十、漂泊

須磨、明石

漂泊

 前回お話しましたように、朧月夜との一件が露顕したことから、右大臣家、殊に弘徽殿大后がたによる源氏排斥の動きが急になりました
源氏の君はこれ以上状況が悪化しないうちに自ら身をひこうと考え、須磨をその地として選びます。
 この展開はいわゆる貴種流離譚、貴い血筋の主人公が試練の時を経て再生するという古来の物語の作法に則っています。貴種流離譚の典型としては古事記のスサノオノミコトの例を思い出して頂くと、わかりやすいと思います。下界に追放されたスサノオノミコトが、出雲の国で、娘を食いにくるヤマタノオロチを退治して、その尾から草薙の剣を得て、娘と結婚するという話ですね。神が、あるいは英雄が、元の世界を追放され、さすらうことによってあらたな力を手にし、本当の神に英雄に生まれ変わるというパターンです。光源氏もこの流謫によって、生まれ変わり、新たな力を得るであろうことが予測されるわけです。
 さていよいよ京を離れることになり、源氏の君は左大臣家や花散里の所に別れの挨拶に行き、父の墓参りをし、朧月夜の君にも別れの手紙を出し、藤壺中宮にも会いに行きます。出家してからの藤壺とは御簾ごしにではありますが、親しく語り合えるようになっていました。この時、藤壺の前では、今回思いがけず罪を負う身となったのも、春宮出生の秘密に関わる天罰かもしれないと畏れの気持ちを口にしています。そして「惜しげなき身はなきになしても、宮の御世だにことなくおはしまさば」と、春宮が無事帝の位に即く日を迎える事が出来さえすれば自分の身はどうなっても構わないと涙ながらに言い、藤壺中宮もまた涙にくれたのでした。
 この先どうなるかわからない、場合によっては、もう再びもどってくることはできないかもしれないのです。最後の日は紫の上と二人で過ごしました。少し原文を読みましょう。

  その日は女君に、御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて、例の夜深く出でたまふ。狩の御衣など、旅の御よそひいたくやつしたまひて、「月出でにけりな。なほすこし出でて見だに送りたまへかし。(略)」とて、御簾まき上げて、端にいざなひきこえたまへば、女君、泣き沈みたまへる、ためらひて、ゐざり出でたまへる、月かげに、いみじうをかしげにてゐたまへり。(略)いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ

 辛い別れでした。紫の上は泣き沈んでいましたが、無理にも涙を納めて見送ります。共に下るのは親しい従者ほんの5、6人だけです。船で淀川を下り、須磨につきました。3月の20日ごろのことでした。さびしい須磨での暮らし、長雨の頃は京恋しさがつのり、使いを出して、あの方この方に手紙を届けさせました。そして夏が過ぎ、秋から冬へと季節は移ります。須磨のわび住いの様子を原文で読みましょう。
  須磨には、いとど心尽くしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、ひとり目をさまして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくるここちして、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、われながらすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、
  恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は
   思ふかたより風や吹くらむ
と歌ひたまへるに、人々おどろきて、めでたうおぼゆるに、しのばれで、あいなう起きゐつつ、鼻をしのびやかにかみわたす。

 秋の夜、眠れぬまま一人目をさましている源氏の耳にさびしい波の音、風の音が聞こえて来て、知らぬ間に枕が浮くほど涙を流していた、とあります。その後で、愛用の琴(琴というのは、琴の一種で、古風な琴です)を爪弾き、京恋しの歌をうたいましたから、同じ部屋で休んでいた御供の者たちはみんな目を醒ましてそっと泣いたのでした。 冬ともなれば、いっそう侘しさは増し、湿りがちに日々は過ぎました。出かける所もなく、訪ねて来る人もなく、どれほど所在ない日々だったことでしょう。徒然を慰むすべは、琴を弾き、笛を吹き、歌をうたう、そして漢詩を朗詠し、絵を描くなどででした。源氏の君が京から携えてきたわずかな持ち物も、白楽天の白氏文集と琴の琴でした。冬のある日の様子を原文で読みましょう。

  冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもすごくながめたまひて、琴を弾きすさびたまひて、良清に歌うたはせ、大輔、横笛吹きて、遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、ことものの声どもはやめて、涙をのごひあへり。

 冬が去り春を迎えるころ、京から、思いがけず旧友 頭の中将がやって来ました。
 右大臣方の思惑を憚って、人々は便りもよこさぬような状況の中でしたから、源氏は中将の友情に胸を熱くしたのでした。一晩酒を酌み交わし、語り合って、翌朝名残を惜しみつつ中将は帰って行きました。
 三月のはじめ、上巳の祓え(当時、三月始めの巳の日に水辺でお祓いをして身を清める習慣がありました)をするために、源氏の君たちが浜辺に出たところ、一瞬にして天気が激変しました。空は真っ暗になり、激しい雨と風が一帯を襲います。その後も、何日もこの嵐はやまず、源氏の住まいには雷が落ちたのでした。
 これは、どうしても源氏の犯した罪に対する神の怒りとしか考えられません。天のみが知る彼の犯した重大な罪がここで糾弾されたのです。この暴風雨は言わば壮大な禊であり、源氏が壮年期を迎えるための通過儀礼だったのではないでしょうか。
 さて、その落雷騒ぎで疲れ果ててうとうとした源氏の夢に、父桐壷帝が現れて「住吉の神の導きたまふままに、はや舟出してこの浦を去りね」と告げたのでした。そして翌朝の明け方、住吉の神のお導きでお迎えに来たと不思議な舟がやって来ます。源氏はしばし迷いますが、夢に見た父の言葉もあり、神の助けかもしれないと考えてその船に乗りました。迎えに来たのは、以前、噂に聞いていた明石入道という男でした。
 源氏の君の侘しい須磨暮らしは、こうして一年ほどで終わったのでした。
 明石という地名は明るいにつながるもので、宇治が憂しを連想させるのと同じような意味合いを持っています。須磨よりは家々も多く風光も美しいところでした。入道は、住吉の神に祈願してきたその願いがかなえられたとして大感激で、源氏は下へもおかぬ待遇を受けます。入道は、時折、源氏の君にそれとなく娘のことを話して水を向けますが、京でひとり耐えている紫の上を思えば、そう簡単に新たな女性と関係を結ぶことはできません。多少の興味はありながら、源氏は「行ひよりほかのことは思はじ」と心を抑えます。そうして季節は移り、初夏の夜、源氏の君が久々に弾いた琴の音色に吸い寄せられるようにやって来た明石入道は、自分も琵琶や筝の琴を弾き、興に乗って、ついに君に全てを話したのでした。少し原文を読みましょう。

  いたくふけゆくままに、浜風涼しうて、月も入りがたになるままに澄みまさり、静かなるほどに、御物語残りなく聞こえて、この浦に住みはじめしほどの心づかひ、後の世をつとむるさま、かきくづし聞こえて、この娘のありさま、問はず語りに聞こゆ。をかしきものの、さすがにあはれと聞きたまふ節もあり。(略)すべてまねぶべくもあらぬことどもを、うち泣きうち泣き聞こゆ。君も、ものをさまざまおぼし続くるをりからは、うち涙ぐみつつ聞こしめす。

 娘が生まれた時から京の身分高いお方と結ばれるようにと、長年住吉の神に詣でて願を掛けてきたこと、そして、源氏の君がこの地においでになったのは、その御利益だと語ったのです。その話を聞いて、源氏は須磨への退去は、住吉の神の思し召しであったのかと感動します。そして、それならばその娘と結ばれることは必然の結果なのだと、免罪符を手にした気分で、早速その娘に会いたいと思ったのでした。
 けれども、娘、明石の君はそう簡単には動かず、「心くらべ」になります。まずは手紙のやりとりが続きます。明石の君は、自分のほうから源氏の君の館に足を運ぶことをあくまで拒みます。軽々しく関係を持つことに対して明石の君は、父親よりも慎重でした。結局、根負けしたかたちで、四カ月近くも経った秋のある夜、源氏が娘の住む岡の家に赴くことになります。仲秋の名月のころでした。逢ってみると明石は田舎育ちとは思えない魅力的な女性でした。原文です。


  人ざまいとあてに、そびえて、心はづかしきけはひぞしたる。かうあながちなりける契をおぼすにも、浅からずあはれなり。御心ざしの近まさりするなるべし。常はいとはしき夜の長さもとく明けぬるここちすれば、人に知られじとおぼすも、心あわたたしうて、こまやかに語らひ置きて出でたまひぬ。(略)かくて後は、忍びつつ時々おはす。

 逢う度に魅力を増して行く明石の君に惹かれながらも、その一方で、ひとり京に寂しく暮らす紫の上のことを思わないわけには行きません。気がとがめる源氏の君は他から耳に入るよりはと直接紫の上にこのことをほのめかす手紙をだしました。すると、紫からはかわいらしくすねた手紙が来ました。それを読んだ源氏は、そのあとしばらくは明石の元にいくことを我慢して、入道の気をもませ、やはり簡単に捨てられるのだ、と明石の君を絶望させたりもします。

 一方その頃、京では源氏召還へと事態は動いていたのでした。次回はその辺りから。


文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「復帰」2021年7月2日配信


YouTube動画中の「明石図」につきまして。徳島市立徳島城博物館ウェブサイトより引用しています🔗