十四、薄墨桜

薄雲

薄墨桜

 京に明石母子を迎え、姫を明石君から引き離して手元に引き取ることで、目標に向けて、ひとつステップを上がった源氏の君ですが、その翌年は、彼にとって非常に大きな出来事が起こる年となりました。
 まず、年の始めには、葵上の父太政大臣(元左大臣)が世を去りました。政界の中心であり、世の重鎮であった方なので、人々が、その死を惜しみ悲しむこと並々ではありません。そして、源氏にとっては、亡き妻葵上の父であるこの舅は、他の誰よりも頼りになる、どのような時も自分を支えてくれる大切な方でした。
 そのような不幸に始まって、疫病が流行ったり、またいつもとは違った日や月や星の光が見えるなど、年初めから異常な天文現象が続き、世の人が不安に思ったとあります。
 さらに三月には、以前から不調であった藤壺の宮がとうとう亡くなります。37歳という若さでした。病篤しと聞いて見舞った源氏が話しかけるうちに、そのまま息を引き取ってしまわれたのでした。その最期の場面を読みましょう。源氏の君が藤壺の宮に几帳越しに語りかけています。

  「太政大臣のかくれたまひぬるをだに、世の中心あわたたしく思ひたまへらるるに、またかくおはしませば、よろづに心乱れはべりて、世にはべらむことも残りなきここちなむしはべる」と聞こえたまふほどに、燈などの消え入るやうにて果てたまひぬれば、いふかひなく悲しきことをおぼし嘆く。(略)をさめたてまつるにも、世の中響きて、悲しと思はぬ人なし。殿上人など、なべてひとつ色に黒みわたりて、ものの栄えなき春の暮れなり。二条の院の御前の桜を御覧じても、花の宴のをりなどおぼし出づ。「今年ばかりは」とひとりごちたまひて、人の見とがめつべければ、御念誦堂に籠りゐたまひて、日一日泣き暮らしたまふ。

 源氏は、今年だけは桜も墨染に咲いてほしいと呟き、一人念誦堂に籠って泣いています。あまりにも激しい悲しみようを人が不審に思うのではないかと心配して念誦堂に隠れて泣き暮らしたのでした。太政大臣に引き続いて、これもまた、人々に慕われていた藤壺の宮が亡くなり、源氏の君のみならず、世の人々は皆一様に暗い気持ちで春を過ごしたのでした。年若い帝も母を亡くしてたいそうお悲しみで、その悲しみに寄り添い、お慰めすることがまた、源氏の心を藤壺の宮への切ない思いで溢れかえらせるのでした。

 そして、この藤壺の宮の死去に伴って重大な出来事がありました。一人の年老いた僧が、帝に出生の秘密を密奏したのです。この僧は藤壺の宮にお仕えしていた僧でしたが、四十九日の法要が終わった後も、邪悪なものから帝の身を守る役を仰せつかって夜居の僧として、そのままお側に仕えておりました。
 夜居の僧というのは、主人がお休みになっている間、近くに控えて、一晩中加持を行って、その身をおまもりするのが役目です。従って御主人の身に夜の間に起こったことは知っているわけです。ただ、本来それは決して口外されることはありません。けれどもこの時、彼はは命がけで奏上したのでした。冷泉帝が帝の位に即いたのは、三年前、まだ十一歳のときでした。今では十四歳になっておられて、当時の感覚ではもう一人前の大人です。様々な異変は、そうして今や大人となっている帝が、真実を知らぬまま、父親を臣下としていることに対する天の怒りではないかとその僧は恐れていたのです。

  「いと奏しがたく、かへりては罪にもやまかりあたらむと思ひたまへ憚ること多かれど、しろしめさぬに、罪重くて、天の眼恐ろしく思ひたまへらるることを、心にむせびはべりつつ命終りはべりなば、何の益かははべらむ。仏も心ぎたなしとやおぼしめさむ」とばかり奏しさして、えうち出でぬことあり。

 言い淀みながら打ち明けた老僧の話を聞いて、衝撃を受けた冷泉帝は、まだ十四歳という若さでもあり、動揺を隠せません。翌朝、お具合が悪いと聞いて見舞った源氏に、譲位したいと申し出て、驚かせます。帝が秘密を知ったのではと思った源氏は、手引きをした女房から漏れたか、と彼女を追及しますが、勿論彼女は何も知りません。帝はあれこれ悩み、せめて太政大臣の位を、と申し出られたのですが、源氏の君はそれも断りました。すると、今度は親王になるようにとの仰せです。これも源氏は断りますが、これまでとは自分に接する帝の態度が違って来たこととも考えあわせて、何らかの経緯によって、帝が真実をお知りになったのだということを確信したのでした。結局、この七年後に准太上天皇という、本来ならば帝の位を経たものにしか与えられない最高の地位を源氏に授けたことで、ようやく帝は心の荷を下ろしたのでした。
 さて、秋になって、斎宮の女御、例の、絵合せで勝った六条御息所の娘ですが、彼女が源氏の君の二条院に退出してきました。源氏の養女のような形で入内しているので、里帰りは二条院になるわけです。源氏はお部屋を美しく整えてお迎えします。そして、斎宮女御の元を訪れ、父親ということで、部屋の中までずかずかと入っていきます。たいそうオシャレしています。原文で読みましょう。

  斎宮の女御は(略)秋ごろ、二条の院にまかでたまへり。寝殿の御しつらひ、いとど輝くばかりしたまひて、今はむげの親ざまにもてなして、あつかひきこえたまふ。秋の雨いと静かに降りて、御前の前栽にいろいろ乱れたる露のしげさに、いにしへのことどもかき続けおぼし出でられて、御袖も濡れつつ、女御の御かたにわたりたまへり。こまやかなる鈍色の御直衣姿にて、(略)尽きせずなまめかしき御ありさまにて、御簾のうちに入りたまひぬ。御几帳ばかりを隔てて、みづから聞こえたまふ。

 几帳だけを隔てて源氏は亡き御息所の思い出話をしたりするのですが、そのうち、源氏は次第に女御に対する気持ちを抑えがたくなります。「あなたに対する並々ならぬ思いを抑えての親代わりだということをおわかりでいらっしゃいますか。せめてあはれの一言でもいただかなければ、お世話の甲斐がありません。」などと言ってしまい、女御は、お返事もできかねて引いている気配です。その反応に、さりげなく春秋争い、春と秋とではどちらが好ましいかという話題に話を転じ、女御にどちらを好むかと聞きます。すると女御は戸惑いつつ、「母の亡くなった秋がやはり心惹かれます。」答えます。
 その場面を原文で読みましょう。

  (女御)「まして、いかが思ひ分きはべらむ。げにいつとなきなかに、あやしと聞きし(秋の)夕こそ、はかなう消えたまひにし露のよすがにも思ひたまへられぬべけれ」としどけなげにのたまひ消つもいとらうたげなるに、え忍びたまはで、
「君もさはあはれをかはせ人知れず
  わが身にしむる秋の夕風
   忍びがたきをりもはべりかし」と聞こえたまふに、いづこの御いらへかはあらむ、心得ずとおぼしたる御けしきなり。このついでに、え籠めたまはで、怨みきこえたまふことどもあるべし。今すこしひがこともしたまひつべけれども、いとうたてとおぼいたるもことわりに、わが御心も、若々しうけしからずとおぼし返して、うち嘆きたまへるさまの、もの深うなまめかしきも、心づきなうぞおぼしなりぬる。やをらづつひき入りたまひぬるけしきなれば、「あさましうも疎ませたまひぬるかな。まことに心深き人は、かくこそあらざなれ。よし、今よりは、憎ませたまふなよ。つらからむ」とて、わたりたまひぬ。

 源氏はなんと「秋風が身に沁みるのは私もおなじです。秋のさびしさを私と慰め合いましょう」などと言い、さらにこの際とばかりに、色っぽいことを言って近づこうとしたものですから、女御はうとましく思ってすーっといざり去って部屋の奥に逃げてしまいます。当然です。中年のおじさん、父親がわりの人に言い寄られては困惑もし、気持ちも悪い。女御は、源氏の君が立ち去った後の残り香までいやらしく感じています。
 源氏のほうは、自分の部屋に戻って横になり、まだ自分にもこういう無理な恋に胸をこがすようなところがあったのか、と感慨にふけり、若いころなら許されたかもしれないが、今さら、こんな恋は許されまいと反省もしたのでした。女御は実の息子の妻であるわけですから、許される恋ではありません。そうして反省した後では、自分でも、若いころとは違って自制心を持つようになったなと自分に感心しもしています。
 そう、源氏ももう若くはないのです。この斎宮女御との一件は、若くはない自分というものを初めて彼が認識する契機ともなったのでした。




文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「変遷」2021年9月3日配信

YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗