三、みづら

桐壺

みづら

  この君の御童姿、いと変へま憂くおぼせど、十二にて御元服したまふ。

 原文にはこう書かれていて、帝は源氏の君のいとも愛らしい童姿を変えることには気がおすすみにならなかったけれど、十二歳になられたことから、元服の儀式をなさることになりました。たいそう盛大なものでした。
 当時は、男の子も、元服するまでは女の子と同じように、伸ばした髪を振り分け髪にして垂らしていて、宮中に参内するなど、正式な場に出る時は、左右に分けて耳のところで輪にしていわゆる「みづら」と言う髪型をしていました。埴輪に見られるあの髪型ですね。
 元服すると、大人の男子として、頭には冠または烏帽子を被り、髪はその中に入れ込むことになります。帝は源氏の君が姿を変えられて、見劣りするのではないかと心配なさったけれども、かえって一層愛らしさが増したと書かれています。原文を少しご紹介しましょう。

  かうぶりしたまひて、御休み所にまかでたまひて、御衣たてまつりかへて、おりて拝したてまつりたまふさまに、皆人涙おとしたまふ。帝はた、ましてえ忍びあへたまはず、おぼしまぎるるをりもありつる昔のこと、とりかへし悲しくおぼさる。いとかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしくおぼされつるを、あさましううつくしげさ添ひたまへり。

 正装してご挨拶なさる源氏の君のお姿の素晴らしさに、並み居る人々もみな感動の涙を流したとあります。まして帝は、亡き更衣のことも思い起こされて、喜びと悲しみの混じった感涙に咽ばれたのでした。
 さて、この当時は元服すればすぐにも結婚というパターンも多かったようです。親同士の決めた一種の政略結婚です。帝は、この、全く後見のない御子の将来を考えて、左大臣から打診のあったのを幸いとして、左大臣家の一人娘葵の婿とすることをお決めになりました。実はこの娘には以前、春宮側から入内の話がありました。普通なら、飛びつく話です。春宮は前にもお話した弘徽殿女御という方のお産みになった第一御子です。この弘徽殿女御というのは右大臣家の長女です。右大臣家系の春宮と左大臣家の娘が結ばれて、そこに子供が生まれれば、将来は、両方の大臣家に支えられた盤石の御世が到来するという事になります。
 しかし、あろうことか、左大臣はこの話を断りました。彼は前々から第二御子の源氏の君を婿にと心に決めていたのです。左大臣の北の方は帝と母を同じくする妹君で、帝は元々右大臣よりも左大臣への信任が厚かった上に、最愛の御子との縁組となれば、自然、天下の風向きは左大臣側に寄ったのでした。右大臣家にとっては苦々しい結婚でした。
 こうして源氏の君は左大臣家の婿として迎えられたわけですが、左大臣家に通うことはまれで、宮中でおすごしになることが多かったのです。元服してからは御簾の内に入れて貰うことはできなくなったけれども、藤壺女御のお近くに居て、せめてお声でも漏れ聞きたいという思いもありました。妻となった葵上は、いかにも高貴な姫君らしく整った方ではあったけれど、藤壺と似た所は全くないお方でした。源氏の君の心を占めているのは相変わらず義母藤壺だったのです。その辺りを原文でご紹介しましょう。

  源氏の君は、上の常に召しまつはせば、心やすく里住みもえしたまはず。心のうちには、ただ藤壺の御ありさまをたぐひなしと思ひきこえて、さやうならむ人をこそ見め、似る人なくもおはしけるかな、大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかずおぼえたまひて、幼きほどの心ひとつにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。大人になりたまひてのちは、ありしやうに御簾のうちにも入れたまはず。御遊びのをりをり、琴笛の音に聞こえかよひ、ほのかなる御声をなぐさめにて、内裏住みのみこのましうおぼえたまふ。五六日さぶらひたまひて、大殿にニ三日など絶え絶えにまかでたまへど、ただ今は幼き御ほどに、罪なくおぼしなして、いとなみかしづきたまふ。

 宮中に五六日いて、左大臣家に退出してニ三日過ごすと言った状態でしたが、左大臣は源氏の君がまだお若いということに免じてそれをお咎めになる事もなく、ただただ大切にお世話なさったとあります。この当時は婿とり婚で、結婚すると、婿が嫁の家に通ったり住み着いたりしますそして、嫁の実家が婿の御召し物など身の回りの物はすべて用意します。左大臣家では、きっと衣裳なども素晴らしいものを用意して源氏の君を大切な婿としてもてなしたことでしょう。そして、一二歳の少年にとってその嫁の家はさぞかし窮屈だったことでしょうね。
 そんなわけですから、藤壺のことが仮になかったとしても、源氏の君にとっては宮中の宿直所で、同じ年頃の若者たちと話しながら過ごすほうがずっと気楽で楽しかったことは容易に想像されます。
 そんなある夜のことが原文に書かれています。雨夜の品定めと呼ばれている一くだりです。ある雨の夜、宿直所で源氏は仲の良かった頭中将らの青年仲間と一晩語り明かすのですが、若い彼らのことですから、話題はもっぱら恋愛と女性のことでした。それぞれが自分の体験に基づいた女性論を展開しているのですが、一番若い源氏はもっぱら聞き役に徹しています。恋の道の先輩たちの話を拝聴しているという格好です。この夜の論議がなぜ雨夜の品定めとよばれているかと申しますと、彼らの論議がどの品、つまり身分ですね、どの身分階級に属する女性に魅力的な人がみつかるかという話になったことによります。頭中将の言葉を少し引用しましょう。

  「人の品高く生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひこよなかるべし。中の品になむ、人の心々、おのがじしの立てたるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。下のきざみといふ際になれば、ことに耳たたずかし」

 身分高く生まれた女性は、おおぜいの侍女たち(原文では侍女のことを女房と呼んでいますので、これからは、女房と言いますね)に守られて欠点も隠れ、自然にみな同じような素晴らしいお嬢さまに見えてしまう。それにひきかえ、中流の身分の女性の場合はそれぞれの気質や生き方についての考えもわかり、その人柄というものもわかるものだ、また、あまりにも身分低い階層は問題にもなるまい、とまあこんなことを言っています。
 その後、中の品とは具体的にはどういう身分のことか、元々の身分は低くても、なり上がったものや、逆に高い身分のものが落ちぶれて貧しい暮らしをしていたりするのはどう考えるのかと論議になるのですが、受領階級はまさに中の品であるが、その中にもかなりな家柄のものもあるとか、今ではすっかり落ちぶれて葎の宿となったような屋敷に意外にもすばらしい姫君を発見出来たらそれこそおもしろいのではないかとか若者たちの話はどんどん盛り上がって朝まで続いたのでした。
 その翌日、源氏は久々に左大臣家に退出しました。ところが、夜になって、方違えをしなければならないことがわかり、近くお仕えしている者のすすめで、紀伊の守の屋敷へ泊りに行くことになりました。その屋敷には、たまたま紀伊の守の父親の後妻、つまり義理の母が滞在していました。受領階級ですからまさに中の品、前夜話題になっていた中流階級の女性です。その女性、後に空蝉と呼ばれることになる人に源氏の君は興味を抱きました。
 さて、その女性との物語は次回に回すことといたしましょう。

文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より