十、木綿鬘(ゆふかづら)

若菜上・下

木綿鬘

 女三宮の御降嫁の翌年の春、明石姫と春宮の間に御子が誕生しました。姫はまだ13歳という若さなので、周囲はたいそう心配していましたから、無事出産の知らせに一同胸を撫でおろしたのでした。生まれたのは男の子、やがては帝の位を継ぐであろう皇子の誕生ということになりますから、源氏の君の喜びもひとしおです。原文で読みましょう。大殿が源氏の君、対の上が紫の上です。

  弥生の十余日のほどに、たひらかに生まれたまひぬ。かねてはおどろおどろしくおぼし騒ぎしかど、いたくなやみたまふことなくて、男御子にさへおはすれば、限りなくおぼすさまにて、大殿も御心おちゐたまひぬ。(略)対の上もわたりたまへり。白き御装束したまひて、人の親めきて、若宮をつと抱きてゐたまへるさま、いとをかし。みづからかかること知りたまはず、人の上にても見ならひたまはねば、いとめづらかにうつくしと思ひきこえたまへり。むつかしげにおはするほどを、絶えず抱きとりたまへば、まことの祖母君は、ただまかせたてまつりて、御湯殿のあつかひなどをつかうまつりたまふ。

 紫の上が白いお召し物であったことが書かれていますが、当時は産室の調度はすべて白、産婦もお世話する者もみな身に着けるものは産後九夜まで白とする風習がありました。
 ここに書かれているように、紫の上は大喜びでまるで本当の自分の孫であるかのように、若君を抱いて離しません。実の祖母である明石君は、赤ん坊を紫の上に任せて、自分は産湯をつかう手伝いだけをしたとあります。明石の君の一歩下がって目立たぬようにふるまう態度は周囲のだれもが褒めたのでした。そして紫の上も、この可愛い若宮と関わる中で明石の君に一層の親愛の情を持つようになったのでした。原文です。御方が明石の君です。

  御方の御心おきての、らうらうじく気高く、おほどかなるものの、さるべきかたには卑下して、憎らかにもうけばらぬなどを、ほめぬ人なし。対の上は、まほならねど、見えかはしたまひて、さばかりゆるしなくおぼしたりしかど、今は宮の御徳に、いとむつましくやむごとなくおぼしなりにたり。児うつくしみたまふ御心にて、天児など、御手づから作りそそくりおはするもいと若々し。明け暮れこの御かしづきにて過ぐしたまふ。

 紫の上は天児(これはお人形のことです)を手作りしたりもして、若宮のお世話に明け暮れる日々を過ごしたのでした。
それから5年の歳月が流れ、冷泉帝は在位18年にして退位されることになりました。それに伴って、明石姫、(今は明石女御と呼びましょう)その明石女御の子、紫の上が抱きまわしていたその子が春宮の位につきました。まだ6歳です。源氏にとっては、孫が次の帝になることが確実になったというわけです。源氏の君は46歳、紫の上も38歳になっています。女三宮の御降嫁から6年が過ぎましたが、それなりに六条院は安定していて、紫の上の地位が危ぶまれるようなことは起こっていません。それでも紫の上は漠然とした不安を抱えています。そんな不安から逃れたくて出家を考えるようになったのでした。原文です。
姫宮とあるのが女三宮です。

  姫宮の御ことは、帝、御心とどめて思ひきこえたまふ。おほかたの世にも、あまねくもてかしづかれたまふを、対の上の御勢には、えまさりたまはず。年月経るままに御仲いとうるはしくむつびきこえかはしたまひて、いささか飽かぬことなく、隔ても見えたまはぬものから、「今は、かう、おほぞうの住ひならで、のどやかに行ひをもとなむ思ふ。この世はかばかりと見果てつる心地する齢にもなりにけり。さりぬべきさまにおぼしゆるしてよ」と、まめやかに聞こえたまふをりをりあるを、「あるまじくつらき御ことなり。みづから、深き本意のあることなれど、とまりてさうざうしくおぼえたまひ、ある世に変わらむ御ありさまの、うしろめたさによりこそながらふれ。つひにそのこととげなむのちに、ともかくもおぼしなれ」などのみ、さまたげきこえたまふ。

 このことは言い出しにくくて、長い間心のうちに留めていたのですが、ある日意を決して願いを口にしました。けれども源氏は「とんでもないこと」と取り合おうとはしません。「自分の方こそ出家したいという思いを長年かかえているのだけれど、あなたが後に残って色々辛い思いをなさるだろうと我慢しているのです。いつか、私が出家したならその後であなたもそういうことをお考えになったら良いでしょう」という返事でした。このあともなんどかこの願いを口にしますが、結局ゆるしてはもらえなかったのです。
この年の10月末、源氏は住吉詣でを思い立ちます。 明石女御の皇子が、次代の帝となることが確実となったことから、願果たしのお礼と明石女御の将来の幸運を祈願するためのものでした。この住吉参詣に、源氏の君は、紫の上も連れて行くことにしました。これまで京の外に出たことの無い紫の上にとっては生まれて初めての経験です。もちろん海を見るのも生まれても初めてです。その時のことを少しだけ原文で読みましょう。

  夜一夜遊び明かしたまふ。二十日の月はるかに澄みて、海の面おもしろく見えわたるに、霜のいとこちたく置きて、松原も色まがひて、よろづのことそぞろ寒く、おもしろさもあはれさも立ち添ひたり。対の上、常の垣根のうちながら、時々につけてこそ、興ある朝夕の遊びに、耳古り目馴れたまひけれ、御門より外の物見、をさをさしたまはず、ましてかく都のほかのありきは、まだならひたまはねば、めづらしくをかしくおぼさる。
 (紫の上)住の江の松に夜ぶかく置く霜は
        神のかけたる木綿鬘かも


 紫の上の詠んだ歌は「住吉の松に夜明け前に置いた霜は神様のお掛けになった木綿鬘でしょうか」という意味で木綿鬘とは楮(こうぞ)の皮の繊維から作った白い糸状のもので作った鬘、神事に際して神主などが頭につけたものです。この住吉への旅は紫の上にとって日ごろの様々なことを忘れさせてくれる素晴らしい気分転換の機会だったことでしょう。
 その同じ年、帝になった女三宮の兄(腹違いですが)が、父の朱雀院の意を汲んで、女三宮の親王としての位を上げるという出来事がありました。源氏は帝や院への心遣いから、女三宮を大切にしている形を示さなければなりません。そういうわけで、源氏の君は、心ならずも、紫の上に寂しい思いをさせてしまうる夜が増えたのでした。原文で読みましょう。

(女三宮)二品になりたまひて御封などまさる。いよいよはなやかに御勢添ふ。対の上、かく年月に添へて、かたがたにまさりたまふ御おぼえにわが身はただ一所の御もてなしに、人には劣らねど、あまり年積もりなば、その御心ばへも、つひにおとろへなむ、さらむ世を見果てぬさきに、心と背きにしがなと、たゆみなくおぼしわたれど、さかしきやうにやおぼさむとつつまれて、はかばかしくもえ聞こえたまはず。内裏の帝さへ御心寄せ、ことに聞こえたまへば、おろかに聞かれたてまつらむもいとほしくて、わたりたまふこと、やうやうひとしきやうになりゆく。さるべきこと、ことわりとは思ひながら、さればよとのみ、やすからずおぼされけれどなほ、つれなく同じさまにて過ぐしたまふ。春宮の御さしつぎの女一の宮をこなたに取り分きてかしづきたてまつりたまふ。その御あつかひになむ、つれづれなる御夜がれのほどもなぐさめたまひける。

 次第に勢力を増す女三宮のありようを当然のことと思い、これ以上みじめな思いをする前に何とか出家させてほしいと思うのですが、強くそれを言うことも遠慮されます。源氏の君不在の夜夜は、手元で育てている、明石女御の産んだ女の子の相手をして不安を紛らわせるのでした。
 この頃、源氏は朱雀院が女三の宮に会いたがっておいでと聞いて、ちょうど翌年が院の五十の賀にあたることから、そのお祝いに女三の宮を参上させ、その折に、宮の琴の琴の腕前を披露させて院を喜ばせようという構想を立てました。祝賀の会を春にと予定し、冬の日々、毎晩毎晩源氏の君は宮の元へ出かけて琴を教えます。それを伝え聞いて明石女御は羨ましがり、紫の上も宮の琴を聴かせてほしいと源氏の君に頼みます。そこで、源氏は院の賀の前に六条院で女楽の夕べを持つことを計画したのでした。その華やかな音楽会の話は次回に回しましょう。










文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回第十一回 「琴の音」 2022年7月7日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗