に限りけるかな
はかなし」などあさはかに聞こえなしたまへば、
    惜しからぬ命にかへて目の前の
      別れをしばしとどめてしがな
げに、さぞおぼさるらむと、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。道すがら面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗りたまひぬ。

 須磨に落ち着いて数か月後源氏は京のあちこちに手紙を出します。手紙を出すと言ってもポストがあるわけではありません。手紙を携えて誰か使者が京に馬を走らせるわけです。そして返事をもらってそれを持ち帰るわけですからそう簡単に手紙を出すことはできません。手紙を受け取った紫の上の様子を原文でご紹介しましょう。二条の院の君とあるのが紫の上です。

  二条の院の君は、そのままに起きもあがりたまはず、尽きせぬさまにおぼしこがるれば、さぶらふ人々もこしらへわびつつ、心細う思ひあへり。(略)出で入りたまひしかた、寄りゐたまひし真木柱などを見たまふにも、胸のみふたがりて、ものをとかう思ひめぐらし、世にしほじみぬる齢の人だにあり、まして馴れむつびきこえ、父母にもなりて生ほし立てならはしたまへれば、恋しう思ひきこえたまへる、ことわりなり。

 手紙を読んだ紫の上は源氏の君恋しさに倒れ込んでしまったとあります。部屋じゅうどこを見ても源氏の君の面影が浮かびます。世間で様々な経験を重ねた人ならともかく、まだ若く、源氏の君の庇護のもと、君を父とも母とも頼って生きてきた紫の上が源氏を恋しくおもうのはもっともなことだと書かれています。そんな悲しみの中でも、紫の上は返事の便りに添えて、源氏の君があちらで着るようにと仕立てておいた地味な普段着を使者に託します。
 そうして一年が過ぎ二年目の夏、源氏から、かの地に愛する人ができたことをほのめかす手紙が届きます。明石の君です。寂しさに耐えて留守を守る紫の上は衝撃を受けました。ただそれをあからさまにぶつけることはせず、やんわりと恨みの言葉を忍ばせたのでした。その返事を読んだ源氏は紫の上恋しさに、しばらくは明石の君の元へ通うのを止めたのでした。その頃、毎日紫の上に語りかけるように絵日記を描いたとあります。同じ頃、まるで申し合わせたように、紫の上も悲しさを紛らわすために絵日記を描いていたのでした。
原文で読みましょう。

  (明石の君のことを)あはれとは月日に添へておぼしませど、やむごとなきかた(紫の上)の、おぼつかなくて年月を過ぐしたまふが、ただならずうち思ひおこせたまふらむが、いと心苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ。絵をさまざま書き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りこと聞くべきさまになしたまへり。見む人の心にしみぬべきもののさまなり。いかでか空に通う御心ならむ、二条の君も、ものあはれになぐさむかたなくおぼえたまふをりをり、同じやうに絵を書き集めたまひつつ、やがてわが御ありさま、日記のやうに書きたまへり。

 さて、源氏の君の退去後、京では様々な天変地異が続いたことや、帝が目を病み、その母弘徽殿太后も重い病に掛かったことから、やがて、源氏召還へと事態は動くことになります。そうして帝の決断で二年半ぶりに源氏は京に迎えられることとなりました。最悪の場合、二度と会えないかもしれないと思っていたわけですから、人々の再会の喜びはひとしおでした。中でも紫の上との再会は源氏の君にとっても一番の喜びでした。

  二条の院におはしましつきて、都の人も、御供の人も、夢のここちして行き合ひ、よろこび泣きもゆゆしきまで立ち騒ぎたり。女君も、かひなきものにおぼし捨てつる命、うれしうおぼさるらむかし。いとうつくしげに、ねびととのほりて、御もの思ひのほどに、所狭かりし御髪のすこしへがれたるしも、いみじうめでたきを、今はかくて見るべきぞかしと、御心落ちゐるにつけては、また、かの飽かず別れし人の思へりしさま心苦しうおぼしやらる。

 この間のもの思いで少し髪も減って、かえってそれが女らしさを増したように感じられ源氏の君は紫の上への愛しい想いで一杯です。これからは毎日この可愛い人を見ていられると思えば嬉しくてたまりません、けれども、その一方で明石に残してきたもう一人のいとしい人のことも思い出されます。源氏はその人、明石の君のことを紫の上に話さずにはいられないのでした。その話に対してちらりと嫌味を言う紫の上がまた愛しくて、源氏は他の女君の元へ通うこともせず二条院に夜夜を過ごしたのでした。
 貴種流離譚の筋書き通り、復帰した源氏の君は、自身も位が上がって内大臣となり、義理の父は太政大臣の位につき、後見する春宮(藤壺の産んだ源氏の秘密の子ですが)その子は帝の位につきました。今や源氏の君は肩を並べる者とてない権勢家です。
紫の上にも再び幸せな日々が戻ってきました。寂しい夜を一人で過ごすこともなくなり、満ち足りた毎日を送っています。一つだけ気になるのは、源氏の君が、明石に残してきた彼女にしばしば使いを出して手紙やプレゼントを送っているらしい事でした。
さあ今回はここまでです。








文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


新講座第五回 「遠方人(をちかたびと)」 2022年4月7日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗