朱雀院一、疑ひなき儲けの君

桐壺、花宴、賢木

第3章 脇役に徹した男朱雀院 其の一「疑ひなき儲けの君」


 光源氏をとりまく脇役の男たちを見てきました。今回は光源氏の腹違いの兄朱雀院を取り上げてみました。そもそも脇役とは何でしょうか。主役ではない。あくまでも主役の引き立て役です。今回とり上げた人物朱雀院は、帝であることを除けば、普通の人です。その彼を引き合いに出すことによって、彼のもちあわせない美質を源氏がすべて備えていることが強く印象づけられるのです。いかにも凡庸な彼には脇役として、光源氏という主役に陰影をつける役割が与えられているのです。
 ところで、朱雀院という呼び名ですが、もともと朱雀院というのは建物の名前で、朱雀通りに面していたことからこの名がついているわけですが、引退した天皇つまり上皇の住むところです。天皇・帝といっても同じですが、その在位中には呼び名がありません。朱雀院という呼び名も便宜上つけられたものです。
 朱雀院は、桐壺帝と、右大臣の娘の弘徽殿の女御との間に生まれた一の皇子で、誰疑うことのない皇位継承者であり、輝かしい存在でした。ところが三歳の時に、光源氏が誕生し、とたんに彼の存在は影が薄くなったのでした。原文で読みましょう。

  さきの世にも、御契りや深かりけむ、世になくきよらなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなるちごの御容貌なり。一の御子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲けの君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。(略)坊にもようせずは、この御子の居たまふべきなめりと、一の御子の女御はおぼし疑へり。


 父桐壺帝の愛情はもっぱら、この上なく美しい息子光源氏に注がれて、朱雀は顧みられることがなかったのでした。そのため、母弘徽殿女御は東宮の位を源氏に奪われるのではないかと懼れたとあります。とは言え、有力な母方の後見もあり、一の御子であるという点は、揺るぎません。七歳で東宮となり、その後二四歳で即位するまで、宮中の催しなどでは桐壺帝の傍らに座を占めたのでした。一方の光源氏は、政争に巻き込まれることを危惧した桐壺帝の判断で臣籍に降下させられました。身分上ははっきり朱雀の方が上ということになりました。そうして歳月は流れ、朱雀も源氏も少年から青年へと成長しました。
 さて、桐壺帝は、源氏の母である桐壺更衣を深く愛しましたが、この更衣は源氏三歳の時に亡くなってしまい、その後、更衣に生き写しといわれる藤壺女御が入内し、寵愛を受けることになりました。入内後10年余り過ぎてからこの藤壺に皇子が生まれ、それを機に桐壺帝は譲位を考えるようになりました。この御子を次の東宮にと思ったわけです。そこで、東宮の後ろ盾として母親の藤壺を皇后の位に着け、源氏を後見役にと心づもりし、翌年の春、桜の花ざかり、二月二〇日(今の暦でいえば三月末から四月の始め)に、帝時代の最後を飾る行事として紫宸殿の左近の桜をめでる宴を催しました。朱雀は東宮として高いところから詩文の披講や舞を見ているわけですが、源氏は臣下の席に着いています。その源氏に朱雀東宮は舞を要求したのでした。断れずに源氏は気の進まぬふうに、少しだけ舞を披露します。一年半ばかり前の紅葉の賀の宴の折りに源氏は青海波を舞い万座の賞賛を浴びました。その時は、ただただ光源氏はその名のままに光輝き、東宮の存在は影が薄かったのです。しかし、今回は違います。やがて帝の位を手にいれるという心の弾みが、源氏への要求という形で現れ、朱雀は東宮としての存在感を示したのでした。原文で読みましょう。


  楽どもなどは、さらにもいはずととのへさせたまへり。やうやう入り日になるほど、春のうぐひすさへづるといふ舞いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀のをり、おぼしいでられて、春宮、かざしたまはせて、切に責めのたまはするに、のがれがたくて、立ちて、のどかに、袖かへすところをひとをれ、けしきばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。

 
 やがて桐壺帝は譲位し、朱雀は帝の位に着きました。二十四歳の時です。代替わりに伴って、斎宮も交代しますが、新しく伊勢の斎宮となったのは六条御息所の娘でした。伊勢へと旅立つ前に斎宮は参内して帝に直接櫛を挿してもらうことになっています。朱雀帝は、この時新斎宮に会ってすっかり心を奪われたのでした。けれども、彼女が京にもどってくるのは、自分の退位の時です。それを思うと思わず涙がこぼれたのでした。そして、彼女が戻って来た時には必ず身近に置きたいものとひそかに思ったのでした。
 

  斎宮は十四にぞなりたまひける。いとうつくしうおはするさまを、うるはしうしたててたてまつりたまへるぞ、いとゆゆしきまで見えたまふを、帝、御心動きて、別れの櫛たてまつるほど、いとあはれにてしほたれさせたまひぬ。


 さて、位を譲った桐壺帝は、その後も桐壺院として発言力を持ち、実質的な権力を握っていましたが、二年後には病の床に臥すことになりました。父を見舞った朱雀帝に桐壺院は二つの事を遺言しました。原文で読みましょう。


  院の御なやみ、神無月になりてはいと重くおはします。世の中に惜しみきこえぬ人なし。内裏にもおぼし嘆きて行幸あり。弱き御ここちにも、春宮の御ことをかへすがへす聞こえさせたまひて、次には大将の御こと、「はべりつる世に変はらず、大小のことを隔てず、何ごとも後見とおぼせ。齢のほどよりは、世をまつりごたむにも、をさをさ憚りあるまじう見たまふる。かならず世の中たもつべき相ある人なり。さるによりて、わづらはしさに、親王にもなさず、ただ人にて、おほやけの御後見をせさせむと思ひたまへりしなり。その心違へさせたまふな」(略)帝もいと悲しとおぼして、さらに違へきこえさすまじきよしをかへすがへす聞こえさせたまふ。


 遺言は、春宮を守り、無事に次の帝として後を継がせるようにという事と、何ごとも光源氏に相談して決めるように、彼の意向を最大限尊重するようにということの二つでした。お前は頼りにならないから、源氏になんでも決めてもらえと言われたも同然で、朱雀のプライドは傷つかなかったのかと心配になるのですが、彼は、源氏が自分より優れた人間であることを率直に認めていたので、素直に父の言葉を受け止めたと思われます。朱雀という人は生まれた時から一の人として育ってきたせいか、競争心や嫉妬心といったものとは無縁です。おっとりしていて、おおらかで、意地悪なところなど全くない何というか善良そのもののようなお方です。ですから、重い病の床にある父親からいわれたことについて、その場では必ずその通りにしようと本当に思って固く誓ったと思います。が、しかし、実際に院が亡くなってしまうと、彼の思い通りには物事は運ばなくなったのでした。そのあたり、また原文を引用しましょう。


  おどろおどろしきさまにもおはしまさで、かくれさせたまひぬ。足を空に思ひまどふ人多かり。御位を去らせたまふといふばかりにこそあれ、世のまつりごとをしづめさせたまへることも、わが御世の同じことにておはしまいつるを、帝はいと若うおはします、祖父大臣、いとど急にさがなくおはして、その御ままになりなむ世を、いかならむと、上達部、殿上人みな思ひ嘆く。


 人々は院亡き後、政治の実権は帝ではなく、その祖父である右大臣が握るのではないかと懼れたとあります。その祖父は「いとど急にさがなくおはして」つまり、「ものごとをじっくり考えたりせず、何でもすぐに結論を出したがるしかも根性の悪い人」だと世間で評価されていたのでした。そして、実際に世の中はそのようになってしまいました。朱雀は帝といいつつ飾り物で、実権はその母弘徽殿女御と祖父右大臣が握ったのでした。





文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


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YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗