一、中川の宿

空蝉1 「中川の宿」

 

 源氏物語には、はっきりと「美人ではない」と書かれている女性が三人あります。その中の一人が空蝉です。源氏物語に登場する多くの女性たちのうちでもとりわけ地味で、華やかさに欠けるのがこの空蝉なのですが、なぜか光源氏の恋物語の一番目(義母藤壺への思慕は別として)に登場するのがこの人なのです。
 源氏物語は御存じのように桐壺の巻から始まり、この巻には光源氏が生まれ、元服し結婚するまでが書かれています。その次の帚木の巻、光源氏17歳の頃ですが、そのほとんどを占めているのはいわゆる「雨夜の品定め」で宮中に宿直する光源氏のところに集まった三人の若者がそれぞれの経験を実例として挙げながら、女性論を戦わせるという内容になっています。若者たちが集まって、いかにも知ったかぶりで女性談義をするなんていうのは今でもありそうですね。メンバーは頭中将、馬の頭、藤式部の丞です。
 頭の中将が、中の品つまり中流階級の女、それも、もともとは高貴な身分ながら今では没落して、親もなく市井に埋没しているといったような女に思いのほか良い女がいるものだという持論を展開し、馬頭が、妻とするには、容貌・身分などにはよらず、性格のよい、誠実で落ち着いた女性であることが大切だと締めくくっています。
 同年代や少し年上の友人たちの話を聞いて、光源氏は、これまで接触したことのない中の品の女性への興味を大いにかき立てられます。この時期、彼の周りにいる女性は、妻葵の上にしろ、憧れの人藤壺にしろ、また関係のあるらしい六条御息所にせよ、いずれも、皇族の血をひくような非常に高貴な身分の方々ばかりです。
 葎の宿に棲む思いがけない美女、親が亡くなって、零落し、経済的に窮迫しているが高貴な雰囲気を残す女性・・・・この一夜は、彼の裡に、いまだ関係をもったことない、そういった女性たちに接近したいという思いを募らせることになりました。この頃、光源氏は、元服して葵の上という左大臣の娘を正妻としていますが、これは十二歳で元服と同時に与えられた年上の妻です。端正で冷たい感じのする妻には余り親しめず、心は、義理の母、藤壺へのかなわぬ恋の思いに占められていたのが当時の彼です。まだ若紫とは出会っていません。
この品定めの夜の翌日、源氏は久々に正妻葵上のいる左大臣邸に退出しましたが、こちらが方塞がりであることを女房に指摘され、方違えにでかけることになります。おっくうがる源氏に、臣下が、中川にある紀伊の守の家が遣り水を配して涼しいと勧め、そこに泊まりに行くことになります。原文で読みましょう。

 「紀伊の守にて親しくつかうまつる人の中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しきかげにはべる」と聞こゆ。「いとよかなり。なやましきに、牛ながら、ひき入れつべからむ所を」とのたまふ。(略)紀伊の守に仰せ事賜へば、うけたまはりながら、しりぞきて、「伊予の守の朝臣の家につつしむことはべりて、女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」と、下に嘆くを聞きたまひて、「その人近からむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝はもの恐ろしきここちすべきを、ただその几帳のうしろに」とのたまへば、「げによろしき御座所にも」とて、人走らせやる。

 この邸の場所、中川は今で言えば、寺町の今出川下がったあたりかと思われます。紫式部の実家のあった、今の盧山寺あたりを想定しているのではないでしょうか。紀伊の守は、狭い屋敷でしかも今は父の家の女たちが滞在中で失礼なこともあるかもしれないからと辞退するのですが、源氏は女が近くにいるのは嬉しいと、迷惑がる紀伊の守を無視してお供を数人連れて出かけたのでした。紀伊の守はやってきた一行をもてなすのにおおわらわです。供人たちは泉を囲んでお酒を飲んでいます。少し原文を読みましょう。

 「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ばへなど、さるかたにをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。人々、渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒飲む。主人もさかな求むと、こゆるぎの急ぎありくほど、君はのどやかにながめたまひて、かの中の品に取り出でて言ひし、このなみならむかしとおぼしいづ。

 その夜、紀伊の守と色々話すうちに、源氏は、その邸に、以前、噂に聞いたことのある、紀伊の守の父の後妻、つまり紀伊の守の義理の母が滞在中であることを知ります。源氏は「これこそ中の品の女性」と興味を持ちます。その女性は、今でこそ、受領の妻という身分ですが、彼女の父親の在世中には、桐壺帝に入内を予定されていたほどの女性なのです。まさに頭中将の言う「良い女」の条件にぴったりあてはまるではありませんか。源氏がこのチャンスを逃すはずはありません。源氏は、床についてから、その女性の寝室の場所を伺い、何とか接近しようとします。そのあたりから読みましょう。

  君はとけても寝られたまはず、いたづら臥しとおぼさるるに、御目さめて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、こなたや、かくいふ人の隠れたるかたならむ、あはれや、と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」と、かれたる声のをかしきにて言へば、「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されどけどほかりけり」と言ふ。(略)女君はただこの障子口すぢかひたるほどにぞ臥したるべき。

 眠れぬままに様子を伺う源氏の耳に先ほど見かけた男の子の声が聞こえてきます。お目当ての女君の弟です。話しかけた弟に返事する声はすぐ近くの襖の向こうから聞こえるではありませんか。しめた!とばかりに源氏は皆が寝静まるのを待って襖の掛け金をはずして隣の部屋に忍び込み、女君を探し当てて、そのまま抱き上げて自分の部屋に運んだのでした。女君は動顛して息も絶え絶えの様子です。何か怪しいものに襲われたかと思うのですが、源氏の君の漂わせている、いかにも高貴なお方らしい気配に呑まれて、「人違いではございませんか」と言うのが精一杯でした。部屋に連れ込んでから、源氏はあなたのことを以前からずっとお慕い申していたのだといつものように嘘八百を並べ立て、甘い言葉をかけるのですが、女君は突然のことに驚きつつも、身分が低いからと侮られているのかと傷つきもし、源氏を許そうとはしません。情の強い女だと思われてもかまわないとつれない態度を貫こうとするのでした。源氏もさすがに心苦しくは思うのですが、かといってこのままにするわけにはゆきません。原文です。

  まめだちて、よろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければ、すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さるかたのいふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人がらのたをやぎたるに、強き心をしひて加へたればなよ竹のここちして、さすがに折るべくもあらず。まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、いふかたなしと思ひて泣くさまなど、いとあはれなり。心苦しくはあれど、見ざらましかばくちをしからまし、とおぼす。

 情のない女だと思われても構わないと拒み続ける、ここには、身分の違いや自らの境遇を意識して心を閉ざす女君(空蝉と呼ばれる女性です)が描かれています。相手が源氏とわかっても、最後まで心を開くことはなかったのでした。どんな女性も自分になびくと思っている源氏にとっては、衝撃的な、また、癪に障る結果でした。それだけに恋着してしまうそんな対象として描かれています。「せめて、今のような、受領の後妻などになる前、父親の生きている時にめぐりあいたかった。」と源氏に向かって訴え、抗議するのが精一杯の空蝉でした。別れ際に女君のつれない態度を恨んで涙を流す源氏の君の、美しく優雅な姿に、空蝉は、あまりにも不似合いな自分の姿がはづかしく、さらに辛くなるのでした。
 最後まで靡こうとしなかった空蝉に未練を残して帰った源氏は、何とかして彼女との関係を続けたいと思い、彼女と面ざしの似る弟(小君と呼ばれています)を呼び寄せて身近に使う者とします。そして、やってきた小君にあれこれ姉君のことを尋ね、手紙を託したのでした。姉とはかなり年が離れているらしくこの子はまだ幼くて姉の気持ちなど全くわかっていません。ただ、うっとりするほど素晴らしい源氏の君に召されることが嬉しくてならず、何とかしてお心に叶いたいと思っています。ところが姉に源氏の君の手紙を届けると「そんな人はいないと言いなさい。もう源氏の君の所に行ってはいけません」と叱られてしまします。そう言われても、すっかり源氏の君の魅力の虜となっている小君は姉の言うことなど聞く耳を持たないのでした。さあ今日はここまでです。









文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


第四章「通り過ぎた女君たち」 朗読コンテンツは2024年8月8日~第2・4木曜日配信いたします。
次回 二「帚木」は2024年8月22日に配信いたします。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗