一、十六夜の月

没落宮家の姫君末摘花
一「十六夜の月」

 

 

 

 光源氏の17歳はこれまで知らなかった新たな階層、中の品の女性との出会いと別れの年でした。夕顔との儚い恋は夕顔の死で幕が下り、空蝉はあっけなく夫の任地へと去ってゆきました。源氏の恋の失敗譚その一その二ですね。
 翌年18歳になった源氏はついに藤壺との二度目の密会を果たし、藤壺は彼の子を宿すという大事件がありました。またそのころ、北山で、藤壺の面影を宿す少女を見つけて、やがて迎え取っています。若紫ですね。そういう物語の本筋とは関係なく恋の失敗譚の続き、その三がここ末摘花の巻で語られています。

 光源氏は、なお性懲りもなく、肩のこらない、やさしく魅力的な女性、死んでしまった夕顔のような女性はいないかと探していました。そんな時、光源氏の乳母子(惟光の母とは別の乳母の子)の大輔命部という女房が、一人の姫君の噂をちらりと源氏の耳にいれます。命婦が親しくしている宮家に、父宮の亡くなった後、世話する人も無く、琴だけを友としてひっそり暮らしている姫君がいるというのです。葎の宿に、一人琴を弾いて無聊をかこつ親王の娘、これこそ求めている女性像にぴったりあてはまる姫君ではありませんか。光源氏の期待はいや増しにまします。
 そこで、あまり乗り気でなかった命婦―—命婦が乗り気でなかったのには訳があります。この姫君がとうてい源氏のお相手ができるような方ではないことを知っているからです―――それでも命婦を説き伏せて、日を決めてその姫君の住む屋敷にでかけます。その場面からはいりましょう。

  のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり。「いと、かたはらいたきわざかな、ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに」と聞こゆれど、「なほあなたにわたりて、ただ一声ももよほしきこえよ。むなしくて帰らむが、ねたかるべきを」とのたまへば、うちとけたる住処にすゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見いだしてものしたまふ。

 約束の日の夕暮れにやってきた源氏を、命婦は、とりあえず自分の部屋にお通ししておいて、本当に源氏が来てしまったことに当惑しながら姫君のおいでになる寝殿のほうに行ってみます。すると姫君は、ちょうど、格子も上げたまま端近なところで庭の梅を御覧になっていました。命婦はチャンスとばかり姫君に「この頃いつも気ぜわしくしていて姫様のお琴をきかせていただいておりませんが、今夜は琴の音も映えそうな夜ですからちょっと聞かせていただけませんか」と持ち掛けます。すると姫君は謙遜しながらも素直に琴を召し寄せて掻き鳴らしたのでした。それを耳にした源氏はすっかり感動してしまいます。伝統的な話型にのっとれば、親をなくした一人娘が零落して、荒れ果てた屋敷の奥深く細々と暮らしている、その娘はたいへんな美人。琴も並々ならぬ腕で、もちろん歌などにかけても相当なもの。そんな娘がある偶然から貴公子に見つけ出され、雅な恋物語がそこに生まれる・・・・・となるはずです。源氏が琴の音を聞く所から原文で読みましょう。ところで、ここで姫の弾く琴は琴(きん)の琴という古風な楽器でこれは宮家の血筋など特別な身分の家にしかないものです。

  ほのかに掻き鳴らしたまふ、をかしう聞こゆ。何ばかり深き手ならねど、ものの音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくもおぼされず。いといたう荒れわたりて、さびしき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしづきすゑたりけむ名残なく、いかに思ほし残すことなからむ、かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ、など思ひ続けても、ものや言ひ寄らましとおぼせど、うちつけにやおぼさむと、心はづかしくて、やすらひたまふ。

 源氏はすぐにも姫君の元に駆け寄って恋心を訴えたいと思うのですが、あんまりにも唐突で失礼なのではと思ってためらいます。そのうちに命婦は「また今度ゆっくりお聞かせください」と言って姫君の琴を止めさせて源氏の所に戻ってきます。琴をちらりとだけ聞かせて、本当の腕前はわからないようにする。命婦はなかなかやり手です。
 源氏はこのまま帰るのももの足らず、かといって、最初から寝室に忍び込むことはさすがにはばかられるので、垣間見でもしてやろうと、そっと横にまわると、そこにはすでにのぞいている男がいました。驚いて立ち去ろうとすると、その男はなんと頭中将でした。原文で読みましょう。
  
  寝殿のかたに、人のけはひ聞くやうもやとおぼして、やをら立ち出でたまふ。透垣のただすこし折れ残りたる隠れのかたに、立ち寄りたまふに、もとより立てる男ありけり。誰ならむ、心かけたる好き者ありけりとおぼして、陰につきて隠れたまへば、頭の中将なりけり。この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条の院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、われも行くかたあれど、あとにつきてうかがひけり。(略)おのおの契れるかたにも、あまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹き合せて大殿におはしぬ。

 頭の中将は一緒に退出した源氏が、左大臣家でもなく自宅でもない方向に行くので、どこにいくのかと後をつけて来たのでした。源氏は「なんで後をつけてきたりしたのか」と怒りながらもおかしくなって、笑います。その後、それぞれ約束した女があったのですが、それを反故にして二人は同じ車にのって笛を吹きながら左大臣家に帰ったのでした。ここはいかにも若者らしい感じですね。因みに、頭の中将は左大臣家の息子、源氏は婿ですから一緒に家に帰ったということになります。
 この日の後、ふたりとも妄想を膨らませ、姫君は、彼らの中で、どんどん魅力的な女性になって行きます。そして競って末摘花に手紙を出しますが、どちらへも返事は来ません。あのようなわびしい暮らしをしている人なら、普通以上にものの情趣をお感じになるはずなのに、恋文に心動かさず無視するなんてひどい、引っ込み思案にもほどがあると二人共思います。ことに頭の中将のほうは源氏以上に苛立ったのでした。その部分を少しだけ読みましょう。

  君たちは、ありつる琴の音をおぼしいでて、あはれなりつる住まひのさまなども、やうかへてをかしう思ひつづけ、(略)そののち、こなたかなたより文などやりたまふべし。いづれも返りこと見えず、おぼつかなく心やましきに、あまりうたてもあるかな、さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたるけしき、はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、心ばせおしはからるるをりをりあらむこそあはれなるべけれ、重しとても、いとかうあまりうもれたらむは、心づきなくわるびたりと、中将はまいて心いられしけり。例の隔てきこえたまはぬ心にて、「しかしかの返りことは見たまふや。こころみにかすめたりしこそ、はしたなくて止みにしか」

 ここにあるように、あけっぴろげな性格の頭の中将は、率直に、「自分は姫君に手紙を出してみたけれど返事が来ないのだけれど、君の方には返事があったかね」と源氏に聞いています。中将にくらべるとちょっと人の悪い源氏は心の内でやはりこいつも口説いているんだなと思ってにやにやして「さあどうだったかな。気にしてないから」などとごまかすので、中将は自分には返事が来ないが、むこうには来ているのだなと思いこみます。源氏の方は返事のないことに腹を立てながらも、頭の中将に負けてたまるかという競争心も募って、命婦に、真剣に恋心を訴え、なんとかしてほしいと頼むのでした。
 しかし命婦は「姫君は本当に内気な恥ずかしがりやで、風流なお話などはなかなかおできにならないし、お相手としては不似合いな方だと思いますよ」などと言ってとりついではくれません。その後、藤壺との密通事件があったり、自身が体調を崩したりしてしばらくはこの姫君のことを忘れたようになっていました。やがて季節は移って秋になり、源氏は再びその姫君のことを思い出して、手紙を出してみるのですが相変わらずお返事はありません。しびれを切らして命婦にあらためてまた、何とかせよとせっついたのでした。
さあこの続きは次回といたしましょう。










文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回、通り過ぎた女君たち第四章其の五 二 「君がしじま花」2025年10月23日配信です。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗