七、煙くらべに

柏木

光源氏に憧れ続けた男 柏木
七、煙くらべに

 

 

 周囲の心配をよそに次第に衰弱して行く柏木。回復の兆しのないままその年は暮れ、新年を迎えました。彼にはもう生きようという意欲がありません。死を目前のことと感じているかれの脳裏に様々な思いが去来します。その心情を原文で読みましょう。

  (柏木の心中)何ごとをも、人に今一際まさらむと、公私のことに触れて、なのめならず思ひ上りしかど、その心かなひがたかりけり(略)誰も千歳の松ならぬ世は、つひにとまるべきにもあらぬを、かく人にもすこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ人あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ、せめてながらへば、おのづからあるまじき名をも立ち、われも人もやすからぬ乱れ出で来るやうもあらむよりは、なめしと心置いたまふらむあたりにも、さりともおぼしゆるいてむかし、よろづのこと、今はのとぢめには、皆消えぬべきわざなり、また異ざまのあやまちしなければ、年ごろもののをりふしごとにはまつはしならひたまひしかたのあはれも出で来なむ、などつれづれに思ひ続くるも、うち返しいとあぢきなし。

 「自分は人より優った存在だと気位高く過ごしてきたけれど、結局何もかもうまく行かなかった。いずれ死ぬべきものなのだから、今、まだ人があわれと偲んでくれる間に、死んでしまおう。生きながらえて宮にとっても自分にとっても煩わしく不名誉なことが
起こるよりは・・・・。失礼な奴とお怒りの源氏の君も私が死んでしまえばお許し下さるだろう。以前私を可愛がってくださったお気持ちを思い出して下さるだろう。」と思ったのでした。そして周りに人のいない隙に宮にあてた手紙を綴って小侍従を呼び寄せて手紙を託したのでした。宮に宛てた手紙を原文で読みましょう。

  今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから聞こしめすやうもはべらむを、いかがなりぬるとだに、御耳とどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いと憂くもはべるかな。
など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふことも皆書きさして、
       今はとて燃えむ煙もむすぼほれ
          絶えぬ思ひのなほや残らむ
あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇にまどはむ道の光にもしはべらむ。
  と聞こえたまふ。

 「もう私は命尽きようとしています。あなたへの思いで私を荼毘にふした煙もこの世にくすぶりつづけるでしょう。せめて私に『あわれ』の一言をおっしゃって下さい。それをあの世への道しるべの光といたしましょう。」などと書かれています。はじめは女三宮は柏木からの手紙を見ようともしないのですが、小侍従が「もうこれが最後のお手紙かもしれません。もう今日か明日かと言うような弱り方でいらっしゃいます」と硯を用意して、無理にもお返事を書かせます。宮からのお手紙も原文で読みましょう。

   心苦しう聞きながら、いかでかは。ただおしはかり。「残らむ」とあるは、
立ち添ひて消えやしなまし憂きことを
         思ひ乱るる煙くらべに
  後るべうやは。
とばかりあるを、あはれにかたじけなしと思ふ。

 その手紙を小侍従は走って届けます。宮からの手紙には「私も一緒に煙となって消えてしまいたい思いです。あなたの煙に負けはしません」というようなことが書かれていました。それを読んだ柏木は「いでや、この煙ばかりこそは、この世の思ひ出でならめ。はかなくもありけるかな」と涙を流して、小侍従を待たせて、最後の手紙を託したのでした。この夜宮は産気づいて、翌日男の子が生まれました。薫です。そしてその後、宮は源氏の反対を押し切って髪を下してしまいます。宮が出産の後すっかり弱っていると聞いて心配でたまらなくなって急にやってきた父朱雀院に頼み込んで断行した出家でした。そのことを耳にした柏木は一層力を落として、重態に陥ります。原文で読みましょう。女宮、宮とあるのはここでは女三宮ではなく、女二宮のことです。

  かの衛門の督は、かかる御ことを聞きたまふに、いとど消え入るやうにしたまひて、むげに頼むかた少なうなりたまひにたり。女宮のあはれにおぼえたまへば、(略)「かの宮に、とかくして今一度まうでむ」とのたまふを、さらにゆるしきこえたまはず。誰にもこの宮の御ことを聞こえつけたまふ。

 自分の命が残りわずかであると思えば、妻二の宮のことが気掛かりになります。十分に愛してやることが出来なかったとうい悔い。死ぬ前にもう一度妻に会いたいと思うのですが、両親はゆるしません。仕方なく見舞いに来る人ごとにあとに残る妻の事を頼んだとあります。
この頃、帝も柏木の病気を心配して、特別に加階して権大納言の位を授けています。その祝いもかねて、夕霧が柏木を見舞います。柏木は、やせてはいるけれども、病人にありがちなむさくるしさはなく、色白で上品な姿はかわりません。けれども、もう枕から頭をもたげるのもやっとというような状態です。夕霧の受けた衝撃と悲しみは一通りではありません。原文で読みましょう。

  早うより、いささか隔てたまふことなうむつびかはしたまふ御仲なれば、別れむことの悲しう恋しかるべき嘆き、親兄弟の御思ひにも劣らず。(略)几帳のつま引き上げたまへれば、「いとくちをしう、その人にもあらずなりにてはべりや」とて、烏帽子ばかりおし入れて、すこし起き上がらむとしたまへど、いと苦しげなり。(略)重くわづらひたる人は、おのづから髪髭も乱れ、ものむつかしきけはひも添ふわざなるを、痩せさらぼひたるしも、いよいよ白うあてなるさまして、枕をそばたてて、ものなど聞こえたまふけはひ、いと弱げに息も絶えつつ、あはれげなり。

 そして柏木は夕霧にふたつのことを遺言として伝えます。少し長くなりますが原文で読みましょう。一つは源氏の君の自分に対するお怒りと御不快を解いてほしいということでした。

 (柏木)「かかる今はのきざみにて、何かは漏らすべきと思ひはべれど、なほ忍びがたきことを、誰にかは愁へはべらむ。・・・六条の院にいささかなることの違いめありて、月ごろ、心のうちにかしこまり申すことなむはべりしを、(略)召しありて、院の御賀の楽所のこころみの日参りて、御けしきを賜りしに、なほ許されぬ御心ばへあるさまに、御目尻を見たてまつりはべりて、いとど世にながらへむことも憚り多うおぼえなりはべりて、あぢきなう思うたまへしに、心の騒ぎそめて、かくしづまらずなりぬるになむ。人数にはおぼし入れざりけめど、いはけなうはべし時より、深く頼み申す心のはべりしを、いかなる讒言などのありけるにかと、これなむ、この世の愁へにて残りはべるべければ、(略)ことのついではべらば、御耳とどめて、よろしうあきらめ申させたまへ。亡からむうしろにも、この勘事許されたらむなむ、御徳にはべるべき」

 御賀の試楽の日に源氏の君に一睨みされて以来この世に生きていることが憚られるような気持ちになってしまったと訴えています。自分は幼い時から源氏の君をお頼みし心から尊敬していたのにこんなことになって本当につらいのでどうかよろしくとりなしてもらいたいと訴えています。そしてもうひとつは妻の女二宮、落葉の宮と呼ばれている方のことでした。十分にはお世話できぬままに、後に残すこの方の面倒を見てくれるようにと頼んだのでした。
 このことを話し終えると柏木はもう言葉も途切れ、夕霧に立ち去るようにと手で示しそのまま危篤状態となったのでした。夕霧が泣く泣くその場を去ったあと、間もなく柏木は息を引き取ったのでした。原文です。



 (周囲は)よろづに思ひ嘆きたまひて、御祈りなど取り分きてせさせたまひけれど、やむ薬ならねばかひなきわざになむありける。女宮(落葉宮)にもつひにえ対面しきこえたまはで、泡の消え入るやうにて亡せたまひぬ。

 母や父致仕太政大臣や兄弟姉妹たちや、一家にお仕えする人々が悲嘆にくれたことはいうまでもなく、知らせを聞いた落葉の宮やその母も嘆きの渦に沈んだのでした。女三宮も知らせを聞けば胸に迫る思いがして、ひそかに涙を流したのでした。こうして人々に惜しまれながら柏木は世を去ってしまいました。次回はその後のお話となります。














文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回第八話「笛の音」  2023年5月18日配信
YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗