通り過ぎた女たちその6 右大臣の娘朧月夜
六「宿の藤波」
奥に引っ込んでいた朧月夜でしたが、源氏に懇願されて、嘆きながら隔ての近くまで来たのでしたね。その後、襖を隔ててしみじみ語り合う間に次第に夜は更けてゆきます。源氏は昔のような不埒な心はないと言いましたが、勿論このまま彼女に逢わずに帰るつもりはありません。かつては賑わっていたこの右大臣家の二条の屋敷も今は人気も少なくひっそり静まり返っています。時の移り変わりも身に染みて源氏は涙を流しています。この時二人を隔てる襖にはしっかり掛け金が掛けてあったのですが、感極まった源氏はもう我慢できなくなって、開けてくれと襖を揺り動かします。原文で読みましょう。
夜いたくふけゆく。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々などあはれに聞こえて、しめじめと人目少なき宮のうちのありさまも、さも移りゆく世かなとおぼし続くるに、平中がまねならねど、まことに涙もろになむ。昔に変はりて、おとなおとなしくは聞こえたまふものから、これをかくてやと、引き動かしたまふ。
年月をなかに隔てて逢坂の
さもせきがたく落つる涙か
源氏が朧月夜に対して詠みかけた歌は、「長い歳月を隔ててやっと逢えたのに、二人の間にこんな関があるなんて辛くて涙がとまりません」というような意味でしょうか。それに対して朧月夜「涙ばかりはとめどもなく流れますがお逢いする道はもう途絶えてしまいました」と返して逢うことを拒むのですが、自分とのことが元で世の騒ぎとなり、源氏の君は須磨に流謫の身となられたのであったと昔の事を思いかえすうちに、今一度くらいはお逢いしても良いのではないかと弱気になったのでした。源氏に歌を返すところから続きを原文で読みましょう。
涙のみせきとめがたき清水にて
ゆき逢ふ道ははやく絶えにき
などかけ離れきこえたまへど、いにしへをおぼし出づるも、誰により、多うはさるいみじきこともありし世の騒ぎぞは、と思ひ出でたまふに、げに今一たびの対面はありもすべかりけりと、おぼし弱るも、(略)来し方をくやしく、公私のことに触れつつ、数もなくおぼし集めて、いといたく過ごしたまひにたれど、昔おぼえたる御対面に、その世のことも遠からぬここちして、え心強くももてなしたまはず。
やがて夜が明けてゆきます。久々に逢ってみると朧月夜は今も変わらず若々しく美しい。嘆きがちな様子がまた一段と魅力的なのです。しみじみいとしくて、源氏は別れて帰る気になれません。昔、右大臣家の藤の宴に招かれて朧月夜がこの家の娘であることを知ったのもちょうど今頃の季節だったというようなことも懐かしく思い出されます。そしてそれから後、二人の間に流れた長い時間のことにも思いを馳せずにはいられません。そう、なんとあれから20年も経っているのです。原文で読みましょう。
なほらうらうじく、若うなつかしくて、一方ならぬ世のつつましさをも、あはれをも思ひ乱れて、嘆きがちにてものしたまふけしきなど、今はじめたらむよりもめづらしくあはれにて、明けゆくけしきもいとくちをしくて、出でたまはむ空もなし。
朝ぼらけのただならぬ空に、百千鳥の声もいとうららかなり。花は皆散り過ぎて、名残かすめる梢の浅緑なる木立、昔藤の宴したまひし、このころのことなりけりかし、とおぼし出づる、年月の積りにけるほども、そのをりのこと、かき続けあはれにおぼさる。
帰りづらいとはいえ明るくなるまでとどまるわけにはゆきません。帰りを急かす供人を呼んで藤の花を折らせ、それに託して朧月夜に歌を詠みかけます。帰らねばと思いながら立ち去ることができないのです。その歌は「沈みしも忘れぬものをこりずまに身も投げつべき宿の藤波」というもので、「かつてあなた故に身を沈めることになったのを忘れはしませんが、また性懲りもなく藤の花(あなた)の美しさに負けて身を投げてしまいそうです」というような意味です。そうして後ろ髪をひかれる思いで、またの逢瀬を約束して帰って行ったのでした。源氏自身も朧月夜もこのようなことは年齢を考えても、また社会的な位置を考えても許されることではないと承知しながらも、また逢いたいという思いなのでした。そしてこの後は、まれにではありますが、無理な算段をして源氏は朧月夜のもとに密かに通ったのでした。そうして6,7年の歳月が流れた後のある日、朧月夜は突然出家してしまいました。前もって何の知らせも無かったことなので、源氏は衝撃をうけたのでした。朧月夜にとっては、朱雀院が出家された時に自分も一緒に出家しようとしたくらいでしたからこの出家はごく自然なことでした。一方、源氏はこのところしばらく朧月夜とは逢っていなかったので驚きました。朧月夜との間に少し距離をおいてしまったのには理由がありました。妻の女三宮が青年柏木と密通事件を起こしたことから、夫を裏切るような行為を疎ましく感じる気持ちが強くなって、朧月夜の心弱さを厭う思いが萌していたのです。とは言え、出家されてしまえばもう二度と逢うことは出来ないわけで、残念でたまりません。原文で読みましょう。
二条の尚侍の君をば、なほ絶えず思ひ出できこえたまへど、かくうしろめたき筋のこと、憂きものにおぼし知りて、かの御心弱さも少し軽く思ひなされたまひけり。つひに御本意のことしたまひてけりと聞きたまひては、いとあはれにくちをしく、御心動きて、まづとぶらひきこえたまふ。今なむとだににほはしたまはざりけるつらさを
浅からず聞こえたまふ。
あまの世をよそに聞かめや須磨の浦に
藻塩垂れしも誰ならなくに
さまざまなる世の定めなさを心に思ひつめて、今まで後れきこえぬるくちをしさを、おぼし捨てつとも、避りがたき御回向のうちにはまづこそはとあはれになむ。
など、多く聞こえたまへり。
すぐにお手紙を出して、事前に何の連絡もなく出家してしまわれたことを恨んだのでした。ここに詠まれている源氏の歌は「あなたが尼になられたことをよそ事とお聞き出来ましょうか。須磨の浦で海士(あま)のような暮らしをした私なのですから」というような意味です。そして自分も以前から出家の願いを持ちながら実行できず先を越されてしまったのは残念ですと言っています。そのお手紙を読んだ朧月夜の心情はなかなか複雑です。人には言えないことだけれど、本当はとっくに出家しているはずなのに、源氏の君に引き留められたために今まで実行できなかったのです。思えば本当に恨めしいことの多かった源氏の君との間であったけれど、こうしてお手紙を差し上げることももうあるまいと朧月夜は心を込めてお返事を書いたのでした。原文です。
とくおぼし立ちにしことなれど、この御さまたげにかかづらひて、人にはしかあらはしたまはぬことなれど、心のうちあはれに、昔よりつらき御契りを、さすがに浅くしもおぼし知られぬなど、かたがたにおぼし出でらる。御返り、今はかくしも通ふまじき御文のとぢめとおぼせば、あはれにて、心とどめて書きたまふ墨つきなど、いとをかし。
この後、源氏は紫の上や花散里に命じて朧月夜の尼装束を用意させ、尼用の屏風などの調度品あれこれも、特別なものを作らせて送ったのでした。朧月夜に寄せる源氏の思いは複雑です。朧月夜にとってはどうでしょう。考えてみればあの春の夜源氏に偶然出会ってしまったために人生が狂いました。本来ならば朱雀帝の女御とも后ともなるはずであったのに、源氏とのことがあったために生涯尚侍という地位にとどまりました。彼女が朱雀の後宮に入る前、葵上が亡くなった時に正妻として迎えることもできたはずなのに、源氏はそうはしませんでした。もしかしたら、秘密の間柄であったことが二人の情熱を燃えさせていたのかもしれませんけれど。
それにしても、やはり、朧月夜との関係でいえば光源氏という男は悪い奴としか思えません。それにひきかえ、あれこれ計算することなく情に流されてしまう朧月夜は可愛い女だと思うのですが。皆さんいかがでしょうか。
ともあれ今回で朧月夜の君とはお別れです。ぞして、源氏の君の愛人であった女性たちを見て来たこのシリーズ「通り過ぎた女君たち」もこれで最終となりました。
また新しいシリーズを楽しみにしていただけたら有難いです。
文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より
次回新シリーズ、第五章(仮題)「源氏の愛人ではなかった女性たち」 2026年5月~配信予定です。
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗