十一 、復帰

明石、澪標

復帰

 源氏が須磨へと去った翌年ごろから、京では様々な天変地異が相続きました。挙句は朱雀帝が目を病み、弘徽殿大后も病の床につくといったことも起こりました。世の人々は、これは何かの祟りに違いないとささやき合い、朱雀帝も、父に叱責されるという夢を見たりしたことから、この様々な凶事は自分が父の遺言に背いて源氏の君を排斥したことが原因なのではないかと思うようになりました。そして、年が明けてから、帝はついに母弘徽殿大后に背いて、源氏召還の宣旨を出すことを決意したのでした。七月二十余日、いよいよ京から召還の宣旨が届いて、源氏の二年数ヶ月の須磨明石の暮らしにピリオドが打たれることになったのです。明石の君は悲しみに沈み、源氏自身と、明石の君の周囲は、喜びと悲しみの入り混じった複雑な気持ちでした。原文で読みましょう。

  つひのことと思ひしかど、世の常なきにつけても、いかになり果つべきにかと嘆きたまふを、かうにはかなれば、うれしきに添へても、また、この浦を今はと思ひ離れむことをおぼし嘆くに、入道、さるべきことと思ひながら、うち聞くより胸ふたがりておぼゆれど、思ひのごと栄えたまはばこそは、わが思ひのかなふにはあらめなど、思ひ直す。そのころは夜離れなく語らひたまふ。六月ばかりより心くるしきけしきありてなやみけり。かく別れたまふべきほどなれば、あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれにおぼして、あやしうもの思ふべき身にもありけるかなとおぼし乱る。女は、さらにも言はず思ひ沈みたり。

 この年、六月ごろから明石の君は体に変調をきたしていました。源氏の君の子を宿していたのです。急に京に戻れることになり、源氏は嬉しさを噛みしめる一方で、わが子を宿した明石の君を残して行かねばならぬことが辛くてたまりません。予期せぬことではなかったけれど、源氏の退去が現実になると、明石の君の親たちは不安で真っ暗な気持ちです。源氏の君が京に返り咲くことは喜ばしいことではありますけれども、娘の悲しみを見るにつけても、父入道も、もしこのまま捨て去られることになってしまったら・・・・と不安でたまりません。胸も張り裂ける思いでした。源氏の君は再会を誓い、愛用の琴を形見として明石の君の元に残して京へと去って行きました。
京に帰り着いてみると、二条院では美しく成長した紫の上が、こちらは喜びの涙で彼を迎えたのでした。原文で読みましょう。

  二条の院におはしましつきて、都の人も、御供の人も、夢のここちして行き合ひ、よろこび泣きもゆゆしきまで立ち騒ぎたり。女君も、かひなきものにおぼし捨てつる命、うれしうおぼさるらむかし。いとうつくしげに、ねびととのほりて、御もの思ひのほどに、所狭かりし御髪のすこしへがれたるしも、いみじうめでたきを、今はかくて見るべきぞかしと、御心落ちゐるにつけては、また、かの飽かず別れし人の思へりしさま、心苦しうおぼしやらる。(略)かつ見るだに飽かぬ御さまを、いかで隔てつる年月ぞと、あさましきまで思ほすに、とりかへし、世の中もいとうらめしうなむ。ほどもなく、もとの御位あらたまりて、数よりほかの権大納言になりたまふ。つぎつぎの人も、さるべき限りはもとの官(つかさ)返し賜はり世にゆるさるるほど、枯れたりし木の春にあへるここちして、いとめでたげなり。

 二年半近くの歳月を隔てて逢う紫の上はいっそう魅力を増していました。源氏が、どうしてこれまで長く逢わずに我慢できたのかと不思議に思うほどでした。その一方で、明石に残してきた人の面影も浮かぶのでした。やがて源氏の君は元の官職から昇進して大納言となり、一族は皆、もとの位に復し、原文にもありましたように、枯れ木に花が咲いたように華やかさが戻って来たのでした。宮中からもすぐにお召しがあって、朱雀帝が再会を喜び、世の人もこぞって源氏の帰京を歓迎したのでした。

  帝は、院の御遺言を思ひきこえたまふ。ものの報いありぬべくおぼしけるを、なほし立てたまひて、御ここち涼しくなむおぼしける。時々おこりなやませたまひし御目もさはやぎたまひぬれど、おほかた世にえ長くあるまじう、こころ細きこととのみ、久しからぬことをおぼしつつ、常に召しありて、源氏の君は参りたまふ。世の中のことなども隔てなくのたまはせなどしつつ、御本意のやうなれば、おほかたの世の人も、あいなくうれしきことによろこびきこえける。

 父の遺言に反していることで苦しい思いをしていた朱雀帝は、源氏の召還を実現させることができて心安らぎ、眼の病も回復しました。そして、参内した源氏の君としみじみ語り合われたのでした。帝は、春宮の後見役の源氏が復帰した今は心置きなく位を譲ることができるとお考えになっていました。
 こうして恋の狩人たる青年期から権勢家への道を上り始めた壮年期の光源氏の人生第二幕が始まったのです。源氏もすでに二十九歳です。かつては源氏にとって恋がほとんど生きることのすべてでした。しかし、もう、そんな光源氏はここにはいません。恋は生きることの一部、依然として価値を失わないものながら、人生の一部に配置し直されているのです。権力の埒外に一度置かれたことによって、地位を失うことがどれほど自分を無力なものとするかということを骨身にしみて味わい、権力を確実に我が物とする必要を悟ったのです。そして、それは一家の長として、一族を守り、またその繁栄を実現するべき責任を明確に意識した歩みになります。
 翌年、朱雀帝は位を去り、春宮が元服して十一歳という幼さながら、帝の位につきます。冷泉帝、源氏と藤壺の間の御子が、ついに、無事、帝となったのです。後見役の源氏は内大臣に昇格し、辞任していた左大臣は太政大臣に復帰しました。右大臣家は没落し、再び左大臣家の全盛時代となります。多忙な日々の中でも、源氏は明石の君のお腹にできた子どものことを気にかけていました。これは彼女への愛情だけによるものではありません。子どもは次代の権力を握るための大切な駒、ことに女の子なら宝です。無事出産を迎えたかどうかを気にして、誕生の頃を見定めて使いを出しました。原文です。

  まことや、かの明石に心苦しげなりしことはいかに、とおぼし忘るる時なければ、公私いそがしきまぎれに、えおぼすままにもとぶらひたまはざりけるを、三月ついたちのほど、このころにやとおぼしやるに、人知れずあはれにて、御使ひありけり。とく帰り参りて、「十六日になむ、女にて、たひらかにものしたまふ」と告げきこゆ。めづらしきさまにてさへあなるをおぼすに、おろかならず。などて、京に迎へてかかることもせさせざりけむと、くちをしうおぼさる。

 産まれたのは女の子でした。かつて、自分の運勢を占わせた時に相人は「息子の一人は帝の位に、もう一人は大臣に、そして娘は后の位につくであろう」と占いました。源氏は多事多端な日々の中でこの占いのことを忘れていました。けれども、表向きは息子ではないけれども、実は自分の息子である冷泉帝の即位という事実が実現したことから、その占いのことを思いだしたのです。占いに従うならば、この娘は后になるべき星のもとに生まれて来たことになります。前にお話した貴種流離譚の形式に当てはめてみれば、源氏は流謫の地で、次の飛躍に備える力となる娘を獲得して来たことになるわけです。そのような特別な娘を、明石で誕生させてしまったことを後悔し、早速祝いの品々と併せて、乳母を送りました。せめて京の匂いのする人を側に置いてやりたいとの思いでした。そして、出来るだけ早くこちらに迎えようと考えたのでした。当時の感覚では京以外はすべて文化の遅れた蛮地です。大切な姫をそのような土地で育てさせるわけにはゆきません。姫の母親である明石の君が受領階級であるということも、姫にとっては大きなマイナス点です。これらを解決するための策はすでに源氏の心のうちにはありました。それが提示されるのはもう少しあとになります。
 秋になって、源氏は願ほどきに住吉詣でをしますが、たまたま、同じ日に、明石の君も住吉詣でを思い立ってやって来ていました。遠くから華やかな源氏の君の一行を見、その息子夕霧の晴れやかな姿も見て、明石の君は、同じ源氏の君の子ながら、日蔭にあるわが娘を思います。源氏の君からの上洛の要請に応えるべきではないかと心は動いたのでした。
 さて、その頃、御世代わりに伴う斎宮の交代で六条御息所も娘とともに伊勢から京に戻っていました。源氏はお手紙をさしあげたりはしていましたが、あえてお訪ねすることはないままに日が過ぎていました。ところが、ある日、御息所が病重く、髪を下ろされたと聞いて、慌てて見舞に出かけます。御息所と直接話すのは数年ぶりのことでした。
その場面は次の回に譲ることと致しましょう。



文:岸本久美子
【引用】新潮日本古典集成より


次回「絵合」2021年7月16日配信


YouTube動画中の「源氏物語手鑑」につきまして。和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム許可のもと引用しています🔗