予言
数か月経って亡くなった更衣の産んだ御子が参上なさいました。その部分から始めましょう。
月日経て、若宮参りたまひぬ。いとどこの世のものならず、きよらにおよすけたまへれば、いとゆゆしうおぼしたり。明くる年の春、坊さだまりたまふにも、いと引き越さまほしうおぼせど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ、なかなか危くおぼし憚りて、色にもいださせたまはずなりぬるを、さばかりおぼしたれど、限りこそありけれと、世人も聞こえ、女御も御心おちゐたまひぬ。かの御祖母北の方、慰むかたなくおぼし沈みて、おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひたまひししるしにや、つひに亡せたまひぬれば、またこれを悲しびおぼすこと限りなし。御子六つになりたまふ年なれば、このたびはおぼし知りて恋ひ泣きたまふ【引用】
久しぶりに見る御子の圧倒的な美しさに帝は目を瞠る思いでいらっしゃいました。元々美しい御子ではありましたが、ますますその輝くような美しさは増して、この世のものとも思えぬほどであったとあります。御子のあまりの美しさにこの子は早死にするのではないかと不吉なものさえお感じになったとあります。
翌年春宮をお決めになるにあたって、帝はこの最愛の御子を春宮にしたいと心の中ではお思いになられたのですが、後ろ盾のないこの御子にその位を与えることに危険なものをお感じになって、第一御子を春宮とされたのでした。
御子が六歳になられる年に更衣の母、御子のおばあ様が亡くなりました。母更衣が亡くなった時はまだ幼くて死の意味も分からなかったのですが、今度はそれがわかって、恋しがって泣きなさったとあります。おばあさまが亡くなったあとは、御子は宮中でずっと暮らすことになりました。
七つになって、ふみ始めの儀式が行われて、漢学の勉強が始まりました。そうすると、この御子は驚くほど聡くて、また、音楽を習わせるとその方面でも素晴らしい才能を発揮なさって、なにもかもにおいて、並みの子供とは比べ物にならない優れた資質を備えておられたのです。
帝はわが子ながらその優秀さと美しさに感嘆すると同時に、この子の将来について不安もお感じになって、ある時高麗から来た有名な人相見にこの御子を見せました。
その部分を原文でご紹介しましょう。途中を少し省略しています。
相人おどろきて、あまたたび傾きあやしぶ。『国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。おほやけのかためとなりて、天下を輔くるかたにて見れば、またその相たがふべし』と言ふ。(略)帝かしこき御心に倭相をおほせて、おぼしよりにける筋なれば、今までこの君を、親王にもなさせたまはざりけるを、相人はまことにかしこかりけり、とおぼして、無品の親王の外戚の寄せなきにてはただよはさじ、わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめることとおぼし定めて、いよいよ道々の才をならはさせたまふ。きはことにかしこくて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王となりたまひなば、世の疑い負ひぬべくものしたまへば、宿曜のかしこき道の人に勘へさせたまふにも、同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべくおぼしおきてたり【引用】
この部分からわかりますように、帝は高麗の人相見に見せる前にすでに一度倭相、日本流の人相見にもみせていたのですね。そして、高麗の人相見の不思議な予言、この子は帝王になる相であるが、帝王になると、世が乱れる、かといって臣下として帝王に仕える方でもないが納得できない帝はさらに宿曜の占い人、星占いのようなものですかね、にこの御子の将来を占わせたのですが、高麗の人相見と同じ結果でした。帝はこの御子の将来を三回にわたって占わせたことになるわけですが、この三回というのは、占いの内容が困惑を招くものではありながら、信憑性のあるものと考えざるを得ないということを意味する回数でしょう。
帝王でもなければ臣下でもない・・・・・帝は、とりあえず世の乱れにつながると言う道、つまりこの御子が帝の位に着くという可能性を零にしようとお考えになり、源氏という姓を与えて、臣下の籍に下されたのでした。これによって、後ろ盾のないこの御子が、優秀であるがゆえに第一御子の存在を脅かすものと見なされて、抹殺されたりする心配はなくなりました。その一方でこの御子、光源氏は帝王の位に着く権利を奪われたということにもなります。
ここで少し付け加えますと、今でも皇族の方は姓、苗字というものはお持ちではありません。何々の宮何々様とお呼びしますよね。源氏物語でも、当然のことながら、帝はじめ皇族に属する方々には姓がありません。源という姓をこの御子が与えられたということは即ち皇族ではなくなったということを意味するわけです。
ところでそんな日々の中でも、帝の更衣を失った悲しみは深く、鬱々とした日々をお過ごしだったのですが、ある時、桐壺更衣にそっくりという女御が入内し、帝の憂悶はあきれるほど簡単に晴れるのです。身分も、先帝の娘ということで申し分ありません。
藤壺の出現です。年若いこの女御は御子光源氏と5歳しか年の違わない、まだ13ー4歳の方です。母親の顔も覚えていない御子は、この、母親そっくりと言われる若く美しい義理の母に実の母の面影を重ねて慕い寄るのでした。
原文をご紹介しましょう。
母御息所も、影だにおぼえたまはぬを、いとよう似たまへりと、典侍の聞こえけるを、若き御ここちにいとあはれと思ひきこえたまひて、常に参らまほしく、なづさひ見たてまつらばやとおぼえたまふ。上も限りなき御思ひどちにて、『な疎みたまひそ。あやしくよそへきこえつべきここちなむする。なめしとおぼさで、らうたくしたまへ。つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見えたまふも、似げなからずなむ『など聞こえつけたまへれば、をさなごこちにも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる』【引用】
父帝は亡き更衣の面影を宿すこの女御、藤壺に向かってこの子は本当にあなたにそっくりだ。実の親子といっても通るくらいだ。無礼な奴と思わずかわいがってやっておくれとおっしゃるのでした。御子は藤壺の女御を恋い慕って、きれいな花や紅葉などにかこつけてお側に近づこうとなさるのでした。こうして、物語で重大な意味を持つ、藤壺と光源氏の関係が始まったのです。
世の人は、この帝の御寵愛深き麗しきお二人をそれぞれ、輝く日の宮、光君と讃えてやまなかったとあります。光源氏という呼び方はここに由来するものです。
この光源氏の母恋がやがてほんものの恋心に変わって行くのは時間の問題でした。
数年後、十二歳で源氏の君は元服します。そうするとこれまでのように父帝にくっついて藤壺の女御の部屋を訪れたりすることはできなくなりました。
次回は光源氏が元服を迎える所からになります。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
次回「みづら」2021年3月5日配信
YouTube動画中の「源氏物語絵巻」につきまして。パブリックドメインとするニューヨーク公立図書館デジタルコレクションより引用しています🔗